信仰と貨幣

夏木郁

信仰と貨幣

 私はとある漫画作品の大ファンです。ここでは仮に『X』としておきましょう。『X』は今年で連載二十周年を迎える人気作品で、アニメ化もされています。

 私が『X』と出会ったのは、小学五年生の秋でした。兄がいつも購入していた少年誌で有名漫画家の新連載が始まりました。それが『X』でした。その漫画家の前作もメディア化されていて、私でも名前を聞いた事のある人でした。

 この漫画では、ここ数年あるBLカップリングが人気を博しているんです。仮にABとしましょう。Aというキャラは第一話から登場している青年で、主人公の兄的存在であり、師匠でもあります。対してBというキャラは三年前に登場した新キャラです。二十年という連載期間を考えれば、かなり歴史の浅いキャラだと言ってもいいでしょう。このBが、登場するや否やたちまち人気キャラになったんです。主な支持層は十代二十代の女性ファンです。『X』はもともと幅広い年齢層に読まれている作品でしたが、BがSNSなどで話題に上ったことで、一気に若い女性ファンが増えた。

 確かに、私もBの事は大好きですよ。敵キャラですが、完全な悪というわけでもなく、関係者以外は絶対に傷つけないという彼なりの正義に従って行動している。例えば、七十八巻で主人公が気絶している間にヒロインを助けてくれた場面なんかは胸が熱くなりました。

 友人の女性によると、大人しいと思いきや、実は気性の荒い男だったというギャップにやられるんだそうです。容姿も端麗ですしね。TwitterでABの漫画やイラストが回ってくるのですが――何万ものいいねが付くので、興味なくても勝手にタイムラインに表示されてしまうんです。どうやら、「気分の浮き沈みの激しく幼稚なところもあるBと、それを受け止める包容力のあるA」という構図が彼女たちにウケているみたいです。

 正直に言うと、私は原作至上主義者なんです。原作に描かれていない事は基本的に全て受け入れられないという立場です。ですからABが話題になり始めた当初は、原作を無視したABというカップリングや、ABを愛好する人たちに嫌悪感を抱いていました。

 そもそもAには十巻から登場している恋愛相手がいるんですよ。ここではCとしておきましょう。AとCは幼馴染で、中学時代から何度もくっついては別れてを繰り返して主人公やヒロインにも呆れられている腐れ縁のバカップルです。原作だと二十一巻あたりは会話も交わさないほど険悪な雰囲気になっていますが、五十巻では一度よりを戻しています。まあ今は別れていますが。ACは原作の中でも時期によって関係性が変わってくるので、そういう曖昧さが原作以外のカップリングを想像させる土壌を生み出しているのかもしれません。

 話を戻しますと、AB派の人が嫌いだったのですが、彼女たちに何かしようという気は全くありません。今では彼女たちに対して負の感情は抱いていませんし、例え

今でも嫌いだったとしても、『X』の価値観に反しますから。それは何よりも避けなければならない事だと思います。

 ABが嫌だったのも、「こんなポッと出のキャラに……」という思いがあったのは否定できません。古株が新参者を良い目で見ないという、よくあるアレですよ。それもあって、あたかも自分が正義であるかのようにABやABファンたちを断罪するのはやりすぎだと自覚しているんです。だから、大々的に止めろと言うべきではないなと判断しています。それはそれとして、子供の頃から共に歩んできた作品を、ポッと出のキャラに奪われたと思ってしまう瞬間もありますけどね。でもその気持ちを彼女たちに押し付けるほど落ち潰れてはいません。『X』の価値観に反しますからね。

 信仰の形が違うというだけで、神として崇める存在は同一です。つまり、『X』や原作者が好きだという気持ちは一緒だ。この事に気が付いてからは、ABの二次創作がネットでバズるたびに彼女たちを呪詛するような行いはやめました。むしろ『X』を愛する同志、仲間と見なすようになりました。変わらずBLもABも苦手ではありますが、もはやAB人気に物申すつもりはありません。今ではABに限らずBL好きな人達には憎いどころかむしろ感謝しているんですよ。多角的な楽しみ方を提示したことで、多くの人々の目に『X』が触れるようになったことは事実ですしね。

 そして、真に許せない存在が何であるかを理解したのです。

 それは、原作至上主義に反する彼女たちの信仰ではありません。私から静謐な信仰環境を奪ったのは、ABファンに媚びるような広報戦略を採用する「公式」という存在だったのです。

 「媚びる」という表現は言い過ぎかもしれません。「ABファンをメインターゲットとした公式広報の在り方」とでも言いましょうか。

 特に下卑ていると感じるのは、「公式Twitterの中の人」です。本当に醜悪なんです。

 最も許せなかった広告は、主人公とヒロインの関係が進展するストーリーが二時間スペシャルとして放送することになった時ですね。確か去年の今頃でした。この場合、当然この二人を中心に据えたプロモーションを仕掛けるものですよね。特別ポスターが制作されると聞いて、どんな風になるかワクワクしていたんです。しかし「公式」は下品にも、ポスターにABを描いた。正確に言えば、主人公たちを中央に配置しつつ、端っこに睨み合うAとBも入れるというものでした。確かに主人公たちの顔を立てるというていではあったし、ストーリーにAもBも登場するので間違ってはいないけど、それでもあんまりだと思いませんか?ABファン層をターゲットにしていたのは明白で、案の定発表当時Twitterでトレンド入りするほど話題になりました。

 しかし、本当にそれで良いんでしょうか。主人公を差し置いて、公式でも何でもないABを持ち上げるような広告を堂々を発表するなんて。ずっと応援し続けていた他のファンの想いは無視されました。私の二十年間は、たった三年の多数派に敗北を喫したのです。

 Twitterを検索しても、私と同じ考えの人はゼロでないにしろほとんど見当たりませんでした。それどころか、ABが特別ポスターに描かれていることを賞賛するABファンの声ばかりが目につきました。私のような意見に対しては、やれ「作品に貴方が合わなくなった」だの、「ターゲットから外れた」だのふざけた言説が流布する始末。

 ネットの大海の中で、私は孤独な漂流者でした。

 彼女たちの声は大きい。何せ母集団が巨大なので、話題になりやすいし、実際グッズやDVDも良く売れる。だから「公式」は「マジョリティ」の彼女らの声を拾い、「サイレントマジョリティ」の声は無視される。

 ……突き詰めれば、憎いのは貨幣ですよ。貨幣という財産を所有することでより多くのモノやサービスを手に入れて生活を豊かにすることができる社会が憎い。貨幣が私の信仰を汚染した。

 「公式」は利益を出すことを行動原理としています。資本主義の世の中、それが企業活動の基本理念です。だから「より売れる方法」を広報戦略として採用するのは当然の帰結です。それは理解できる。彼らにも生活がある。グッズが売れればグッズ制作会社が儲かる。他の企業とコラボすればその企業が儲かる。資本主義において金儲けは正義です。それでも、あまりにも……。「中の人」は金に目のくらんだ拝金主義の犬だ。彼の卑俗な精神性に、声なき声は傷つけられてきた。

 自分の信仰の在り方が蔑ろにされている気がしたんです。自分のツイートにどれだけの人間が一喜一憂させられているかも知らず、ABに寄せた広告を垂れ流す「中の人」への憾みは日に日に増していきました。

 私たちは共存しようとしていた。BLが見たくないならミュートでもブロックでもすれば良いし、彼女たちにしたって、「検索除け」して私たちの目に入らないようにしてきたんです。何万もバズってしまったらそれも意味を成しませんが、ある程度なら棲み分けが出来ていた。その努力を踏みにじったのはほかならぬ「公式」です。


 何故『X』を好きになったか?一言では語りきれません。『X』の事なら一年でも二年でも話し続けられます。でもあえて一言で言うなら……「誰を主人公に置いてもストーリーが成立するほど魅力的な登場人物たち」と「復讐心に惑わされて相手を傷つける者は愚かだという主人公の価値観」でしょうか。先ほどから私が何度も申し上げている「『X』の価値観」というのは、後者のことです。物語に通底する理念を、私は己の行動指針としています。

 両親や恩師、あるいは友人や恋人……そのような大切な人の言葉や考え方に影響を受けることで、いつのまにか自分の核となる価値観を形成していたという経験はありませんか?『X』の価値観に従って生きているのも、私が努めてそうしているのではなく、自然と人生の一部になっていたからなんです。「信仰」という言葉も、そういう文脈において使用しています。私にとって、『X』とはそういう存在です。

 主人公は花色周はないろめぐるというやんちゃ盛りの中学二年生で、人間に取り憑く物の怪を封印する「封印師」になるべく修行中の身です。彼の父親も封印師で、日本で三本の指に入ると言われた実力者でしたが、めぐるが八歳の時、物の怪との闘いに敗れ命を落としてしまいます。しかし少年は復讐心に惑わされることなく、世界平和のために父親を超える最強の封印師を目指します。


 ここまで話せば、私に対して鈍感な貴方にも分かるでしょう。『X』とは、絵舟えふねりの先生の代表作『MEGURU』のことです。貴方が出版社の広報担当として、公式Twitterの中の人を務めている『MEGURU』ですよ。

 そしてABは何の事だと思いますか?――「如美きさみは」。正解です。

 、「如美きさみは」というBLカップリングは『MEGURU』の中で最も人気があり、覇権的な存在です。周の兄的存在であり、「封印師」の師匠でもある二十五歳の青年・如月七瀬きさらぎななせ。周の学校に司書教諭として赴任してきた美浜久遠みはまくおん、その正体は物の怪のシズカ。かつて七瀬が封印したはずだったが自力で封印を解くほど強力な力を有し、七瀬に再対決を挑むため人間界に舞い戻ってきた。そんなワケアリな関係の二人を恋愛関係に見立てたカップリングですよね。


 さあ、弁明することはありますか?私の話を長々と聞いていただいたのですから、次は私が清聴する番です。どうぞ。

 ……ああ、どうか安心してください。どんな事でも構いません。私を批判する内容であっても怒ったりしませんから。貴方が本当に思っている事を、忌憚なくお話してほしいのです。

 何度も申し上げているでしょう。貴方の身体に危害を加えるつもりは毛頭ありません。めぐるの価値観に反しますから。

 話が終われば貴方を開放するとお約束しますし、何なら後で警察に通報しても構いません。元々自首するつもりですが。

 それでは、貴方の弁明を聞いてあげましょう。


* * *

 

 そう言うと、男はソファに深く腰掛けた。先ほどとはうってかわって沈黙が密室を支配する。一時間前、出社したところをこの男に捕まり謎の密室へ連れてこられた。捕まったと言っても、俺が企画提案した二時間スペシャル特別ポスターに感動したのでぜひともお礼がしたい、一杯奢りますからという言葉に釣られて付いて行っただけなので、誘拐というほどの事ではないし、警察も取り合わないだろうが、とにかく本人の中では誘拐という大それた事をしでかしている感覚らしい。馬鹿で身勝手な思想をまき散らす誘拐犯に話すことなどこれっぽっちもなかったが、出版社の社員として、そして漫画家を支える者として二十年以上真面目に働いてきたのを「拝金主義の犬」呼ばわりされたのではたまらない。警察に突き出す前に、こいつの思い込みを壊してやるのも良いかもしれない。


「君は『MEGURU』公式の広報戦略、それを決定している中の人――つまり僕のことを嫌っているというわけだ。」

 男は右眉を吊り上げただけで、返事をする気配はない。あくまでも「清聴」に徹するつもりらしい。

「拝金主義の犬という言葉だが、まるで金儲けが悪い事のように聞こえるね。」

 企業には利潤を追求し社会に貢献するという役割がある。その正当な役割を果たしているだけ。世のため、人のため。如美きさみはファンを重視する広報も、別に社会道義に外れた事ではない。ただ需要に応じて供給を変えているというだけのことだ。金を出さない人に商売方法に対して誹謗中傷を受ける筋合いはない。

 そもそも、と俺は続ける。

「貨幣を是認しながら貨幣を批判するのは自己矛盾じゃないのかい?君は新刊をどこで買う?例えば駅前の書店だったり、近くのコンビニだったりするわけだが、それは企業活動、つまり金儲けの恩恵に預かっている。君の『MEGURU』への信仰は、貨幣を基盤として成立しているんだ。そしてその信仰が、貨幣によって妨害されていると僕を非難する。」

 静謐な信仰環境を守るために、信仰の基盤そのものを否定しなければならないという矛盾。

 彼の顔を見ると、図星だったと言わんばかりにこわばっていた。若者相手に少し言い方がきつすぎたかもしれない。


「そんなに嫌いなら公式アカウントをブロックでも何でもすれば良いじゃないかい?君がABファンのアカウントをブロックしているように。」

「公式アカウントをフォローしない生活をしろと?このネット社会において?公式アカウントで色んなイベントを宣伝する世界において、一喜一憂する楽しみを奪うのですか。対応策も何も考えず私にだけ我慢しろとおっしゃるなら、それは構造上の暴力だ。」

「暴力だなんて大げさだね。君が原作に忠実な広報が見たいという権利と、企業が利潤を追求する権利、この両者が相克している。残念でした、というだけの話だと思うけどね。」

「いいえ。私と貴方の権利は異なる性格のものです。力の非対称性という点において。」

 公式アカウントは性質上「神=原作者の声」を代弁すると見なされる。個人との圧倒的な影響力の差が、構造上の暴力という不平等を生み出している。「公式」が如美きさみはを重視すれば、それが「神」が重視することとなる。その結果、原作至上主義の信仰が相対的に差別されるのだと彼は主張した。

「貴方が構造上の暴力を創り上げた。私は徹底して貴方に抵抗します。」

「徹底して抵抗してどうする?私が中の人を辞めても、代わりの人が同じことをするだけだ。」

「可能性がゼロでない限り、次の人に賭けるのも良いでしょう。」

「どうだろう。君が満足する中の人とはどういう存在なんだい?」

「神――絵舟先生の声を最も正確に反映しうる存在です。」

「それなら、わが社で最も君の理想に近いのは僕だと断言するよ。」

 彼は意味が分からないと言いたげな表情だが、続きを聞く姿勢を見せていた。

 俺がそう言うのには理由がある。二十年前、『MEGURU』の連載が始まった頃、俺は新人同然の営業部員だった。その時回された仕事が、『MEGURU』第一巻の宣伝営業だったのだ。ヒット作を生み出した絵舟先生だったが、当初『MEGURU』の反応は思わしくなかった。第一巻の売上は、『MEGURU』の行く末だけでなく、わが社全体の命運も決めることだった。そして絵舟先生、編集者とともに必死で考えて何とか重版に繋げることができた。今の『MEGURU』があるのも、あの時先生とともに頑張ったからだという自負がある。そして俺に公式アカウントの運営を任されているのも、先生が俺を信頼して指名してくれたからだ。

「だから如美を推すのも、先生のご意思なんだ。」

「先生が?馬鹿な……」

「先生は、『MEGURU』をより多くの人に届けることで、より長く連載を続けることを第一に考えている。だからこそ、BLでも何でも受け入れるし、それが宣伝に役立つのなら利用しようという考えなんだ。僕もそれを理解して運営している。」

「長く連載を続ける……先生がそんなことを……」

「そうすれば君にとっても良い事だと思うんだけどね。君のためにやっているともいえる。」

 長く連載を続けて最も大きな恩恵を受けるのは、彼のような人間だろう。先ほどは感情に任せてきつく当たってしまったが、個人的には信仰と貨幣は決して真っ向対立する存在ではないと思っている。

「そろそろ帰ろう。もう九時だ。別に警察に突き出すつもりはないよ。何かされたわけでもないし。」


「これからも公式Twitterを見ていますから。」

と、彼は言った。

「それは警告かな?それとも、挑戦?」

「貴方の解釈にお任せします。応援しています。」

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信仰と貨幣 夏木郁 @Natsukiiku

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