まず、構成が面白かったです。「レビューか何かかな?」と思いつつ読み進めていくと、語り手が最も憎んでいる人物がこの話の聞き手であることが分かったところは意外性があってよかったです。ある意味で叙述トリックのような面白い工夫でした。また、最後にあっさりと原作ファンが(言葉足らずな表現で申し訳ないのですが)折れてしまうという結末がよかったです。あれだけ言葉厳しく責め倒していたのに、原作者――つまり、彼の言うところの神の声を代弁していると聞いて、すんなりと折れてしまうのは、お題である彼の『信仰』の強度が計り知れないものだったことを体現していました。ですから、原作信仰の狂気を上回る原作者信仰の狂気で物語が結末を迎えたとしても、それ自体は不思議と腑に落ちるんですよね。
作品を作るのは作者であり、それなくして作品は成り立たず世に生を受けることもない。しかしながら産み落とされた作品は作者の手を離れて世間の目に晒されることとなり作品のアイデンティティの一部に作者以外の他者が介在し始める。この時、作者ではない、つまり鑑賞者がその期待を込めて作品の意義を構築する場合がある。自身の理想が肥大化し、仮にそこから反する流れとなれば「裏切り」だと判断するのだ。
夏木さんの書かかれた小説で、冒頭からレビュー調に語り始める人物は原義に近いfanと言える。故に期待しない筋書きは憎悪となり、その対象は同じくファンに向けられた。意見の食い違いから彼らを否定したが、やがて間違いであったと結論し、次いで公式、つまりはこの『X』と称した作品に携わる運営側を責め立てる。ファン達を惑わす元凶はその方針を担う者であると。果てはそれが現代社会における根幹のシステムにまで向くのだが、ここでテーマについて考えてみると、語り手の信仰が『X』から己の理想像にシフトしていることに無自覚であると分かる。反省がないわけではないがあくまで責任は他者にあるとする。物語はそこから展開し対話へと流れ込むのだが、声が二つになることでそれまで強度を信じて疑わなかった語り手だった者が綻びを見せ始める。ここで示されるのは「独りの世界ならば誰しもが強者でいれる」というありきたりな事実である。だからこれが冒頭のままレビューだったなら語り手は勝てるゲームだった。「サイレントマジョリティ」みたいな表現から透けてみえる強がりも罷り通ったはずである。ところが声を届けてしまった。それも実に不恰好なやり方で。案の定それまで敵視していた相手から与えられた情報で怯んでしまう。『X』の作者の姿勢、これが作者自身の願いとされただけで本質は憎むべき理論と変わらないのに簡単に絆されてしまう。やはりこの者はfanである。憎悪とは何だったのか。狂信が理性の前に敗残することは常理のようで空恐ろしくも思う。解釈に任せる、そんな頼りない台詞で物語は声を失っていく。