銀色の野犬

木谷日向子

第1話

  蝉が鳴いている。

 昼の暑い空気が、道場の中へと入り込む。湿ったそれは木製の道場をじんわりと濡らす。

 そこにいる三人の人間も共に。

 山田陽子やまだようこは、陶器のような白い肌に湿りを感じ、眉をひそめた。だが、拭っている暇もない。

 あとふたりは、彼女の父で師範である山田三蔵やまださんぞう

 そして、紺の袴を着て正座している彼女の前に、間隔を空けて座る三蔵の弟子の、車谷朔哉くるまだにさくやである。人よりも色素のうすい、老人のような白髪。だが、縮んではおらず、ほどよい水分をふくんだその髪は、彼の切長の瞳を持つ白い面とよく似合っていた。 

 陽子は瞳をうっすらと閉じ、自分と向き合うこの男を静かに見る。

 互いに利き腕の右手に、木刀を持っている。切先を下げていたが、三蔵の合図で中央に構えた。糸のようにぴんと張っていた緊張の糸が切れ、左足を少し下げると、陽子は朔哉に向かって走り出した。

 かん、という気持ちの良い音が道場に響く。ふたりの木刀が打ち合う音だ。

 陽子は上段から構え、朔哉の上に木刀を落とす。

 朔哉は、陽子の木刀を受ける。

 両者は鍔迫り合いになる。

 陽子は手首がびりびりと痺れるのを感じた。

 陽子は肩と二の腕に力を込めると、そこを力の支点にして、ぐっと力を込めた。だが、朔哉の木刀は微塵も動かない。彼女の額に汗の粒が浮く。食いしばった歯から、八重歯が覗く。

 向かい合う朔哉の腕の力がふっと抜けたのを感じた。


(やったか)


 陽子がそう思った刹那、ふたたび朔哉の腕の力が強まり、彼女の木刀を強く押し返した。


(くっ……!)

 

 陽子は力を弱め、足を半歩下がらせると、たじろいだ。

 朔哉との間が空く。

 陽子の鼻先に、木刀の切先が突きつけられる。

 目の前の木刀が、夕日に赤く染まっている。それを陽子はまばたきもせずに見つめ、その場で尻餅をついた。自分の体が硬直しているのがわかった。

 朔哉は陽子に木刀を突きつけたまま、息を吐いて彼女を見下ろしてきた。

 陽子は、木刀から目を逸らし、朔哉を見つめた。

 

「そこまで」


 三蔵の野太い声が、道場に響いた。陽子の小柄な体にも、その声は射抜く弓のようにこだまする。

 頬を叩かれたように、陽子は三蔵の方を見た。

 動きを止めて、自分が大量の汗を全身にかき、荒い息をついていることに気づいた。

 朔哉も三蔵の声で、陽子に向けていた木刀をすっと下ろす。そして、真顔で師のほうを見た。

 腕を組んだ状態で、ふたりの間にゆっくりと三蔵が入ってくる。しっかりとした足どりは、彼の体の重みを感じさせた。道場に足音が等間隔で響く。

 ふたりは息を呑んだ。

 三蔵は立ち止まると、足を肩幅まで広げ、仁王立ちになった。彼の背から夕陽が差し、逆光となる。表は黒い影となった。

 太い眉を寄せ、険しい顔をしていたが、朔哉のほうを見ると目元をやわらかくした。


「朔哉。強くなったな」


 朔哉は最初、何を言われたのか分からず、驚いて瞠目していた。だが、氷にひびを入れられたように、はっと動くと、体をくの字に曲げて頭を下げた。


「……ありがとうございます。師範」


 朔哉と三蔵の間に、やわらかな空気が生まれる。

 陽子は呆然とふたりを見ていたが、慌てて立ちあがった。


「お父様、ごめんなさい。朔哉がこんなに強くなってるなんて、思わなくて」 


 三蔵は微笑みながら陽子を見る。


「昔は陽子のほうが強かったからな。だが……」


 そして、ふたたび視線を朔哉に戻した。


「朔哉はここ二年で急に伸びた。体が大人の男になったのもあるが、毎日の鍛錬の積み重ねの成果だ」


 朔哉は口をゆがめ、うつむいた。

 涙をこらえているのだろうと、陽子は彼のつむじを見ながら思った。


「ありがとうございます」


 陽子と朔哉は目を合わす。

 そして互いに微笑んだ。



 夕焼けが、頭だけを申し訳程度に出し、その赤いひかりが、青い空の色と混じって辺りが一面の紫に染まった頃。

 陽子との試合を終えた朔哉は、井戸の周囲で半裸になって膝をつき、桶の水を汲んでいた。

 彼のなめらかな裸体に、健康的な汗のつぶが生まれては流れてゆく。

 夕暮れの紫は、そんな彼の裸体も同じ色に染める。道場の他の男よりも色の白い朔哉の体は、簡単に強い色に染められてしまう。だが、彼も山田道場で己を鍛える男のひとり。白い体はひ弱さを見せず、しっかりとした筋肉をまとっている。その筋肉の影に、空よりも濃い紫が、くっきりと描かれる。

 井戸に落とした縄を引くと、濡れた桶には清潔な水が汲まれていた。

 朔哉は舌なめずりをして、少し腰を屈めると、水を頭から被った。


(気持ちいい)


 火照った体が、やわらかく冷やされてゆく。五体に流れる血流まで鎮められてゆくようだった。瞳を閉じ、うっとりとした満足な顔をしていた。


「朔哉」


 玲瓏な声が、彼の背後から聞こえた。

 朔哉は声のしたほうを振り向く。

 そこには、蜃気楼のような紫に浮かびあがる、陽子の姿があった。手には布巾を持っている。やわらかな笑みは、春の女神のように見えた。


「こちらへ、おいで」


 朔哉は立ちあがり、陽子の元へゆっくりと進んだ。

 上半身は剥き出しの裸。雨に濡れたような姿に、陽子は物おじすることなく両手を伸ばした。

 そして、朔哉の下ろしていた髪を、赤子を抱くようにやさしく拭いた。

 朔哉は恥ずかしそうにうつむく。

 陽子の笑みは、より一層濃くかがやいた。



 翌日は気持ちの良い晴れであった。雲ひとつないその紺碧は、陽子の心を映しているようで、彼女は鼻歌を歌いながら木刀を担ぎ、歩いていた。暑さも昨日よりはやわらぎ、どこか秋のおとずれも感じさせる。これからやってくる透明な涼しさに期待を抱きながら、瞳を閉じて上を向いていると、鼻腔にひんやりとした、ほどよい風がふれた。

 道場の門の前まで辿り着くと、門下生たちがざわついて集まっているのを発見した。

 陽子は笑みを消して一度立ち止まると、駆け出して彼らへ近づいてゆく。


「お嬢さん!」


 誰かが陽子を見て、蒼白になった。そして、皆なんと彼女に声を掛ければ良いのか分からない、といった顔をしている。

 陽子は嫌な予感が胸を押し寄せ、門下生の群れに割って入っていった。

 そして、そこに何が置かれていたのか認めると、瞳を大きく開き、両手で口を覆い、膝から崩れ落ちた。

 三蔵が、腹から血を流して倒れていた。その血の色は、あざやかなものではなく、時間が経過した黒いものだった。


「父上!」


 陽子は泣き叫びながら三蔵に寄り添い、彼の体にふれる。そのつめたさにぞっとした。ふるえる手を動かし、彼の顔に触れる。死後硬直が始まっているのは、あきらかであった。


「父上……。父上……」


 陽子は変わり果てた姿となった三蔵の上半身を起こすと、ゆっくりと抱きしめ、その肩に顔をうずめて泣いた。まぶたを閉じると、父と過ごしたおだやかな日々が走馬灯のように彼女の脳裏を駆けめぐった。

 門下生たちはその様子を切ない顔で見下ろしていたが、やがて皆の中に怒りが湧きあがった。この理不尽で不可解な殺害は、誰が引き起こしたというのか。

 ひとりの門下生が怒りをあらわにした顔で、周囲を見渡す。


「誰だ。誰がやった」


 すると、そばにいた門下生が、震えるこぶしを握りしめ、くちびるを噛んだ。

 このことを言うか言わないか悩むように眉間に己の指を触れさせる。自分でも今から言うことが、真実なのか信じられない、といった面持ちだった。

開いたまぶたから覗く瞳が、鈍くひかっていた。


「……俺は見た。昨日の夜、朔哉が血まみれんなって、門から出てくるのを」


 陽子は、はっとした。そして、抱いていた父の遺体を丁寧に戻すと、血の気のない顔で、後ろを振り返った。


「それ……、どうして」


「……そういや俺、聞いたことがある」


 陽子はまだ発言していなかった門下生の男を見上げる。

 その門下生は、額の汗を手の甲で拭い、うつむいた。蒼白な顔をしている。

そして陽子を見下ろす。彼女のまっすぐな瞳に物おじしたのか、ためらうように口を開けたり閉めたりしながら、ようやく発言した。


「車谷は、何度か山田師範に陽子お嬢さんを嫁にしたいと申し出ていた。しかし何度申し出ても断られていた」


 陽子は瞠目し、時が止まったように動かなくなった。


「……昨日の夜も、そういった口論が聞こえたような気がする……」


 その話を聞いた他の門下生が、思い出したように口を開いた。

 陽子の周囲が、白くなってゆく。

 手足の感覚がなくなってゆく。

 視界がゆれる。

 うつむき、まぶたをきつく閉じる。しばらくして瞳をふたたび開くと、何かを決意したひかりをその眼に宿す。鈍く青いひかりだった。

立ちあがり、門下生たちの間をくぐり抜けると門の外へ駆けていった。

 門下生のひとりが「お嬢さん」と陽子を呼び、引き止めようと彼女の背中に手を伸ばしたが、空をかいただけで、それが細い背中に届くことはなかった。


 川辺に夕日が落ちかけており、周囲が橙色に染まっている。

 陽子は紫に染まる空と今を対比していた。

 川辺には悪鬼のように血まみれで歩いている朔哉の姿があった。上半身を少しばかり屈め、ゆらゆらと陽炎のように頼りなく歩いている。

 陽子は凛とした足取りで彼に近づいた。


「朔哉」


 朔哉は、ゆっくりと後ろを振り向いた。その顔は、乾いた返り血で黒く汚れていた。彼のうつくしかった白髪にも、血の跡がこびりついている。

 人ひとり分の間が、彼らの距離だった。

 陽子は眉を寄せた。まなじりが小刻みにふるえているのがわかった。その場でうずくまって泣き出したかった。父の返り血を浴びた朔哉など、見たくなかった。だが、陽子はすべての感情を消したような表情で、朔哉を睨んでいた。まばたきもせず、まっすぐに。

それは朔哉に恋するひとりの乙女を捨て、山田道場の長女としての矜持からであった。そして腰に差した黒い刀の鞘に手を添えた。


「お嬢さん」


 朔哉は信じられないものを見たような顔で、ふるえて陽子を見ていた。ゆれる瞳に、陽子の静かに怒っている顔が映っている。血が肌の内側で沸騰しているのを、理性で抑えているような氷った表情だ。


「何故父様を殺した」


 いつもより低い声で、陽子が朔哉に問いかける。彼女の琴線にちいさな針でふれれば、泣いてしまいそうな、そんな儚い声だった。

 朔哉は視線を一瞬空へと向けた。そして、陽子に戻した。


「俺は……、俺はもう夢を追い続けることに疲れたんだ。ずっとお嬢さんを嫁にしたいと願い続けてきた。だがその夢は何度も打ち砕かれてきた。もう、夢を追うこと自体に疲れた。それで気付いたらやっちまってた」


 声は確かな質感を伴っているが、語尾は投げ捨てるようにか細く弱くなっていた。

 陽子は、息をひとつ吸うと、まばたき、涙を流した。


「朔哉……」


 なめらかな頬をつたい、彼女の涙はしずくとなってきらめき、地に落ちてゆく。

 しばらく陽子は動かなかった。やがて息を吐き、ゆっくりと片手を腰の鞘に伸ばしたかと思うと、鯉口を切った。

 ふるえる顔をあげ、歯の間から深く息を吐くと、涙をまなじりに溜めた瞳で朔哉をにらむ。


「……死んで」


「……お嬢さん」


 朔哉は諦念を顔に宿し、陽子を見つめた。

 朔哉が何か言うかいわまいかを待つこともせず、陽子は彼との間合いを詰める。

そして居合の形で構えた刀を鞘から引き抜き、朔哉にその鋭い刃を向けた。夕日がその切先に当たり、茜色のひかりを灯した。 

 朔哉は、そのひかりを一瞬眼に映し、己も腰に差していた刀を抜いた。

 きぃん、という高い音が静かな夕暮れの川辺に響く。

 鍔迫り合いが起きたのだ。

 陽子の刀を受け止めた朔哉は、後ろに半歩下り、彼女を薙ぎ払おうとした。

 だが、自分を睨んでいる彼女の顔を見て、朔哉は動きを止めた。

 陽子は、その白くなめらかな頬に、涙をひとしずく流していた。


(お、嬢さん……)


 いとしい女(ひと)の涙を流す姿が、目の前にある。

 朔哉は動揺し、陽子を受け止めていた刀がふるふると震え始めた。その隙を逃さず、陽子は飛びあがり、朔哉に刀の切先を向ける。

 動きを止めていた朔哉は、それを受け止めようとするが、やがてあきらめたように腕を落とした。


(朔哉?)


 陽子は、はっとしたが、刀の重力を抑えきれず、そのまま彼の元へ落ちていった。



 朔哉は少し前の日々を回想していた。

 道場の中に、白いひかりが差し込んでいる。朝が終わり、もうすぐ昼に近づこうというときのものだ。

 三蔵の前に、朔哉は正座して座っていた。静かな時間が、ふたりの間に降りている。

 朔哉はその体勢のまま、頭を下げた。


「師範、お願いします。……お嬢さんを、ください」


 しぼるような声が、道場に響く。

 三蔵は苦虫を噛み潰したような顔をした。腕を組んで、顔を落とすと唸った。


「だめだ。何度言えばわかる」


 朔哉はそれを聞き、しばらく黙って頭を下げていた。やがて道場の窓から風が吹き、彼の白髪をゆらすと、うすく口角をあげた。


「あなたが俺を受け入れない理由はわかっています」


 顔を上げた朔哉は皮肉な笑みを浮かべていた。

 三蔵は視線だけを彼に向け、少し顔を下げた。声を鳴らし、さらに低く唸る。


「俺が遊女の腹から生まれた存在だからだ。そしてそのまま川辺に捨てられて、野良犬のように生きてきた汚い存在だからだ。だからお嬢さんとくっつけたくないんだ」


 せせら嗤うような朔哉に、三蔵はかっと怒りをあらわにする。


「貴様! 何を言うか! その口ぶりは、どういう立場であると心得る!」


 朔哉は怯えず、上半身の力を無くしてゆらりと立ちあがった。


「……そうだ。目の前の壁が無くなっちまえば、ふたりで生きていける……」


 腰の刀を抜き、己の前に構える。ぎらりとした夕の太陽の赤を映したその刀は、燃えるようで、三蔵の体を焼き尽くしそうだった。

 それに飲まれ、三蔵は脂汗をかいて体を彼から逸らした。

 朔哉は三蔵を睨みながら、ゆっくりと鞘を抜く。

 愛と憎しみが入り混じった泣き笑いの顔だった。


 夕焼けは次第に闇の色に溶け、当たりを紺色に染めていた。


(空の化粧は幾たびも変わるなぁ。俺も、変われたらよかったのに)


 朔哉はうすら笑いを浮かべながら、そんなことをぼんやりと思った。

 空から落ちてきた陽子の太刀をまともに受けた彼は、肩から腹にかけて血を噴きだしていた。

 陽子は彼のかたわらに膝をつき、ふるえていた。刀の柄と己の着物にあざやかな血が滲み、もともと白かったその顔は、雪と同化したかのように真っ白になっている。その顔にも、彼の血がてん、てんと散っていた。赤い椿の花びらが、白い雪面へ落ちたかのようであった。

 荒い息をつき、まなじりに涙の色を乗せて自分を見ている陽子に笑みを向けると、朔哉は口からも血を噴き出し、どう、と後ろに倒れた。


「朔哉!」


 倒れようとする朔哉に駆け寄り、陽子は抱きとめた。そして息も絶えだえになった彼に顔を近づけ、唾が散るほどに大声で話しかける。


「朔哉、何故だ。何故わざと攻撃を受けた! 避けることも出来たはずなのに」


 朔哉は閉じていたまぶたをうっすらと開けた。そこには、蛍の最期のともしびのような、淡いひかりしか感じられず、陽子は嗚咽をこらえた。

 朧なひとみが映しているのは、とうに陽が暮れ落ちた夜の空の色。そしてそこに浮かぶ月光。陽子の白い顔。


「……どうせ死ぬんなら」


 朔哉は震えながら片手をあげ、陽子の頬を撫でた。

 その反動か、陽子の瞳から、涙の粒が桜の花弁のようにはらはらと降り落ちて、朔哉の頬を濡らす。彼のゆびさきがふれた彼女の頬に、血がついた。


「好きな女に殺されて死にたかった」


 朔哉の片手が落ちる。翼を失った烏のように。

 くちびると瞳をうすく開けたままの朔哉は、三蔵と己が混ざった血とともに、冷えて硬くなってゆく。

 陽子は朔哉の体を強く抱きしめた。


「私も本当はあなたのことがずっと好きだった。あなたと添い遂げたかった。それなのに、それなのに……」


 青を幾重も重ねたような夜空に浮かぶ真っ白な月明かりに、ふたりの侍は照らされ、青く濃い影となってひとつに溶けてゆく。

 蝉の鳴き声と、陽子の涙声が入り混じり、やがて聞こえなくなった。


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