失恋したら女性は髪を切る、なんていうけれど

失恋したら女性は髪を切る、なんてことをよく聞く。

 けれど私にとっては逆かもしれない。

 

「あの、14時半予約の雪嶺というものですが」

 

 お待ちしておりました。とにこやかな笑みを浮かべる受付のお兄さんとの会話を済ませると、荷物を置いて他に誰もいないソファーに腰かけた。

 その間に流れた時間は2分もなかったような気もするけれど、果てしなく長かったようにも感じられた。早く会いたいと思いながらも永遠に準備できない私の心の準備が終わるまでは待っていてほしいと、矛盾した感情が私の中を巡る。

 

「雪嶺様、お待たせいたしました。お久しぶりですね。それではこちらへ」

「よ、よろしくおねがいします」

 

 緊張気味に言葉を返すと相変わらずですね。と、彼は白い歯を見せながら笑んでいた。

 私に内在する顔見知りという性格よりも、彼の前だからという方が大きいだろう。緊張でいつも初対面のようなぎこちなくちぐはぐな答えを返してしまう私に恥じらいを感じた。

 会話すらまともに返せない私は直接彼の目をみつめるなんてことはもちろんできず、ミラー越しに彼を見つめることしかできなかった。

 

「メガネはこちらをご利用ください」

「あ、はい」

 

 名残惜しそうに机に置かれたメガネスタンドにそれを置くと、同時になぜだか底知れない安堵の感情も湧き出てくる。

 

「本日はどうなさいましょうか?」

「えと、前回と同じくらいでお願いします」

「承知いたしました。前回が確か…… 4か月前くらいでしたね。だいぶ伸ばされたんですね。一時間ほどの施術になると思われます」

「えぇ、なかなかに忙しいもので」

 

 通えないほど忙しいわけなんてもちろんなかった。

 髪を伸ばすことは嫌いではないけれど好きでもない。ただ、長くしていたほうがその分、彼と一緒に居ることのできる時間が増えるのではないかという、そんな浅はかな発想からだった。

 とりあえず適当な雑誌を手に取り、適当なページをめくり、適当なところに視線を置き、至福の時間ともいえる施術を謳歌してみることにした。

 

「いつも思ってたんですがそれ、読めてるんですか?」

「え、えぇ、全然読めないというわけではないんですよ」

 

 彼に嘘はつきたくはないけれどここではそういうことにしておく。本当は文字なんて全く読めないし、見えるのはアップで撮られたであろうなにかの輪郭だけ。それでも、それでよかった。

 私は雑誌を見ているようで見ていない。感覚を研ぎ澄ませるために、視線をただそこに置いているだけ。

 彼の白く柔らかい指が私の髪に触れ、櫛があっちにもこっちにも飛んでいる髪を整列させる。

 

「うらやましいです、僕の場合はこれがないとさっぱりで」

 

 ぼやけた視界の中でも、彼がつるを少し持ち上げているのがわかる。微笑みながらのその仕草に思わず胸が跳ねる。

 至福とはこういうことを言うのだろう、と実感した。

 ただ同時に、チャキ、チャキと銀のハサミの通る音が心地よくも恐ろしいもののように思えた。

 それは私とあの人との時間を少しずつ切り刻んでいるような気がしてしまって、もちろんそんなことはないのに。ないはずなのに。

 ただただページを捲っているうちにも施術は進んでいった。

 私が来た時には誰も居なかった両隣にはいつのまにか人が座り、顔だけは何回か見たことのある美容師の方と楽しそうに会話をしていた。こちらとは対照的に。

 けれど逆にそれが言葉を交わさずとも通じ合っている関係のようにも空似してしまい、余計に恥ずかしく、けれど嬉しくなってしまった。そんなことあるはずもないのに。

 私は今、世界で一番あの人の近くにいる。けれど同時に、時折目に入る左指の薬指の銀がふたりの距離をどこまでもどこまでも遠くしていた。

 その度私は失恋する。想いを伝えることさえ、言葉すらろくに交わしていないのに。

 その距離は私がどれだけ努力しても縮められないだろう。だって、何回も通っているはずなのに、彼と私との距離は数センチしか近づけられていないのだから。

 

「長さのほうご確認いただけますか?」

 

 その言葉を聞くたびに胸が少し、苦しくなる。

 残りの数分が経過したらまたしばらく、いや、もしかしたら永遠に会うことがなくなってしまうと思わされるから。

 スタンドからメガネを取りかけると、そこには変わらずにこやかな笑みを浮かべる彼と変わり果てた私の姿があった。

 

「大丈夫です。ありがとうございました」

「お疲れ様です。ありがとうございました」

 

 荷物を受け取り会計を済ませるとエレベーターの脇に彼は立っていて、下に降りるボタンを押していた。

 エレベーターなんて永遠に来なくていいのに。

 子供みたいなおかしな願いを携えながら横に立つ。

 

「本日はありがとうございました。またお越しくださいませ」

 

 どうしてだろう。

 その言葉は私にとってとても残酷な言葉のようにも聞こえる。彼も言いたくて言っているわけでも、そういう意味を孕んでいるわけでもないのに。

 4か月間一緒だったそれのかからない肩に名残り惜しさを感じながら店を後にした。

 下るエレベーターの中でひとり思う。

 失恋したら女性は髪を切るなんて言う。

 私にとってはその逆かもしれない。

 髪を切ると、私は失恋するのだ。

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【短編集】ワン・アワー・アゴー テルミ @zawateru

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