第二章 愛し方を知らない、⑤

 風邪だと思って寝かせていた長男を寝室に隔離し、私と輝夫はリビングに布団を敷いて寝ていた。夫は長男がかわいそうだと言って、長男の横で寝ていたが、私は輝夫に風邪がうつらないようにするほうが先決だと思っていたので、そうした。高熱にうなされている長男は惨めでかわいそうに見えたが、免疫が弱く自己防衛もできない輝夫のほうがかわいそうだった。でも、ただの風邪だと思っていたのがまずかった。私の防衛が甘かったのだろう、輝夫が熱を出してしまった。

 長男が風邪を引いて二日目の深夜だった。慌てて輝夫を救急病院に連れて行った。夫はついでにと、まだ熱の下がらない長男も一緒に連れてきた。私は正直、輝夫を長男と同じタクシーに乗せることすら嫌だったが、輝夫の熱にうろたえる私より、下がらない高熱にぐったりしている長男を心配する夫の行動のほうが早く、止められなかった。

 検査の結果、二人ともインフルエンザAが陽性だった。率直に最悪だと思った。帰ってきたらうがい、手洗いとあんなに言い聞かせたのに、インフルエンザに罹るなんてあり得ない。寝室から出さず、空気清浄機をマックスにして三台の加湿器もフル稼働だったのに、長男が咳を我慢しないからだ。マスクを強要し素直に一日中付けていたにも関わらず、輝夫にインフルエンザをうつしたのは長男がどこかで気を抜いたからだ。

 腹が立って仕方がなかった。長男が、輝夫を脅かすばい菌にしか見えなくなっていた。


 さらに長男は栄養失調を併発していた。夫は料理ができないのだから当然だ。脂っこいコンビニ弁当なんてもってのほか、おにぎりだって食欲がない病気の子どもには受け付けにくい固形物だ。さらに、夫が長男に摂らせていた水分はただの水だったのだろう。ポカリでも飲ませていれば少しは違うのに、と思ったが言わなかった。私は輝夫の世話で精一杯アピールが忙しかったからだ。ウィルスが充満しているであろう寝室に入るなんてもってのほか。私の服にウィルスが付着したら、輝夫にうつってしまう。長男を隔離してから、食事、着替え、排泄、風呂、寝かしつけなど、世話は夫にすべて任せていたのだから、私に責任はない。そう言って責めると、夫は疲れた顔をして「そうだよね」と言って笑った。


 輝夫の入院が決まり、私は慌てて家に荷物を取りに一人で帰った。だるそうな長男と行動していては遅くなるからだ。

 乳児の入院には保護者が付き添い入院することになっている。私は輝夫のおむつと着替え、おしりふき、タオルにおもちゃを鞄に入れ、自分の最低限の着替えと洗面用具を持って病院にとんぼ返りした。

 戻ると輝夫は大部屋の窓際のベッドに寝かされていた。転落防止用の高い柵が上げられたベッドだった。天井のカーテンレールから吊り下げられたピンク色の布地でベッドの周囲を覆い、私はようやく安心することができた。


 また入院か……と落胆していたが、二度目の入院生活は、ことのほか快適だった。私たちに許された設備は、シングルベッドと入院棚、ロッカーと衣装ケースと一脚のパイプ椅子、可動式のデスクライトとコンセントひとつだけだったが、十分だった。

 私はベッドの上で、ただ輝夫を見ていればいいのだ。輝夫のそばで心配そうにしているだけで「いいお母さん」でいられた。輝夫の様子がおかしければナースコールひとつで診察してもらえる。目に見えないウィルスがどこにいるのかわからないあの家で、長男の一挙手一投足に胃をきしませながら生活していた昨日までとは全く違う、まずは安心感があった。そして、煩わしい家事から解放されて、ただ輝夫を見ていればいいのだ。


 熱で苦しそうな輝夫には悪いが、輝夫を産んで初めて、震えるような幸せを感じた私は、思えば少し狂っていたのかもしれない。夫が私を見る目を思い出す。「おまえはそれでも母親なのか?」と問いただしたいのに、何も言わないあの人の目。長男にそっくりだ。


 まだ生後二ヶ月の乳児なので、当然病院食は出ず、院内のコンビニで自分の分の食事のみを買う。たまに本や雑誌を買って、一日の半分以上を眠って過ごす輝夫の横で読んだりした。あとは自分のシャワーと、コインランドリーで洗濯物をまわすことで一日が終わる。日に三度、輝夫の体温を測り、うんちとおしっこの回数を数え、おっぱいをあげてオムツを替えて、輝夫の顔をなでるだけの簡単なお仕事は、熱が下がってから五日で終了した。


 家に帰ってから驚いたのは、夫が料理をするようになっていたことだった。もとから家事はできた夫だったが、料理だけはかたくなにしようとしなかったのに、冷蔵庫のなかにはタッパに詰められたひじきや豆の煮物、冷凍庫には下処理されたほうれん草やブロッコリーなどの野菜、他にもヨーグルトやプリンなどが揃えられていた。長男は顔色も戻り、よく見れば少し太ったかもしれない。髪も頬もつやつやとしていた。そして笑顔だった。数日前には全快したであろう長男が遊んで散らかったリビング以外、きれいに片付けられ、私は驚いた。「やればできるじゃない」と夫を褒めたら、夫はあからさまに顔を歪めて「おまえはやらないんだろうな」と言った。仏のようだと思っていた夫の、初めて見る顔だった。その日から夫は、ほとんど家に帰らなくなった。

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