第二章 愛し方を知らない、終

 輝夫が小学生に進級した年の夏から、仕事を始めた。輝夫のいない午前中に、隣駅のスーパーのパートを週四で三時間。主人から生活費はもらっていたので、特にお金に困ることはなかったが、輝夫に習い事をさせてあげたかった。体操教室にスイミング、ピアノにサッカー、公文と算数塾。スーパーの店長からは、午後も入れないかと言われたが、輝夫が帰ってきてから宿題を見てやり、習い事に付き添うことで私の半日は埋まっていた。

 また、輝夫は身体が弱かったこともあり、学校で発熱や喘息がひどくなっては迎えに行き、小児科と耳鼻科をハシゴした。少しでも、輝夫を「普通の子」のレベルに近づけたかった。教養面でも、身体面でも。すぐそばで「優秀な子」の長男が問題無く育っているのを見たくなかった。しかし、私の期待と希望に反して、輝夫はかろうじて「ちょっと出来ない子」止まりだった。


 私に愛されたいと願い頑張る長男と、私の愛で頑張らされる輝夫の差は、縮まらなかった。そして私の愛の差は、広がるしかなかった。


 小学三年生になった輝夫は、体操教室の一年生が跳べる跳び箱六段が跳べるようになった。スイミングでは幼稚園年長が付ける腰の浮きが外せなかった。ピアノは初級のバイエルがボロボロになった。サッカーは技術のない、伸びない子は排除される空気だった。いくら車出しや運営を買って出ても、出来ない子とその母親は空回った。私が精神的に病み、付き添うことができなくなり、辞めるしかなかった。


 小学六年生になった長男は、何も変わらなかった。低学年の頃は、個人面談や家庭訪問の予定を把握しておらず、学校に呼び出されることが多かったが、高学年になってからはそれもなくなった。問題が無いのだ、長男には。私がすることは何もない。何もなさすぎて、関心が湧かない。長男の優秀さが輝夫を追い詰める。輝夫を想う私を追い詰める。


 私の気持ちは限界に来ていた。夫もママ友もいない私に、相談できる相手などいない。赤ちゃんのままで、成長が止まることを願った輝夫は、私の願いを叶えてくれた。成長は鈍いが、しかし輝夫はいつもニコニコしている。些細なことで怒ったり不機嫌になる私が、最後は抱き締めてくれることを知っているからだろうか。私がどんなに落ちても、輝夫の心からの笑顔を見ると、笑ってしまった。輝夫は不細工だ。でも、その不細工な笑顔がたまらなく、私を笑顔にし、救ってしまうのだ。そして私を責めることなく、解決策をくれるでもなく、破壊していくのだ。


 輝夫はいつまで純粋無垢なのか。私はいつまで頑張ればいいのか。答えもゴールも見えないトラックを、延々と周回させられている気分が終わらない。

 周りの人たちが笑っている。難なくコミュニケーションを取って、たわいのない会話をこなしている。サッカークラブのママたちが輝夫を見て笑っている。運営でお茶を入れている私を笑っている。長男の担任が私を見ようとしない。輝夫の担任が輝夫をいじめている。予防接種を打たなかった長男がまたインフルエンザに罹った。輝夫に感染した。春休みに入り、もう四月になろうかという寒い日だった。私はリビングの片隅、長男のスペースに小さく畳まれていた新品の中学校の制服を捨てた。誰かにもらったお古であろう学生鞄を捨てた。高熱にうなされ泣き叫く輝夫を抱きしめながら、同じ様に熱で朦朧とし、空っぽになったリビングの片隅を見つめている長男に「あなたが死んで!」と言った。私が最後に見た長男は、その後ろ姿だった。長男は、その夜家を出て行った。

 あの日から、私は長男の目を見ていない。あの日というのが、もういつかもわからない。


 その二年後、家から数千㎞離れた山奥で、長男は遺体として見つかった。私の腕も回らないような巨木に、首を吊って死んでいた。


 私が覚えている、長男への後悔。次男を妊娠して、切迫早産に怯えて伏せっていたあの日。

 あの時、たった一言「新しい折り紙が欲しい」と言ってくれたら、買ってあげたのに。甘えてくれたら、甘やかしたのに。甘やかしてあげられていたら、ずっと大好きだったのに。

 傲慢でプライドが高くて、自分が大切で自己中で、察してやることが負けだと思っていた私が、博樹を殺した。


 鬼の正体は、もうずっと判っている。

 私はいつ死ぬべきだったのか。

 誰かに「死ね」と言って欲しかった。

 あの日、「あなたが死んで」と言われるべきは、

 鬼は、己の子どもの温もりを知ってはいけなかった。


 最初から、間違っていたのだ。




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お兄ちゃんが死んで、幸せでした。 到ラヌ次郞 @jiro792

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