思い出には残らない

黄黒真直

思い出には残らない

4月3日 土曜日

あなたがこの日記を読んでいるとき、私はもう、この記憶を失っていることでしょう。

なぜなら、私はこれから自分自身に能力を使って、自分の記憶を消すからです。


……なんちゃって。

明日、この日記を読むだろう私に教えるけど、今日(あなたから見て昨日)の記憶がなくなってても、不審に思わないでください。

これは実験です。

東堂さんの指示で、私は今日一日分の記憶をまるっと消します。

私の能力が、自分自身にも使えるかどうかを実験するためです。

今日寝て、起きたら、記憶がなくなってるようにしておきます。


別に手紙とか録画とかでもいいんだけど、東堂さんが日記の方が良いだろうって言ったから、日記にした。

実験のこととか、私も自分で記録しておけば、なにか気付くことがあるかもしれないから、だって。

もし明日、この日記を見て、続きを書く気になったら、実験のことを中心に日記を書いておいてね。




4月4日 日曜日

びっくりした。どうやら実験は成功したらしい。

朝起きたら、土曜日のはずが日曜日になっていて驚いた。

スマホに知らない日記アプリが入ってたし。

まさか24時間寝ちゃったのかと焦ったけど、どうやら違ったようだ。


研究所では、私の記憶が本当に消えたか確かめるテストを受けた。

昨日読んだ文章とか選んだものとか、私は一つも覚えていなかった。

本当に、丸々一日分の記憶が綺麗に消えていた。


結果を見て、東堂さんは喜んでいた。

相変わらずカメラの画角ってものをわかってなくて、画面から外れてた。


それと、私の記憶を消せるとわかったから、しっかり日記を書くように言われた。

能力を使いすぎて、うっかり自分の記憶を消しちゃったりしたら大変だから。


そうなると、実験以外のことも日記に書いとくべきかなあ。

ある日突然、一週間くらい時間が進んでたら厄介だもんね。




4月5日 月曜日

今日は始業式だった。今日から高校二年生だ。

クラス替えはなかったから、教室の雰囲気はあんま変わらない。先生も同じだし。

今日はせっかくだから登校したけど、明日からはまたリモートかな。

高校にも研究所にも通うのは、面倒だからね。

能力に目覚めたのが、リモートになってからでよかったよ。




4月6日 火曜日

いつもの漫画喫茶で授業を受けて、放課後は研究所へ行った。

紫帆にも会った。しばらく会わなかったね、って言ったら、土曜日に会ったでしょ、って言われた。

書いとけよ、私。

土曜日に紫帆とした会話の内容も、私は覚えていなかった。

なんだか私の中で、土曜日の私がいなくなってしまったような感覚だ。

あの日の私は、どこへ消えてしまったのだろう?


紫帆は、私とは反対に、自分以外に能力が使えるかどうか、実験しているらしい。

テレポートするとき、紫帆は自分の着ている服も一緒にテレポートする。

だから、自分の肉体以外の物も移動させられるはずだ。

でも、手に持っているコップとかは、テレポートしない。口に入れている飴もしない。

でも、お腹の中の食べ物は、一緒にテレポートする。

この違いはなんだろうって、調べてるらしい。


なんか、ちょっと、気持ち悪い実験だな。


私の方は、次の実験の準備中らしくって、特にやることがなかった。

いつもの健康診断みたいなやつだけ受けて帰ってきた。




4月7日 水曜日

今日は家で授業を受けて、あとはごろごろしてた。

さいころじーずが新作動画出してた。

東堂さんは見たかな。




4月8日 木曜日

今日から新しい実験が始まった。

小学三年生の男の子に、英語を教える実験だ。

教えるといっても、私の頭の中身をその子にテレパスするだけなんだけど。


ちなみに、東堂さんの上司の子供らしい。東堂さんはまだ子供いないからね。

素直で可愛い子だった。頭も良さそうだったね。


今まで、記憶を消す実験ばかりで、書き込む方の実験は初めてだ。

あまり有効な使い方を思いついてなかったってことかな。

便利だと思うんだけど。


東堂さんが言うには、私を研究する一番の目的は、PTSDなどの記憶に由来する病気を治療すること。

それ以外にも、人間の記憶の仕組みの解明とか、なんか色々あるらしい。


とにかく、今日からしばらく、消す実験と書き込む実験をやる。

ちょっと忙しくなるかもね。


あ、東堂さんは動画、まだ見てなかった。忙しいんだろうな。




4月9日 金曜日

英語の授業に、なんとなく身が入る。

元々得意だったけど、教えるとなると、もっと真剣にやらないとね。

でもテレパシーで教えるから、先生の教え方とか授業の内容は、あまり参考にならないな。




4月10日 土曜日

昨日、薫君に英語の単語テストをしたらしい。

私が教えた範囲の単語は満点で、それ以外に薫君が自分で勉強した範囲は四割くらい正解だったそうだ。

このことから、私の能力の方が記憶の定着率がいいことが推測される、と東堂さんは言っていた。

私の能力は、普通の記憶とは違う記憶のさせ方をさせるってことなんだろうか?

でも小学生だしな。勉強、しないでしょ、小学生。


あと、今日はなんと、紫帆が私の被験者だった。

相手の特定の日時の記憶を消すやつを、紫帆にやった。


そしたら、今までで二番目に正確に消すことができた。

誤差は、マイナス三十分!


今までうまく行かないことも多かったから、びっくりだ。

東堂さんもびっくりしてた。

一番正確だったのは私の記憶を消したときで、二番目が紫帆。

原因を東堂さんに聞いたら、東堂さんも首をひねっていた。

やっぱり画面から外れてた。




4月11日 日曜日

今日も薫君に英語を教えた。今度は単語と文法だ。

英語の文型とか品詞を教えた。あと、イディオムも。

一気に増やしすぎじゃないかな。


今度は単純な単語テストじゃなくて、文章中の単語の意味を判断できるかテストしたいんだって。

どうやって教えればいいのかわからなかったから、とりあえず頭の中の熟語集をテレパスしておいた。

品詞にしたって、小学生じゃ品詞の意味がわからないんじゃないかな?

形容詞と副詞の違いとか、伝わったのかな。




4月12日 月曜日

研究所からママに連絡があって、明日はママも一緒に来るよう言われたらしい。

何かあったのかな。




4月13日 火曜日

なんと、私の実験の被験者に、ママも参加することになった。

これまでの実験から、私の能力は私と親しい人にほど正確に働くと、考えられるんだって。

だから私や紫帆の記憶は正確に消せたんだ。


ママに説明してる時の東堂さん、真面目な顔でかっこよかった。

大人相手だと、いつものへらへらした顔じゃなくて、ちゃんとああいう表情するんだね。

カメラから外れないかとひやひやしてたけど、それも大丈夫だった。

ちゃんとやればできるんじゃん。


で、ママは同意書みたいなのにサインして、別室に連れていかれた。

実験は明後日やるんだって。




4月14日 水曜日

今日のへべれけの動画、東堂さんの好きそうなやつだった。

明日教えてあげよう。




4月15日 木曜日

今日は東堂さんがお休みだった。

奥さんに付き添って病院に行くんだって。


治るような病気じゃないのに、病院で何してるんだろうね。緩和ケアとかかな。

だけど、私の能力で治せるかもしれなくて、それで東堂さんは熱心なんだろうね。

東堂さんはあまり奥さんのことは話さないけど、それでも好きなんだってことは伝わってくる。


東堂さんは精神科医で、奥さんは元患者さん。

なんか、ずるいよね。

医者が患者と恋愛関係になるって、よくないんじゃないかな。

精神が弱ってる患者に親身に接してたら、そりゃ相手は好きになるよ。

そんなきっかけがなかったら、奥さんは東堂さんと結婚できてなかったはずだし。

やっぱずるいよね。


今日の実験だけど、ママの記憶を数時間分、消した。

ほぼぴったりの精度だったみたい。


薫君の英語のテストは、私が教えた部分もあまりよくなかったみたい。

今日も、同じようなことを教えた。




4月16日 金曜日

なんだか授業に集中できなかった。




4月17日 土曜日

今日も紫帆の記憶を消した。

十日前の記憶だ。一日前の紫帆の記憶は精度よく消せたから、もっと遠い日の記憶も正確に消せるか実験したんだ。

結果は上々。東堂さんも喜んでた。

そのうち一か月前の記憶を消したりとかするのかな。


反対に、薫君の方はあんまりうまく行っていない。

昨日のテストはちょっと成績が上がったみたいだけど、私が教えた範囲とそれ以外の範囲で、あまり違いがなかったらしい。

単語テストはうまく行ったのに、何が違うんだろう。


東堂さんの指示で、やり方を変えた。

私が英語の問題集を解きながら、そのとき考えてることを全部薫君にテレパスした。

こっちの方が、私もやりやすかった。




4月18日 日曜日

薫君のテスト結果は、やっぱりあまりよくなかったらしい。

私が教えた問題と似た問題はほぼ解けたけど、ちょっと形が変わると全然ダメだったそうだ。

小学生だし、そんなものなんじゃないかな。


今日は薫君とゲームして遊んでた。

私の能力は、私と親しい人に効きやすいらしい。

だから薫君と仲良くなれば、英語を教える方もうまく行くかもしれないってことだ。

しかし小学生男子と仲良くなるのは難しいね。

真面目で可愛い子だと思ったけど、しばらくゲームしてたらなんだか生意気になった。

本性現したってところかね。


でも、消す方と書き込む方じゃ、条件が違う可能性もあるって、東堂さんは言っていた。

しばらくは、薫君と仲良くなりながら英語を教えることになりそうだ。




4月19日 月曜日

思ったんだけどさ、私の能力の利用方法がPTSDの治療なら、私がまず患者と親しくならないとダメなんだよね。

使い勝手、悪くない?




4月20日 火曜日

薫君が急に懐いた。

ゲームやったからかな。

今日もお姉ちゃんを負かしてやる、だってさ。


東堂さんに報告したら、仲良くなれてよかったじゃないか、って笑ってた。

できれば、ハートフルな協力プレイするゲームの方がよかったな……。

しかも今日は、ゲームばっかりで、勉強を一切しなかった。

よかったのかな?




4月21日 水曜日

結婚三年目での離婚が一番多いって、さいころじーずが言ってた。

東堂さん、そのくらいだったよね。




4月22日 木曜日

新しい実験が始まった。

今までは、相手や時間を変えて記憶をどのくらい消せるか実験してたけど、今度は記憶の内容を選んで消せるかどうかの実験が始まった。

実験の前に、相手は短い文章をいくつか読んでいた。私はそのうちの一つだけを読んで、その内容を相手の記憶から消せるかどうか実験したんだ。

今までは、ある時刻の記憶をごっそり消してたけど、今度はほぼ同時刻の出来事の中から一つを選んで消さなきゃいけない。


どうやればいいのか、さっぱりわからなかった。

今までは、深度というか、深く潜ればそれだけ過去の記憶を消せたけど、特定の出来事の記憶を消すことはやったことがなかったし、やり方もわからなかった。


頭の中に消すべき文章を思い浮かべて、相手の記憶に浅く潜って、なんとなくシンクロしたっぽい瞬間に記憶を消したけど、結果は散々だった。

相手は、読んだ文章を全部覚えてた。

代わりに、家から研究所に来るまでのことを忘れてた。


東堂さんに相談したけど、東堂さんも悩んでた。

だけど、薫君に英単語を教えることはできたんだから、その逆をやればいいんじゃないか、ってアドバイスされた。


その薫君だけど、今日はちゃんと勉強を教えた。

まだ品詞もイディオムも覚えきれていないけど、長文読解に挑戦した。

やり方はこの前と同じで、私が問題を解きながら、そのとき考えたことを全部テレパスした。

もしかしたら薫君は、この長文を丸暗記できたかもしれないね。




4月23日 金曜日

PTSDについて、少し調べた。

PTSDというのは、犯罪被害とか交通事故とかの、強い恐怖体験をした人が、あとからそのときの記憶を強烈に思い出してパニックになったり、慢性的な恐怖感や無力感を覚える病気のことらしい。

記憶が呼び出されるのは、何かをきっかけにすることもあれば、なんのきっかけもなく日常の中で突然フラッシュバックすることもあるそうだ。

なんだか怖い病気だな。


明確な治療法はまだない。

けど、私の能力でPTSDの原因となった記憶を消してしまえば、治療できるかもしれない。

東堂さんたちは、そう考えているんだ。


でも、人によってはその原因となる記憶がわからなかったり、本人は覚えていなかったりもするそうだ。

それに、長期間にわたる出来事が原因となる場合もある。


今の私の能力は、ある期間の記憶を全部消してしまう。

それでは都合が悪いから、特定の出来事の記憶だけを消す訓練が必要になるってことだ。

昨日の実験の意図がわかった。




4月24日 土曜日

木曜日に短い文章を読んだ人の記憶を消したけど、今日はイラストだった。

いくつかのイラストを見てもらったあと、私がそのうちの一枚の記憶を消す実験だ。

東堂さんのアドバイスを思い出しながらやってみたけど、やっぱりうまくいかなかった。


薫君も、長文読解ができてなかった。

でも私が読んだ長文に入っていた単語は全部覚えていて、逐語訳はできたみたいだ。

単語と文章、何が違うんだろう?




4月25日 日曜日

この間の被験者の人に、不思議な現象が起きたらしい。

短い文章をいくつか読んだ人ね。

研究所に来る途中の記憶をごっそり失くしてたわけだけど、電車の中で読んでいた小説の内容をおぼろげに覚えていたんだって。


正確には、内容は全く覚えていなかったんだけど、読み返したときにデジャヴみたいなものを感じたらしい。

主人公が失恋するシーンで、読みながら胸が詰まる想いがしたときに、「この感覚を前にも味わった」と感じたんだって。


私の能力は、親しい人にほどよく効く。

この被験者の人とは何回か会ったことはあるけど、親しいわけじゃないから、うまくいかなかったのかな。


今度、紫帆で実験しようって、東堂さんが言ってた。




4月26日 月曜日

今週末からゴールデンウィークだ!

だから先生たちが、次々と宿題を出してくる。

やめてほしいな。




4月27日 火曜日

さっそく、紫帆で実験した。

昨日のうちに、紫帆は映画を一本見て、感想文を書いたらしい。

そして私が、その映画を見ていた時間帯の記憶を、丸々消した。

これでまた同じ映画を見て、デジャヴを感じるかどうか調べるんだ。

それと、デジャヴの内容が気のせいではなく、本当に正しいってこともね。




4月28日 水曜日

紫帆からLINEが来た。

映画の内容は全く覚えていなかったけど、デジャヴは感じたらしい。

次の展開が予想できたわけではなくて、「この感情を前にも抱いた」って感じたらしい。

そしてそれは、感想文に書いてある感情と全く同じだった。

つまり、デジャヴは勘違いではなく、正しい記憶だということだ。

紫帆の記憶も、完全に消せるわけじゃないってこと?




4月29日 木曜日

今日は祝日だったから、一日研究所にいた。

東堂さんたちは祝日も働いてて大変だな。

もしかしてこの研究所って、ブラックなのかな。

みんな土日も祝日も関係なく仕事して、不定期に休んでるもんね。

休めるだけグレーなのかな?


東堂さんからも紫帆の実験結果を聞いた。

今は結果の解釈について、チーム内で揉めてるって言ってた。


今日も、特定の文章やイラストの記憶だけを消す実験をした。

今日のは実験というより練習だって東堂さんに言われた。

これまでやったことのないことだから、すぐにできないのはしょうがないって。


でも能力って、練習でどうこうできるものだっけ?

東堂さんが言うには、練習で多少、できることが増える場合はあるそうだ。

能力についてはまだわかってないことも多いから、どこまでのことができるのかは、なんとも言えないらしいけど。

なんだか、ふわふわしてるな。




4月30日 金曜日

今日は研究所へ行かない日だけど、いつもの漫画喫茶で授業を受けた。

超能力物の漫画を読みたかったんだ。


能力者が生まれるようになってから描かれた漫画では、現実の能力に寄せた表現のものもある。

だけど大半は、以前のイメージのままだ。

能力の使い方についてのヒントがあればいいと思ったんだけど、見つからなかった。




5月1日 土曜日

薫君に自転車の乗り方を教えることになった。

自転車、乗れなかったのか。

英語と同じように、私が自転車に乗って、その感覚をテレパスした。

でも、どうもうまく乗れなかった。


東堂さんが言うには、これは重要な実験らしい。

もしこれができたら、私が能力を使うときの感覚を他人にテレパスすることで、誰でも私と同じ能力が使えるようになる可能性があるからだ。

つまり、私の能力を他人にコピーすることができるのだ。

すごいこと考えてたんだな、東堂さんたち。


まずは何人かの精神科医に私の能力をコピーして、その人たちがさらに別の精神科医にもコピーして、ねずみ算式に人数を増やそうって筋書きみたい。

PTSDとかの治療に使えるかどうかはまだまだわからないけど、そっちの研究と同時に、コピーする研究もしていくんだって。

もしできたらすごいことだな。


特定の文章の記憶を消す実験は、やっと一回成功した!

ちょっとコツをつかんだかもしれない。

今までは縦に深く潜っていくような感覚でやってたけど、横に浅く広がっていく感覚で、消したい事柄とシンクロしたときに消せばいいんだ。

練習でどうこうなるものなんだな。




5月2日 日曜日

特定の出来事の記憶を消す実験の方は順調だ。

これまでより長い文章や、映像の記憶も、狙って消すことができた。

それどころか、映像の中の特定のシーンや特定の人物の記憶だけを消すこともできた。

もう完全にコツをつかんだぞ。


反対に薫君の英語と自転車は、うまくいっていない。

横に広がるようなイメージでやったら、と東堂さんに言われたけど、そもそも書き込むときは潜るイメージじゃないからなあ。


あと、明日からの三日間、研究所に来てくれないかって言われたから、行くことにした。

どうせ予定もなかったからね。

東堂さんも、この連休中は毎日来るんだって。

昨日から連続して五日間、東堂さんに会える。

初めてのことだ。




5月3日 月曜日

東堂さんが奥さん連れてきた。

なんか、普通の人だった。

PTSDだって聞いてたのに、全然普通に東堂さんと笑い合ってたし。

画面越しじゃない東堂さんに会うの、一か月ぶりとかだったのに。


奥さんを私のPTSD治療の被験者第一号にしたいんだって。

まだ私の能力の詳細は分かってないけど、特定の記憶も消せそうだし、やってみようって。

そのために、奥さんと仲良くなれだってさ。

無理だよ、そんなの。




5月4日 火曜日

今日も東堂さんの奥さんが来てた。

仲良くなるためとか言われて一緒にお昼食べたけど、私はずっと仏頂面だったと思う。


特定の記憶を消す実験は、順調そのものだった。

これで、いつの、どんな記憶でも、自由自在に消せるようになったね。


紫帆にも記憶を書き込む実験をした。

私がHMDで映画を見て、見た内容や、そのとき感じた感覚を全部、紫帆にテレパスした。

内容は完璧にテレパスできた。

でも、そのときの私の感情は、全然伝わらなかったみたいだ。


なんか、だんだんわかってきたな。

私の能力はもしかして、感情や感覚は、消したり書き込んだりできないんじゃない?


英文の読解も、単語だけわかっていてもうまくいかない。

逐語訳はできても、自然な日本語にするためには、文章の流れから適切なニュアンスを選ばなきゃいけない。

その選択を、私は感覚的にやっている。だから薫君には伝わらないんじゃないかな。


自転車だってそうだ。自転車の乗り方なんて、感覚的なものだ。

そういうものは、テレパスすることもできないんだ。




5月5日 水曜日

東堂さんたちも、昨日の私と同じ結論を出したらしい。

たぶん私は、感覚的なことや感情を、消すことも書き込むこともできない。


それを確かめるために、紫帆に自転車の乗り方を忘れてもらった。

困らないかなと思ったんだけど、紫帆は普段自転車を使わないから、仮に使えなくなっても問題ないって。

自転車に特別な思い出もないみたいだし。


で、紫帆は自転車のことを忘れた。

初めて見る乗り物に戸惑っていたけど、説明を聞いただけで、簡単に乗りこなしてしまった。


東堂さんの上司は喜んでいた。

これまで、「体が覚えている」とか「心が覚えている」とかって言葉は、非科学的なものだとされてきた。

だけどこれで、この言葉が科学的に正しいものである可能性が出てきたからだ。

これは大発見だって、息巻いていた。


でも、東堂さんは喜んでなかった。

感情の記憶を消せないってことは、恐怖の記憶とかも消せないからだ。

これでは、PTSDの治療には役立たない。

事件のことは忘れても、そのときの感情を心が覚えていたら、意味ないんだ。




5月6日 木曜日

久しぶりに授業を受けると、疲れるね。

今日と明日は、研究所の方はお休みだ。

GWの宿題、やらないと。




5月7日 金曜日

日記を読み返して、ちょっと矛盾に気付いた。

前に私の記憶を丸一日分消したときは、私の感情も消せたと思うんだよね。

あの日読んだはずの文章やら映像やらを見ても、デジャヴは感じなかったもん。

どういうことかな。




5月8日 土曜日

昨日の疑問を、東堂さんに聞いてみた。

東堂さんにもわからないみたいだけど、仮説だけ教えてくれた。


最近の研究で分かってきたことらしいんだけど、能力というのは、基本的に能力者本人にのみ効果があるものらしい。

自分以外へも能力が使えるのは、おまけみたいなものなんだって。

だから紫帆も、自分自身はテレポートできても、自分以外のものはほとんど動かせない。

私も、自分の記憶や感情は自在に消せるけど、それを他人にも使えるのは、たまたまなんじゃないかって。


言われてみれば、能力ってそういうものだ。

バイロキネシスは、自分の体を発火させるだけの能力だ。ほかの物は燃やせない。

でも、自分で出した炎を操れるから、ほかの物も燃やしているように見える。

サイコキネシスはほかの物も操れるけれど、実は自分を操るのが一番簡単らしい。

たしかにサイコキネシストって、みんな空飛べるもんね。

千里眼は自分が遠くを見れるだけで遠くの人に自分を見せることはできないし、未来予知だって同じ。

自分を治せる治癒能力者はたくさんいるけど、他人を治せる治癒能力者は世界でも数例しか確認されていないそうだ。


だから私も、自分の感情は消せても、他人の感情を消すのは無理だろう、って言われた。




5月9日 日曜日

またママが研究所に呼ばれた。

今度はママに、感覚的なことを教えたり、忘れてもらったりした。

でもやっぱり、うまくいかなかった。

ここまで親しい人間でもうまくいかないとなると、やっぱり感覚的なことは絶対に操れないんだろうって言われた。

薫君への授業も、今日で終わりなのかな。

東堂さんは落ち込んでいた。

力になりたいけど、どうすればいいかな。




5月10日 月曜日

私は一体、どうやって人の記憶を消しているんだろう。

それがわかれば、感情の消し方もわかるはず。

でもそれは、東堂さんたちが一番真剣に調べていることのはずだ。

被験者たちの脳のMRIとかも取ってるみたいだし。

それでもわかってないんだから、私が考えたくらいでわかるようなことじゃ、ないよね。




5月11日 火曜日

どうしよう。東堂さんが私の研究から降りようとしてる。

今日、東堂さんに言われた。

東堂さんの研究の目的は奥さんのPTSDを治すことで、その見込みがない私の研究を続けるのは、時間的に厳しいって。

訓練でどうにかなるかもしれないじゃんって言ったけど、たぶん無理だの一点張りだった。

他にもっと見込みのある子がいて、そっちに集中したいんだって。


東堂さんにとって私って、その程度の存在だったの?

そりゃ、友達ってわけじゃないし、私が想ってるほど東堂さんが私を想ってないのもわかってたけど。

でも、先生と生徒みたいな、良い関係だったじゃん。


本当に奥さんのことが好きなんだなってのは、見ててわかったよ?

でもだからって、あっさりしすぎてない?

奥さんを治したいなら、もっと私を調べてよ!




5月12日 水曜日

私はどうしたらいいんだろう。

どうしたら東堂さんを引き留められるだろう。

紫帆に相談したら、案外大丈夫じゃないかな、って言ってた。

東堂さんの上司も、東堂さんが突然降りると言いだしたことに怒ってるんだって。

なら大丈夫かな……。




5月13日 木曜日

東堂さんの決意は固かった。

そもそも東堂さんは、この研究所があんまり好きじゃなかったようだ。

ブラックだから。


そんな環境下で、東堂さんはさらに別の研究施設と掛け持ちしてた。

こっちの研究所をやめて、もう一つの方に完全に移りたいそうだ。

私と画面越しに話してるときも、実はこっちにいないことが多かったらしい。

私がいるから続けてたけど、私の研究を降りるならもうここにいる理由はないんだって。


東堂さんの上司にたまたま会ったら、たしかに怒ってた。

でも、仲良いはずの私をあっさり見捨てることに対して怒ってたんじゃなくて、優秀な頭脳が抜けることに対して怒ってた。

こういう人たちの集まりなんだな、って思った。


実験には、今までにないくらい本気で取り組んだ。

訓練すれば、もしかしたら感情を消せるようになるかもしれないから。

だけど、今日もうまく行かなかった。




5月14日 金曜日

何も手につかなかった。




5月15日 土曜日

PTSDの治療も能力のコピーもできないとなると、私を研究する目的は、記憶の仕組みの解明とか、これを使った通信技術の開発とかになる。

でもどれも、東堂さんの興味の対象じゃない。

東堂さんたちのチームも、既に私に感情や感覚の操作は期待しなくなったみたいだ。


能力の研究は世界中で行われている。

見込みのないことにいつまでもこだわって、ほかのことに手を出さないと、どんどん出し抜かれる。


だから、仕方ないことなんだ。




5月16日 日曜日

東堂さんは本当に、私の研究をやめることにしたらしい。

もう決めたことだって言われた。


どうすることもできないのかな。

もう東堂さんに会えなくなっちゃうのかな。


なんで私は、感情を消せないんだろう。

なんで能力は、自分にしか使えないんだろう。

なんでこんな、中途半端な能力を持っちゃったんだろう。

もし感覚も感情もきれいに消せる能力だったら、東堂さんは喜んだはずだ。

ずっと私の研究を続けただろう。

東堂さんと一緒に、いろんな人に能力をコピーして回ったかもしれない。

一緒に学会に行ったりとかできたかもしれない。

奥さんから奪うことだってできたかもしれない。


さすがにそれはないかもしれないけど、でも、それを期待することすら、もうできなくなる。

どうしてこうなっちゃったんだろう。




5月17日 月曜日

一日中、なんにも集中できなかった。




5月18日 火曜日

東堂さんの顔を見るのもつらい。

もうなにもかもが嫌だ。

消えてしまいたい。




5月19日 水曜日

いっそ、消えてしまえばいいんじゃないかな。

前に、私の記憶を一日分消した後、思ったじゃん。

あの日の私はどこに消えたんだろう、って。

全部忘れて、消えてしまえば、楽になれるよね。


この記憶を、失ってしまおう。


明日、朝起きたら、すべての記憶を失っているだろう。




5月20日 木曜日

いま、日記を読み終えた。

びっくりした。

朝起きて、しばらくは何も気付かなかった。今日は涼しいな、と思った程度だ。

でも、授業を受けようとして、やっと異変に気付いた。

授業の時間割が記憶と違っていたし、内容も明らかに別のものだった。

混乱しながらスマホを見て、この日記アプリを見つけて、やっと理由が分かった。


私はどうやら、ここ一年近くの記憶を、丸々失ったらしい。

この間入学したばかりなのに、いまは二年生になっているようだ。

授業の内容が全く分からない。どうしてくれるんだ。


日記に出てくる研究所やら能力やらについて、私は何も覚えていない。

紫帆や薫君のことも、東堂さんとやらのことも覚えていない。


ママに言うと、驚いて、研究所に早く連絡しなさい、と言われた。

いまから連絡する。幸い、住所も電話番号も、スマホに入っている。



……

いま、研究所からの帰りの電車で、これを書いている。


研究所に行くと、東堂さんの上司という人が出てきたので、この日記を見せた。


自分の日記を他人に見せるなんて普通は恥ずかしいのだろうけど、自分の日記という感じがしなかったから抵抗はなかった。

そう、私は自分でこれを書いたという記憶もなかったし、デジャヴもなかったのだ。


東堂さんの上司はすごく驚いて、私は急遽色々なテストを受けた。

結果、たしかに私の記憶も能力も、全部失われていることがわかった。


上司さんはめちゃくちゃ怒っていた。

私にではなく、東堂さんに。

私にもちょっとだけ、怒ったけど。


東堂さんは、今日はいなかった。

でも紫帆さんには会った。

日記で呼び捨てにしてるから同い年かと思ったら、イケイケな女子大生だった。

紫帆さんのことも何も覚えていないというと、すごく悲しそうにしていた。


昨日の私は、本当に大変なことをしでかしたんじゃないかな。

これは、私が悪いんだろうか。でも、自分でやったという感覚が、まるでない。

昨日の私の狙い通り、本当に昨日までの私が、消えてしまった。




5月21日 金曜日

研究所に置きっぱにしていた私物を取りに行ってきた。

東堂さんは、来てはいたそうだが、事務処理に忙殺されてるとかで会えなかった。

私も、会いたくはなかった。

どんな顔して会えばいいのかわからなかったから。


ひとまず、しばらく来なくていいと言われた。

能力がなければ、私に用はないのだろう。




5月22日 土曜日

紫帆からLINEが来た。

東堂さんとやらが、僻地の研究所へ左遷されることになったらしい。

日記には、あの研究所を辞めてよそへ行くとか書いてあったのに?

と、聞いたら、どうも行く予定だった研究所から断られたそうだ。


私が原因らしい。

研究対象を、研究不可能なレベルに「損壊」したことで、危険人物って思われたんだって。

私と東堂さんのことは、もう学界中に噂として広まっているらしい。

いまの研究所も東堂さんを手放そうとしたけど、長年の勤務経験もあるため、左遷で済んだということだ。


本当に私は、とんでもないことをしでかしたみたいだ。

東堂さんとやらには、きっと恨まれているだろう。


でも私は、その人の顔も覚えていない。

持ち帰ってきた私物の中には、もしかしたら、東堂さんとの思い出の品とかもあるのかもしれない。

だけど、どれを見ても何も思い出さない。デジャヴすら感じない。

私は、自分の感情の記憶を、完璧に消してしまったようだ。


でも、本当にちゃんと、全部消せたのかな。

フラれたくらいで「消えてしまいたい」と願ってしまうくらい好きになった相手のことを、人間はそう簡単に忘れられるのかな?

私の能力は、本当にそんな強力なものだったのかな。


もし、感情を消し切れていないとしたら?

東堂さんとやらに関する何かを見た瞬間、感情だけを思い出してしまったら?

一年分の自分を消し去ってしまうくらいの深い失意を、いきなり思い出してしまう可能性は?

もしそうなったら、能力のない今の私は、自殺してしまうかもしれない。


私はこの先ずっと、そんな恐怖とともに生きていかないといけないのだろうか?

そんなのまるで、PTSDじゃないか。

その人のことは、思い出にも残っていないのに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

思い出には残らない 黄黒真直 @kiguro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説