第二章 愛し方を知らない、⑥

 大事には至らなかったものの、このインフルエンザ事件から、私にとって長男は輝夫の健康を脅かす敵、ばい菌の塊となった。

 危ないこともせず、俗に言うイヤイヤ期もなく、言われたことは素直に従う「いい子」だが、私は嫌悪感しか抱かなかった。輝夫を産んでから、いや、切迫早産で入院したころから、泣いたような笑顔を私に向けるようになった。常に、私の顔色を見ているような、怯えた顔がうっとうしくて嫌だった。持って生まれた聡明さから、先回りをして私の負担を減らそうとがんばっている姿が面倒で嫌だった。


 輝夫が産まれてから初めての春を迎え、長男は幼稚園に入園した。マンション前から園バスで登園できる、お弁当の日が少ない幼稚園を選んだ。

 入園した日から、私の心の片隅にあった、長男を疎む穢れが消え、穏やかに輝夫と過ごす毎日に多幸感すらあった。

 幼稚園の行事は、自分のために、いい母親でいるために最低限参加した。それでも長男は、普段見ない私の姿に当然喜んだが、その喜んだ笑顔を見るのは本当に嫌だった。こんな顔をさせる自分が、「いい母親」ではないと言われているようで、最低の気分だった。

 勉強も運動も、何でも年齢以上に上手にこなす長男は、先生からもママ友(厳密にはまったく交流のない)からも、絶賛された。

「こんなにいい子に育てるなんて、いいママなんですね!」

 なんて言われてはぁありがとうございます、なんて応える。

「育児のコツってあるんですか?」

なんて聞かれもする。思わず満面の笑顔で

「子どもをばい菌扱いして無視して放置するんですよ、簡単でしょう?」

と言いたくなる。

 鬼の正体が母親なら、この世の鬼は自分だと判っている。


 輝夫はすくすくと成長した。主人と会わなくなり、この子の末っ子が確定した。再び妊娠することがなくなったことが幸いしたのだろう。妊娠中に酷いメンタルになる私に育児されなかったので、素直に甘えるわがままで可愛い息子になった。

 ただ、成長面に関して言えば、長男に比べると全てが遅かった。長男が年少前に習得していた、ひらがなカタカナの読み書きやかけ算の暗記は、同じ歳になっても、全く出来なかった。幼稚園での長男を見ていたので、長男が異常であることはわかっていた。輝夫の成長速度は標準で、心配はしていなかった。むしろ、会話が出来るようになってからの言葉のたどたどしさが愛しく、お風呂で数える十までのカウントで、毎日「ひち」が飛んでしまう輝夫が可愛くて仕方がなかった。このまま、赤ちゃんに近い輝夫ででいてくれればいいのに、成長しないでくれればいいのに、と願いさえした。 

 今の輝夫より幼い子どもと過ごすことは、自分の人生にはもうないのだと思うと、成長してしまう輝夫から離れがたく、長男は三年保育だったが、輝夫は二年保育で幼稚園に通わせた。妊娠する心配もなかったし、仕事もしていなかったので、就学までは一緒にいたかったくらいだった。長男は、いつの間にか小学生になっていた。買った覚えのない黒いランドセルを背負って、毎日同じ時間に通学していた。


 いつの頃からか、私は長男の衣類を洗濯していない。最低なのはわかっている、食事だって用意していないのだから、ただ問題はそこではない。長男は自分のことは自分でしているようだったが、何かの道着が物干し場に干されているとき、初めて長男が剣道を習っていることを知った。「いつからやっているのか」と長男に聞くと、幼稚園に入園したときに、主人が通わせ始めたようだった。興味がなかったが、物干し場が狭くなるので、おもしろくなかった。邪魔なんだけど、と言うと、ごめんなさいと言った。その後、物干し場に道着が吊されることはなかった。

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