確かめるよう登る一歩


「嘘でしょ……」


 分かれ道を左に曲がって緩やかな坂を登っていくと、またすぐに今よりもさらに傾斜がかった坂道が私を出迎えた。しかも何が堪えたって、息切れしながら上の方と見上げると、同じようにして少しずつ角度をつけていく坂が、カクカクと方向を少し変えては連なって、上の方の、民家の影で見えなくなるところまで繋がっていることだった。

 ありえない、今でも少し息切れしているのに、この坂は一体どこまで続いているっていうんだ。それにこの調子でだんだん角度が付いていくと、しまいには壁とか登ることになるのでは。そう思ってしまうほど厳しい坂の連なりだった。

 あまりの衝撃的な光景に立ち尽くしてしまっていたが、しばらく休むと、一呼吸して、決心を決めて先へ進んだ。それにしても、この坂をお年寄りが登っているのかと思うと末恐ろしかった。普通に体力勝負で負けそうな気がする。

 ゼーゼー息を切らしながら、険しい坂道を登る。正直もう山道、いや山といっても過言ではない気がする。ほらごらん、ただ歩いてるだけなのに足首がVの字のように折れ曲がっちゃってるじゃない可哀想に。

 徐々に発熱していく足首を無視しながら、なんとかかんとかさっきの、民家で道が見えなくなっていたところまで来た。さて、待っているのは優しいなだらかな道か、断崖絶壁か。ハーケンが必要な旅って、まあ確かに旅っぽい気もするけどやり過ぎだ。もう一度一息入れて、かかってこい断崖絶壁、と気合いを入れて曲がり角の先へ進む。


 ところが、そこには正直期待していた一面の崖なんてものはもちろんなくて、ただの雰囲気の良い平坦で、まっすぐな路地だった。

 それにしても久しぶりの平地だ、もうずっとここに住みたい。この道の突き当たりが左右に分かれているのが気になったけど、今は平地との再会を喜ぼうじゃないか。

 平らな路地の真ん中辺りで一度足を止めて、近くの壁にもたれかかる。背中でやけにゴツゴツとした感触を私に与えているのは、この辺りのお家に多い石垣だ。

 しかもこの石垣、ただの石垣という訳ではなく、意外になかなか色が良い。よく見る灰色や黒の石だけじゃなくて、触るとやけどしそうな赤褐色や、木漏れ日の色が移ったみたいに淡く黄みがかった石など。どれも自然が作った暖かい色だったけれど、色々な石がランダムに配置されたそれは、見慣れた石垣とは違う味があって、何とも「はいから」であった。

 何枚か写真を撮ってみると、やはりといった具合で、下手くそな私が撮った写真でも、そこにある穏やかな田舎情緒を収められている。そのくらい力のある、魅力的な町並みだった。


 良い写真が撮れて気分が良くなったので、鞄の中からお茶をとりだしてキャップを外すと、待ちきれないといった様子で歩き出しながらそれを飲んだ。とても行儀が悪いけど、どうせ誰も見てない。悪戯は、ばれなければしていないのと同じなのだ。しかし、その悪ガキみたいな笑顔は、その路地の突き当たりに差し掛かったときにはもう消えていた。


 実は薄々そんな気はしていたけど、でもここまでとは。


「なんか手摺り付いてるんですけど」


 突き当たりの右側には、先ほどの坂は所詮坂でしかなかったんだ、と納得せざるを得ない、本当にあともう少しで崖ってくらいに傾斜していた。しかもこの傾斜、道の両側に手摺りが設置されていた。

 うそだ、さっきの道を日頃から登っている島民さん達ですら、手摺りがないと登れないっていうのか。というかそんな道を、このメダカくらいの体力しかない私に登れというのか。にわかには信じがたい事実であった。しかし、何度目をこすってみても現実はなにも変わらなかった。


 しかし、ここまで来て登らないわけにも行くまい。私にはまだ「お楽しみエリア」が残っているのだ。あそこまで回れてようやく、男木島を楽しんだと言える。

 覚悟を決めて、いざ挑んでみると、なんだ結構いけるものだった。いや、でも手摺りは本当に必須といっていい感じだった。手摺りから手を離すと、前に転ぶよりも後ろに倒れて転がっていく方が簡単そうではあった。わかりやすくいうと滑り台だ。私は今滑り台を逆から登っている。

 そうやって、息絶え絶えになりながら、文句をたれながら坂道を登ってはいたものの、実はずっと楽しくて仕方がなかった。息が切れて苦しいのに、なんだか楽しくなってきて、ふとしたときに笑顔がこぼれた。クライマーズハイってやつかな。今までは正直理解できなかったけど、意外になってみると結構気分がいいものだ。

 ハイになって登っていくと、どうやら結構なところまで登ってきたみたいだ。あとは目立つような坂も周りには見えなくなっていた。地図を確認してみると、どうやらここからは、比較的平地を進んでいくことになりそうだ。


 やりきったという風に、息を大きく吸いながら身体を大きく伸ばしてやった。緊張していた身体の節々に、心地よい痛みに似た何かが走る。伸ばした身体を戻すと、今度は鈍痛が足や腰に感じられた。運動不足の身体で無理をしすぎただろうか。

 本格的にちょっと休みたくて、近くにお尻くらいの高さのちょうど良い石垣があったので、そこに腰掛けさせてもらった。怒られたら土下座しよう、私土下座の心理的ハードルめちゃくちゃ低いから、そこについては心配いらなかった。というか何故か自信ありげだった。


 腰掛けて落ち着くと、今まで登ってきていた間背にしていた景色が、私の目と心を奪った。

 まずはじめに、数多く連なる昔ながらの民家が目に映る。古めかしい、傷んで黒ずんだ木材が、それでも今なお力強く住人をまもる、温もりあふれる木造建築。確かにどれも似たような造りかも知れない、しかしその姿はどれも、共に過ごしてきた人々と時間を共にすることでしか育まれない、独自の、特別な風化が、それぞれの町家に見て取れた。定期的に交換されるプロパンガスは、真新しい銀色をしていて、どうにも浮いている。

 少し目線をずらしてみると、別の民家の裏口には、ビール瓶などを入れて運ばれてくるような、古ぼけた黄色のボトルクレートがいくつも積み重なっていた。あの民家の表にまわってみると、お食事屋さんだったりするのかな。

 また、いくつか、やけにカラフルな木造建築の壁面が見える。それは、どうやら島全体でやっている路上壁画アートというものらしく、道中何度も目を引いた。壁画アート、とはいっても、スプレーや何かで前衛的な絵が描かれたりするものではなくて、町家の壁面を様々な色に塗った木材で色鮮やかに飾ったもので、意外にもこの落ち着いた景色に、存在感を放ちながらも溶け込んでいた。寒色系や暖色系なんかでまとまりのある色遣いがなされているのも大きいだろう。

 どこを見ても人がそこで生きていた時を感じさせる、田舎ではあるけど都会の息苦しい鉄に囲まれた風景なんかよりもずっと、生きている、そう感じる景色だった。胸が自然と熱くなる、そんな光景だった。


 今までの私ままだったら、きっとこの夏はクーラーの効いた部屋で、ただ寝るだけの休日を重ねて、夏を過ごしているんだろう。こんなに汗もかかないし、息が切れて胸が苦しくなることも、夏の地面に熱されて厚くなる靴底も、海に囲まれた島の町中で、こうやって潮風と太陽を浴びていることもなかったんだろう。

 そう思うと、途端に今までの自分の生活が、ひどくつまらないもののように感じる。

 確かに私は今までも生きてはいた。でも今思うと、それはただ生きていただけだった。生の活力に満ちたものではなかった。時の流れに乗って、ただ流されながら歳を取っていただけだ。それはただ時間を定点で観測しているだけあって、生きているとはとても言い難い。

 ただ、そうはいっても、当時の私はものすごく必死に頑張っていたし、今過去に戻っても正直同じような決断をしてしまう気もする。そのくらいどうしようもなくて、どうあがいても結果そうなってしまうしかなかったのは自分でもよく理解している。多分今の私が「今のお前はつまらないよ」と言いにいっても、その時の小清水澪は、聞く耳を持たずに私と同じ道を突っ走るだろうな。私めちゃくちゃ頭固いからなぁ。


 夏の日差しはまだまだ昼は終わらない、と息巻いて空から容赦なく地上を照らしているものの、少しずつだが傾きはじめている。夏の厚い雲が太陽を隠すと、見下ろす町家も影に覆われた。でこぼこと不規則な高低差のある町だから、雲がだんだん流れていって、そのすぐ後を追う陽光に次第に照らされていく様子が、町家が波打っているかのように見えて不思議だった。本当に島が大きな生き物みたいに思えた。

 町の静かで落ち着いた空気と、島全体に漂う懐かしさがどうやら私を物思いに誘うらしい。なんとなく蓋をしているつもりの過去のことを少し思い出してしまった。

 それにこの島は、失敗ばかりで、でもどうすることも出来なかった過去の私すらも、包み込んで側にいてくれるような、そんな穏やかな風の吹く場所だった。だから、以前のことを思い出しても、こんなにも落ち着いていられるのかも知れない。

 それでもやはり、深いところまで思い出してしまうと、まだ手が震えてしまうのを我慢できなかった。今日はこのくらいが限界かな。しかし、男木島に助けられてなんとか一段は登れた気がする。何事も、急いては事をし損じる。せっかくの旅だ、のんびりいこう。


 石垣から少し勢いをつけて飛んで地面に着地する。意外と元気な自分に驚いた。どうやらまだまだいけるみたい。そうじゃないと困るけど。

 足首を少しくるくる回して、再度出発の準備は完了。気合いを新たに入れ直して、また一歩を踏み出していく。

 すっかり冷えてしまった靴底にまた夏の熱をうつし取ってやろう。手を伸ばしても届かなくて諦めていた夏が、今全身を取り囲んでいるって、身体の熱を最高潮まで上げて、胸の底の底の方で縮こまっている私に気づかせてやろう。そこにいてもつまんないだろうって、こっちに呼び寄せてやろう。

 あまりの夏の暑さに耐えられなくて、私の楽しむ姿にむかっ腹を立てて出てきたその時は、面と向かって話し合おう。腰を据えて向き合おう。きっとこの旅でそんなときが来る、なんとなくだけど確信があった。


 向かう先は町を抜けた先の森の方。太陽に照らされた森はこの夏一番の濃い緑色をしている。それを見るだけで降り注いだ光の熱が極めて強いことが伝わる。

 どうやら今日は、まだまだ暑くなるみたいだ。

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越海 水縹 こはる @mihanada

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