湯に咲く花

東海林 春山

湯に咲く花


 こんな夜には大きい湯船に身体を沈めて深々と息を吐くしかない。


 顧客および上司からの理不尽な言いがかりとそれにまつわる諸々の処理を、定時もとっくのとうに過ぎた頃やっと終え、身を引きずるようにして自宅へ着いた。狭い1DKに篭った夏の熱気を、窓を開け放って逃がす。これから食事を作るのも化粧を落とすのも果てしなく面倒くさい。真っ暗な部屋からベランダに足だけ出しながら、このまま溶けて用水路にでも流れ出てしまいたい、とぼんやり思う。

 しかし、私には“あそこ”がある。徒歩二分、築うん十年、『松の湯』。地元民からも私からも愛されている昔ながらの銭湯。

 ヨシ、とひと声立ち上がり、愛用のお風呂セットを入れたポーチとふかふかのバスタオルに、着替え一式と小銭入れだけを手に部屋を出た。



  ♨︎  ♨︎  ♨︎



「ふう」


 自然と出るため息は、小一時間前とは全く異なって、充足を意味する。

 泥のように澱んだ疲れは、お湯とともにさっぱり流された。月が昇ってもまだ蒸し暑い夏の夜の空気も、ひとっ風呂浴びたあとの爽やかな状態では不快に感じなかった。ろくに乾かさなかった髪が少し濡れていて、それをぬるい風が撫でていく。蝉の大合唱はこんな時間でも止むことはない。

 少し歩いてから、通り過ぎたコンビニへ引き返す。銭湯では欠かせないコーヒー牛乳を飲んだばかりだが、本日の精神摩耗度から鑑みるに、私の身体はもう少し甘やかされて然るべきだ。

 そうして、ぺたぺたとサンダルを鳴らし、街灯の白い光のもと、コンビニで買ったビールとアイスを早速食べながら自宅へ帰る。行儀が悪いとかどうでもいい。私は私を甘やかす必要がある。行儀が悪ければ悪いほどいいのだ。

 ビール缶を傾け、ごくっと喉を鳴らした拍子にあることが頭によぎる。


 ――あの子、初めて見たな。


 ここに引っ越してきてから半年あまり経つ。越してすぐ存在に気づいた松の湯は、今や私の生活必需品のひとつで足繁く通う場所だけれど、番台に若い女の子が立つのを初めて見た。いつもは丸っこい頬が可愛らしいおばさんか、しわくちゃのおばあちゃんなのに。

 その女の子のふわふわと柔らかそうな長い髪の毛は、毛先にかけてグラデーションでブロンドになっており、派手な印象だった。そのくせ料金を受け取るときはしっかりと目を見て人懐っこく笑顔を浮かべたから、癒しの場にそぐわぬギャルかと警戒しかけていた心はすぐさまほどかれた。

 新しく入ったバイトの子なのかな。正直、番頭さんが若い人なのはなんとなく落ち着かない。松の湯は、番台が脱衣所と小窓で繋がっていて、石鹸や細々した物を客が買うときにはその窓を通して番頭さんとやりとりする。あちらが脱衣所のなかの客をじろじろ見るなんてことはもちろんないが、若年層があまり来ないのも気楽に通えている一因でもあるから、新人バイトちゃんを歓迎する気分にはなれなかった。

 ま、なんだか浮世離れした雰囲気のある人だったから、あの番台業務も繋ぎの短いバイトか何かで、そう長くは続くまい、と思っていた。


 ところが予想に反して、松の湯へいつ行っても彼女は番台にいた。初めの頃は、暖簾をくぐって引き戸をガラリと開けた瞬間にその細面が目に入ると、バイトしすぎ〜、とげんなりしたものだが、時間帯に頓着せず必ず「こんにちは」とにこやかに挨拶を述べ、入浴料金を受け取るときには決まってほっぺたにえくぼを作り「ごゆっくり」とのんびりした調子で見送られるうち、どうでもよくなってしまった。

 週末の午後に松の湯へ赴き、手早く身体を清めてから、「熱々の湯船でぽかぽかになったあと→サウナと水風呂の往復を何度もキメて→ぬるめの炭酸泉→最後にもう一度熱い湯」と時間をかけてお風呂を存分に楽しんだのち、夕陽のなかを充実感たっぷりに帰宅する、というのが黄金コースだったのに、週末のその時間は番台に見慣れたおばさんが立っていることが多く、なんだか物足りなくて、その週末贅沢プランも次第に色褪せて感じられるくらいだった。



  ♨︎  ♨︎  ♨︎



 煮詰めた汚泥を頭から何層も重ねがけしたみたいなしつこい疲労が身体に蓄積していた。チョコレートフォンデュを楽しむときの、こんこんとチョコが湧き出るチョコレートファウンテンのあれの源泉が全部、疲労の泥みたいな。私はそれに延々浸かってねっとりとした疲弊を全身にまとって、本来の自分がどんなものだったかもはや見失いそう、みたいな。

 ――あまりの困憊具合に頭のネジも外れかけている自らに危機を覚え、私は夜更けの松の湯へ駆け込んだのだった。今夜の番頭さんはあの若い女の子だったけれど、そんなことよりも温かい湯に身を浸すことが急務だった。


 敬虔な信徒が聖地を辿るかのごとく、サウナと水風呂をひたすら行き来した。限界まで火照った全身に浮かぶ汗を、桶ですくった冷水で流す。そして波を立てぬよう、足先から慎重に水風呂へ身体を沈める。微動だにせぬまま深く深く呼吸をするうち、森深い湖畔に漂う澄み切った空気が肺を満たしていく。肺の形すら感じられるようだ。勤勉な臓器は冷涼な空気を身体のすみずみまで送り出す。脳の存在をはっきりと感じる。得も言われぬ快感が全身を貫いていく。「何も考えられない」という“無”の境地と、「すべてを理解した」という全能感のふたつを同時に味わう。幾度もサウナと水風呂を往復するたびに、この恍惚感は研ぎ澄まされていく――。

 このトリップ体験が合法というのは一体どういうわけか。広々とどこまでも穏やかな気持ちと法悦に打ち震える歓喜のなかで、私はいつも首を傾げざるを得ないのである。


 無事ととのった身体を、締めとばかりに熱い湯船へ浸した。浴室の壁に設けられた時計は、もう間もなく営業終了時間だと示している。サウナと水風呂で修行僧のように悟りへの道を邁進しているうち、他の客はみな帰ったらしい。男湯のほうからも、さきほどカコーンと手桶がタイルを鳴らした音が高く響いて、ガラララと引き戸がスライドしたらしきのちは、人の気配がまったくない。

 銭湯といえば思い出す古い曲がある。広く、天井の高い浴室で歌うのはさぞかし気持ちがいいに違いない。遠慮がちに口ずさみはじめた歌は、やがて熱唱に変わっていく。


「♪ ただ 貴方の やさしさが――」


 そのとき、引き戸を開ける音がして、冷たい空気が流れ込んだ。口をつぐむ。


「……」


 くっっそ恥ずかしい。

 女湯へ入ってきた人物に目を向けることなく、カポン、ザブリと浴室に響く、誰かが身体を清めている気配に息をひそめながらも、今出て行くのは負けな気がする、と思って湯船に浸かり続けていた。それでも恥ずかしさは厳然としてあるから、緩慢に湯の中を移動して洗い場へ背を向けた。

 やがて手早く身体を洗い終えた誰かが、ぺちぺちと裸足の足音を鳴らして同じ浴槽に浸かるのを感じた。目をつむって波打つ湯を黙って受け止めていたら、


「――お風呂で歌うの、気持ちいいですよね」


と言葉が投げられて、思わずそちらへ振り向いた。浴槽の縁に背を預け、えくぼを頬へ刻んで柔和に笑うのは、番頭の女の子だった。

 つかの間返事に窮した私を気にかけることなく、彼女は大きく口を開け、


「♪ ただ 貴方の やさしさが 怖かった〜」


 朗々と歌声を浴室いっぱいに響かせた。

 呆気にとられた私へにこりと笑いかけて、


「終業後はいつも私ここで大熱唱してます」


と言い、また歌い始めた。実に気持ち良さそうに歌うものだから、私は笑い声をあげてしまった。「ね」と満足そうに彼女も微笑む。

 それに頷き返し、私は世間話代わりに短く言う。


「ここ、バイト募集されてたんですね」


 言葉の意図を図りかねたか、彼女は不思議そうな色を一瞬目に浮かべたあと、ふにゃりと相好を崩した。


「いえ、私の実家です、ここ」

「えっ?」

「一年くらいワーホリ――ワーキングホリデーってので海外行ってたんで、その期間は居ませんでしたけど、それまでは私もときどき番台に立ってたんです」


 私が新人バイトだと思っていた人は、親愛なる松の湯のお嬢さんだったというわけだ。歌を聴かれたときよりも強い羞恥心が顔を熱くする。


「わあ、私、常連ぶって恥ずかしい」

「いえいえ、常連さんですよ。よく来てくださってありがたいです」


 常連客の一人として存在を認識されてたんだ。ちょっとこそばゆい。

 人懐っこく笑っている彼女の姿に、さきほどから気になっていることがあった。白濁した湯から出た肩の少し下、左の胸元に赤く咲いている小さな薔薇。


「それ、お風呂屋の娘さんなのに、いいんですか?」


 彼女の胸にあるタトゥーを指差して、からかい混じりに訊いた私に対し、彼女は悪戯っぽい表情を浮かべた。


「ふふ。親からは、お客さんには見えないようにしろ、と言われてます。でもうち、別に刺青もタトゥーも入店お断りはしてないんですよ」

「あ、そうなんですね」

「とはいえ、ほんとは私、あっち行くまでタトゥーいっこもない『きれーなカラダ』してたんですよ。まんまと海外にかぶれちゃいましたねー」


 『きれーなカラダ』と口にしたときにわざとらしくしなを作ってみせた彼女へ笑いながら、「痛かったですか?」と質問してみる。


「私はそんなに。でも、一緒に入れに行った子は腫れて大変そうでした」

「ひーっむりむり」


 想像しただけで痛い。ふと見上げた壁の時計に私は慌てた。


「あっもうこんな時間! ごめんなさい、営業時間過ぎちゃってました」

「ああ、全然。閉めるときはそんなにやることないんです、掃除は朝やるんで。なのでゆっくりしてください」

「ありがとうございます。でも、そろそろのぼせそうなので、先に失礼しますね」

「はい」


 頭を下げて、ざばりと浴槽から出る。

 大きな扇風機が心地よい風を送ってくる脱衣所で体を拭きながら、浴室中に響いていた歌声を思い出して笑みが浮かぶ。いいな。あの子、毎日ああして歌ってるのかな。

 洗面台の鏡の前に座って化粧水などをつけていると、浴室の戸が開いて番頭さんが出てきた。鏡越しに微笑みかけられて笑い返すけれど、なにぶんあちらは湯上りの裸だから、私はすぐに鏡から視線を逸らした。

 ほどなくして髪も乾かし終え、本日の湯浴みを完璧なものにすべく、私はロビーの自動販売機からコーヒー牛乳を取り出した。

 首を反らしてひと息に牛乳瓶の中身を飲み干す。乾いた喉と言わず全身に染み渡る水分と糖分のありがたみを噛み締めていたら、番台に肘をついてこちらを眺めている番頭さんと目が合った。


「いつも美味しそうに飲むなーって」


 長袖の薄いスウェットを着て、濡れたままの髪を一つに結んだ彼女が、にこにこして言う。今までも見られていたのか。気恥ずかしさを紛らわせるために、愚痴っぽくこぼしてみる。


「ここでビール売ってたら最高なんですけどね。風呂上がり、即ビール」

「泥酔客とかめんどくさいんで置かないです」

「んー残念」


 閉店時間も過ぎていることだし、おいとましようと口を開きかけたとき、


「あ、そこのコンビニでビール買ってきて飲みません?」


彼女がさらりとそんなことを提案した。なんとなく後ろ髪を引かれる気持ちだった私は勢い込んで聞き返す。


「えっいいんですか」

「はい、お姉さん、きっとコーヒー牛乳よりもっと美味しそうに飲んでくれるんだろうなって」

「なんかプレッシャーなんですけど」

「期待してます」

「ここに戻ってきて飲む感じですか?」

「コンビニの前とかで飲んでもいいですけど、まーいい大人が何してんだって感じですし」


 そう言いながら、脱衣所の電気を消したり、いろんなスイッチを切ったりして回る彼女の後ろ姿へ、迷いながら言葉をかける。


「……うち、ここから近いんです。来ますか? うち」


 彼女は振り向いて目をきらきらさせた。


「わ、いいんですか?」


 その無邪気な様子に胸の奥がなぜだか疼く。


「よければ」

「わーい。行きましょう行きましょう」




 松の湯を二人で出て、目の前のコンビニでビールやおつまみを買い、自宅へ帰った。


「お邪魔しまーす」

「はい、狭いんですけど」


 数時間前ここへ辿り着いたときにはもう誰とも会話したくないほど疲れていたのに、入浴を終えた今、身も心もさっぱりとして、名前も知らない女の人とお酒を買い込んで帰って来ている。


 小さなちゃぶ台におつまみを広げ、ビールを飲む。サウナと水風呂でととのえた身体に、アルコールはしみじみと行き渡った。

 風呂上がりとお酒の組み合わせはほどよい弛緩をもたらし、初めてまともに会話するというのに、彼女とは話が弾んだ。

 声を交わし、親しげに笑い合ううち、今は服の下に隠れている、彼女の胸元に咲いていた薔薇の絵が脳裏をちらつくようになった。鏡に映る均整のとれた身体の線が頭に蘇る。

 お酒に潤む目とほんのり染まる彼女の頬を見ながら、ちりちりと胸の内で燃えていく欲望に後ろ暗い気持ちを覚え始めて、私はその顔から視線を剥がそうと、ちゃぶ台のすぐそばのベッドへ腰掛けた。


 クッションの上へ座っている彼女の、髪が結ばれて露わになった耳の後ろに、私は新たな図柄を見つけた。


「耳の後ろにもタトゥーあるんですね」

「あ、そうなんですよ」


 右耳のすぐ後ろで、数羽の鳥がはばたいていた。


「……触っていいですか?」

「はい」


 不躾な申し出にも笑みを含んで返された答えに安心して、私は人差し指でそろりとそこへ触れた。


「――タトゥーの線って、ちょっと盛り上がってるんですね」

「なんか血行よくなったときはそうなりやすいみたいですね。お風呂入って酒飲んで、今は血ぃビュンビュンでしょうし」


 ざっくばらんな物言いにくすりとすれば、彼女はポニーテールにしていた髪の毛を前側へ払って、


「首のとこにもあります」


と言う。シャンプーの香りがふわりと香った。スウェットの丸い襟から、何かの絵が覗いている。襟をそっと引っ張って覗く。雲間から差し込む光、いわゆる“天使の梯子はしご”が細く伸びて山並みにかかるイラストが簡潔な線で描かれ、肩甲骨の間に続いていた。許しも得ずに親指でゆっくりとその一部をなぞると、かすかにでこぼこを感じられた。


「……血、ビュンビュンですね」


 沈黙に惑って、どうでもいい所感を述べてしまう。

 すると彼女は振り返ってベッドの上へ片肘を預け、


「他のところにもありますよ」


と挑戦的な光を目に閃かせ、私をまっすぐ見上げて言った。

 我知らず息を呑み、


「……見たい」


 そう、呆然と私はつぶやいていた。

 彼女は立ち上がり、私の隣へ静かに腰掛けた。ベッドが軋む。笑みをたたえた瞳がこちらを見ている。耐えきれず私は尋ねた。


「――どこ?」

「こことか」


 長袖をめくって彼女がさらした左手首の内側には、猫のものだろうか、小さな肉球の足跡がてんてんと続いていた。


「……」


 その腕を取って人差し指を滑らせてみるが、胸の鼓動がうるさくて指先の感覚はよくわからなかった。

 何も言えずにいる私へ優しく笑いかけつつ、彼女は言う。


「あとは、こことか」


 右胸の下のあたりを指している。

 女性らしい豊かな膨らみがスウェットを押し上げ、その頂点の位置をかすかに知らせている。

 ねだるようにその目を見つめたら、彼女は笑みを深くして服の裾を胸の途中まで持ち上げた。ブラジャーを着けていない乳房のきれいな丸みの下、滑らかな肌の上に、何かアルファベットの文字が走っている。顔を近づけてそれを見るけれど、痺れたような私の頭にはその英文の意味が入ってこない。

 自分の呼吸音と、石鹸の香りだけわかる。


「――触っていいですか?」


 懇願するみたいにして囁いた私を見下ろしながら、彼女は微笑んだ。


「――お姉さんになら、いいですよ」


 なんでもないように笑う彼女へ反発心を覚えて、私は口を尖らせ小さく言った。


「……“お姉さん”じゃなくて、あみ」

「あみさん」


 そのぷるんとしたピンク色の唇が自分の名前を紡いだことに、心臓がきゅうと甘く縮むのを感じつつ、細い胴体へ手のひらを添え、流麗な書体の文字を親指でなぞった。くっと息を呑む気配がして、私の頭の上に彼女の手が置かれた。

 上半身を起こし、彼女と目線を合わせる。置かれていた手が私の首筋の後ろへ滑り落ちる。


「――あなたの名前は?」

「すみれです」


 そう答えた彼女の顔へ、体温も感じられるほど近づいて、私は訊いた。


「……キスして、いいですか?」

「――あみさんとなら、したいです」



 ――結局のところ、“お姉さん”という呼称はどこまでも正しくなかった。

 すみれのほうが私よりひとつ年上だったのだ。でも、彼女はいつまでも敬語をやめようとしなかった。

 私が営業時間ぎりぎりに入浴しに行って、ふたりで広々としたお湯に浸かり、それからこの狭い部屋へ帰ってきて身体を重ねる。

 それを何度繰り返しても、私が敬語をやめても、彼女はそれを崩さなかった。



  ♨︎  ♨︎  ♨︎



 鈴虫が鳴き、金木犀の甘い香りが漂う深夜の道を並んで歩く。

 帰宅時にはしんと冷えているシーツは、お風呂上がりの人間が二人横たわり、あれやこれやするうち、たちまちぬるく湿る。

 細く開けた窓から届く虫の声に目をつむり耳を傾けている様子のすみれをまだ眠らせたくなくて、月明かりを浴びて白く浮かぶその手首をさすり、私は口を開く。


「こんなとこにタトゥー入れたら、ふつうの会社で働けなくない?」


 すみれは、しばらくのあいだ家業をのんびり手伝って、いずれは外でまた働き始めるつもり、と言っていた。海外へ飛び出る前は銀行というおカタい場所で働いていたというから驚きだ。彼女は薄く目を開け、答える。


「働けなくなったらなったで、ちょっとふつうじゃないとこで働いたらいいかなって思ってます。そういうカタギの世界には戻んねーぞ、という覚悟決める意味もあってここに彫りましたし」

「“カタギ”。そんな波乱万丈な感じで生きる予定なの?」

「波乱万丈は勘弁願いますけど。まー案外どこでもやっていけるもんですから」

「そういうもんですか」

「そっす。外国行ったらわりとみーんなふらふら気ままに人生送ってますよ」


 淡く笑ったすみれは、ふと顔を曇らせた。


「まー……今こんな状況でそういうことも難しくなってますけど」

「こういう状況?」

「世界中がパンデミックじゃないですか」

「ああ」


 国境も人種も関係なく、新種のウィルスは人々のあいだに拡がり、暮らしを一変させた。一年間有効なビザを手に異国で暮らしていたすみれも、不安定な状況にやむなく日本へ帰ってきたと聞いている。


「――今はなかなか難しいです、ふらふら生きるの」


 その顔に影が差すのは珍しかった。

 彼女が遠い目をするから、心細さに任せて私はぽろりと尋ねてしまう。


「……すみれ、いつかまた行っちゃうの? 海外」

「……さあ。この状況がいつ終わるのかわかりませんし」

「でも、行きたいの?」

「……」


 詰問するように問うた私へ、彼女は困惑を漂わせて苦笑した。


「なんで行きたいの」


 鋭く投げつけた私の言葉によってまるで斬られたかのごとく、彼女は眉をひそめた。そしてくしゃりと顔を歪ませ、


「――この国にいると息が詰まる」


苦しそうに呻き、背中を丸めた。


「……」


 わかる気もしたし、でも、やっぱり正確にはわからない。

 独り言のように漏らしたそれは、敬語ではなかった。私に向けた言葉じゃないからだ。

 悔しい。ちゃんと、ここにいる私と話してほしかった。

 すみれが今、ここに存在している証明を得たくて、私はその顔を挟んで無理やり口付けた。



  ♨︎  ♨︎  ♨︎



 息を吐けば白いもやが宙に浮かぶ。

 暖簾をくぐってすぐさま鼻先が冬の寒さにつんと痛むから、私たちは洗面台で髪をしっかり乾かしてから松の湯を出るようになっていた。

 熱いお湯でぽかぽかに温まった身体は、たった二分の道のりのうちにも冷えてしまう。消えた暖かさをかき集めるべく、部屋へ着くなり私たちはいつも互いの肌に触れ、舌を這わせ、呼吸を荒げた。

 取り戻した体温を逃さないようぴったりと体をくっつけ合った布団のなか、私はすみれの右胸の下に指先で触れている。そこには、“I guess everything reminds you of something”という英文が小さく彫られている。


「なんでここ、この文章入れたの?」


 鼻先をこすり合わせてうとうとしていたすみれが、目尻を優しく下げた。


「ヘミングウェイの短編集の題名で、日本語だと『何を見ても何かを思い出す』って訳されてるんですけど。なんか、その感覚わかるなあ、ってずっと思ってて。――私、じっとしてると、過去のことばっかり思い出すんです。自分のこと、過去の記憶でできた亡霊みたいだなって思うことがあります」


 ほのかにできたえくぼを見ながら、私は嫉妬心を覚えた。

 すみれの左の腰骨のあたりには、可憐な押し花みたいな絵が入っている。淡い色で描かれたそれは無垢で、純真で、柔らかく、私の目にはそれがすみれの剥き出しの少女性のように思えた。けれど、この位置に咲く花々を見た人物が私以外に過去、いるとするならば、それはあるひとつの事実を示唆する。

 今まで何度も触れてきたその花々を撫でつつ、私は低く彼女へ尋ねる。


「このタトゥー、誰か他の人も見た?」


 こちらの目を覗き込み、すみれは悪戯っぽく答えた。


「さあ?」

「……」


 黙り込んだ私を面白そうに見て、彼女は笑った。


「少なくとも、彫師の人は見ましたよね」


 この感情を適切に表現する手段がなく、私は腹立ち紛れに彼女の指と指を絡めて布団から引っ張り出し、その手首の猫ちゃんの足跡を眺めてつぶやいた。


「……いいなあ」


 ――すみれに、思い出される人が。


「あみさんも、タトゥー入れたらどうです?」


 すみれは、いつまでも敬語やめない。アウトローぶっているのに、そんなところはずっと律儀だ。あくまで私はお客さんの一人だからだろうか。


「……働けなくなっちゃうもん」


 私の拗ねた口調も、タトゥーに厳しい社会への不満の表明と単に捉えた彼女がこともなげに言う。


「目立たないとこに入れればいいじゃないですか」


 それこそタトゥーを入れたら、それを見るたび間違いなくこの人を思い出してしまうだろう。

 ――いつか居なくなる気がする。すみれは、ここには留まっていない気がする。


 外国で自由に暮らしていた頃の名残を残す、すみれの明るく染めた髪先は、もう痛んで色も抜けきっている。それでも彼女はそれを切らずに、ときどきここに居ないような遠い目をしてみせる。

 私の身体に消えない模様だけ残して私の前から消えてしまうなんて、絶対いやだ。


 すみれは、口を閉じた私の腕を取って起き上がり、ちゃぶ台の上からボールペンを手にして、


「私が彫ってあげます」


と頬を緩めた。自分のものと見比べながら、私の手首の内側へ猫の足跡を付けていく。くすぐったい。

 出来上がると、彼女は「お揃い」と嬉しそうに笑った。その様子だけで、私はその何倍も嬉しくなってしまう。

 興が乗ったのか、彼女は私を壁へもたれかけさせ、この胴体にもペンを走らせた。右胸の真下、すみれの『何を見ても何かを思い出す』と同じ場所に、“Sumire”と署名された。私はそれを見て、


「観光地で落書きする悪ガキかよ」


と鼻で笑ってみせたが、実際のところ、彼女が私に対する執着心を表してくれたみたいで、泣きそうなほどの幸福感が胸を満たした。


「ペン貸して」


 右の胸を押さえつつ、すみれから受け取ったボールペンで、この身体の上へ走る“Sumire”という文字の隣に、“♡”と“Ami”と自分の名前を付け足した。自分の側から書いたので、それらは“Sumire”とは天地が逆さになっているけれど。でも、その文字列の並びに私の顔は自然と綻んでしまう。すみれも微笑している。


「これこそ観光地に来た頭わるいカップルじゃないですか」

「……」


 ――私たちの関係はなんと言えるんだろう。

 ふと訪れた思考に沈む私へお構いなしに、すみれは悪戯書きへ大事そうに指を這わせる。


「ふふ、こっちから見ると、ハートが逆さまでお尻みたいになってます」


 私たちは、付き合っては――いない、と思う。告白とか、そういうのを経たわけじゃない。街をデートしたこともない。

 でも……それならなんでこの人は、そのふたつ並んだ名前へ、こんなに愛おしそうにキスを落とすのだろう。


 ――絶対に、彼女の名前のタトゥーなんて、自分の身体に入れたくない。入れたら絶対後悔する。

 絶対に、この関係性は永遠ではないから。


「すみれ」


 静かに呼びかけた私を、彼女は不思議そうに見上げた。


 それなら、今を刻みつけてやる。

 私はすみれを押し倒して、噛みつくようなキスをした。

 刻みつけてやる。私を。

 この人が、私を永遠に忘れられないくらい。

 私のために、この国に留まっていたいと思うくらい。


 だから、どうか、お願い――。




 ――だけどやっぱり、彼女はここを出て行ってしまった。

 長い長い時間をかけてパンデミックが収まって、外国籍の人でも特別な対応なしに入れる国が増えた頃、彼女は伸びていた髪を切って、また海の向こうのどこかへ飛んでしまった。



  ♨︎  ♨︎  ♨︎



 すみれがいなくなってからも松の湯へは通い続けた。

 番台には、以前通りおばあちゃんとおばさんが毎日立つようになった。


 ふにゃりと笑う目元が似ているおばあちゃん。

 ――“何を見ても何かを思い出す”。


 入浴料を受け取ったおばさんが言う、「ごゆっくり」の響き。

 ――“何を見ても何かを思い出す”。


 ある夜、おばさんの頬にもかすかにえくぼができることに気がついて、もうだめだった。

 ロビーから脱衣所に駆け込んで服を脱ぎ捨て浴室へ入り、メイク落としのジェルを急いで目元に広げた。メイクを落としてからも何度も何度もお湯を顔にかけた。それでも、目からは熱いものが流れた。


 そうして松の湯へは行かなくなったけれど、引っ越しはしなかった。あの子がいつか、風呂上がりの濡れた髪のまま、この部屋に来ることを諦めきれなかったから。



 狭くて仕方がないと思っていた部屋は、彼女がいなくなると広く感じた。

 拡がる隙間に耐えられないときは、彼女の腰に留められていたささやかな花たちを思い出しながら、メモ用紙にそれを描いた。

 初めは黒一色のボールペンで再現していたけれど、次第に物足りなくなって24色の色鉛筆を買い、何度も花を描いては捨てた。特に気に入っていた黄色の一本だけを繰り返し描くうち、自分でも満足するくらい上手くなって、紙の上の押し花作りはやめた。

 そして、その可愛らしい一輪の花の絵を、寒々しい部屋に飾った。


 ――“何を見ても何かを思い出す”。


 私にとってのその“何か”はただひとつの存在なんだけど。


 忘れようとしてもこんなものを飾っているから忘れられるわけがない、と私は自嘲の笑みを口元に刻む。

 でも、その小さな紙を捨てることはどうしてもできなかった。

 押し花は枯れることなく、いくつもの季節を超えた。



  ♨︎  ✈︎  ♨︎



 ある週末の夕方、食料品の買い物を終えて郵便受けを覗くと、そこには一枚の絵葉書があった。雪をかぶった切り立つ山の手前に、波ひとつ立っていない湖か海が澄み渡り、空と山々を映している。裏返すと、たくさんの切手とともに、


“Sumire♡Ami”


とだけ書いてあった。“♡Ami”は上下逆さまになっていて、“♡”はお尻っぽさを強調して書かれている。


 ――ああもう、ちくしょう。なんで忘れさせてくれない。なんで忘れてない。


 怒り、戸惑い、嬉しさ、興奮、どれとも言えない感情が全身を迸って、私はその場に立ち尽くした。

 差出人の名前は書かれていないが、誰から送られてきたものかは明白だ。

 息を詰め、彼女の手によって書かれた逆さまの文字を見つめているうち、右胸の下が熱くなっていく。

 弾かれるようにして自宅へ飛び込む。

 そして私は、花を描いた小さな紙片を手にして、以前場所を調べたことのあるタトゥースタジオへ駆け込んだ。



  ✈︎  ✈︎  ✈︎



 長いフライト時間にも関わらず飛行機の中では一睡もできなかったから、目がしょぼしょぼする。

 大きくはないスーツケースが床を滑るガラガラという音と一緒に、心臓の鼓動が速くなっていく。怖い。不安だ。

 そのとき、到着ロビーの出口で立っている女性の姿が目に飛び込む。

 こちらに気づいて、彼女が微笑んで片手をあげた。


 温かいお湯に全身を浸したときみたいに、心がじんわりとほどける心地を味わいながら、「一瞬血迷って、“Sumire♡Ami”と彫ろうか考えたけど、やめてよかった」と思った。


 名前を刻み込む勇気はないけれど。

 故国に居たときよりもリラックスした様子の彼女に、「同じデザインの小さな花を一輪、あなたとは反対の腰のところに入れた」と言ったら、どんなふうに応えるだろうか。


 最初は困って、でもきっと、「いいじゃないですか」って笑ってくれる。


 私は腕を広げ、彼女の胸へ飛び込んだ。



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湯に咲く花 東海林 春山 @shoz_halYM

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