明けることのない夜に

たんく

星、君と。

 ――ひとつ、星が好きだった。

 一段と明るいスピカを頼りにして、おとめ座を見上げる君の横顔。ピンと伸びた指先につられて視線もそちらへ流れたが、気が付くと君の方へと戻っていた。


 ――ひとつ、夜空が好きだった。

 街灯がぼんやりと揺らぎ、人通りのまるで無いような深夜一時。この世界にただ二人取り残されている、そんな静けさに心地よさを感じていた。


 ――ひとつ、煙草が好きだった。

 寿命の前借りで至福を得ているのだと、君はおどけて笑ってみせた。肺の中にある君の酸素が、ニコチンと混ざって外気へ溶けていくのをいつも目で追っていた。


 ――ひとつ、音楽が好きだった。

 たかが一曲、たかが数分のメロディーには、アーティストの人生が詰まっているのだと君は静かに呟いた。しかし、どれだけ聞こえは良くてもラブソングは失恋体験を美化しているだけだから注意する事だと、目を細めて意地悪そうに笑っていた。


 ――ひとつ、本が好きだった。

 人生なんてものじゃない。綴られている言葉を目にするのならば、それは人間一人と対峙しているようなものだ。決して目を逸らしてはいけないし、半端な覚悟では向き合い始めないし、最後まで見届けない。君は愛おしそうに装丁を撫でている。


 ――ひとつ、散歩が好きだった。

 君はよく、木漏れ日の中を鼻歌交じりに歩いていた。シャクシャクと落ち葉を踏んだ音が心地よい。


 ――ひとつ、野菜が好きだった。

 特にキャベツ。いつも千切りにして食べていたんだっけ。


 ――ひとつ、猫が好きだった。

 犬派かどうかでよく揉めたっけ。


 ――ひとつ、ラジオが好きだった。


 ――ひとつ、テレビドラマが好きだった。


 ――ショッピングが好きだった。


 ――カメラが好きだった。


 隣家のおばあさん、近所の安売りスーパー、砂浜、子供、絵画――。


 ひとつ、ひとつ、ひとつ――。




 ひとつ、ひとつと歳を重ねる毎に、段々と記憶も薄れていくものだ。あれだけ見惚れていた君の横顔も、今ではその輪郭を思い出すだけで精一杯である。

 額を爪先で掻く。尻の下に引いたレジャーシートが夜風に拭かれて巻き上がり、共に砂も巻き上がってきたので思わず顔を手で覆い隠した。

 草木も眠る頃、辺りには誰も何もいなく、ただ一人で砂浜に腰を落としていた。数十分に一度、運送トラックの過ぎ去る振動が身を震え上がらせ、頬を撫でる夜風が体温を攫い肩に巻いているブランケットを握る手に力が篭る。


「あぁ、そう言えばレジャー施設も好きだったか……」


 吹き上がったレジャーシートを整えていると、君の好きだった事をまた一つ思い出すことが出来た。

 

「でも、それだけだ。それ以上はもう、思い出せないな」


 ばたり。

 重力にしたがって己が身を横に倒し、星々を真っ直ぐに見据える。

 そう、君は星座を目上げるのが好きだった。熱心に教えてもらった覚えはあるが、残念ながらほとんど記憶に残っていない。横顔も、その声も、重ねた年月の前では崩れていく。

 ただ、それでも。真っ直ぐに夜空を見上げ星の煌きを映していたあの瞳は、心の奥底に刻まれている。


『夜の海ってさ、世界が残した星空専用のキャンバスだと思わない?』


 風一つ無い、凪いだ海に映るは何百何千の煌き。

 空と海、その境界線も徐々に溶けていき、どこからどこまでが空で海なのか、時間が経てば経つほどに惹き込まれていく。

 

 だからいつも二人でこんな夜遅くになってまで、片道数十分も車を飛ばしてはこの砂浜まで足を運んでいたのだ。


『いいよね、見渡す限り星だ。写真に収めた夜空は嫌ってくらい綺麗に見えるけれど、今を生きる、この目で見てこそだと思うんだ。一瞬の煌き、あの星はもしかしたら、人間の目に映る同時刻には無くなっているかもしれないんだ。学校で習っただろう? だから、ちゃんと、見届けないと』


 そう……そうだ。だからこうして足を運んでいたんだ。

 いつ消えてなくなるのかなんて分からない。だからこそ今を精一杯生きなければならない。


 そのはずだったのに、いつから二人で砂浜に向かってまで星を見上げなくなったのだろう。

 いつからか写真を見るだけでも満足していたし、室内に篭ったままで終わらせることが多くなっていた。


 ベットの上に横たわったまま君は、両の手を使って四角を作っては、窓の縁にそのフレームを合わせた。


『やっぱり、こんな大きさのキャンバスじゃ物足りないね。最期にもう一度、一生の記憶に残るような満天の星空を見ておきたかったな』


 その時、思わず外に飛び出した覚えがある。

 君の手を握って、震える手を何とか押さえてエンジンキーを差し込んだのを覚えている。


『君は、最後まで君らしくいなきゃ駄目だ』

『あぁ、そうだね、最期まで……。ありがとう』


 生憎その日は天気も悪く、風も強く吹いている日だった。君が好きだった星空専用のキャンバスは見る影も無い。

 すぅっと血の気が引いて、思考が定まらなくなった。足腰に力が入らず、いつの間にか地べたに腰を落としていた

 それでも君は、目に涙を浮かべながらこう言ったんだ――。


『ありがとう、ありがとう――。人生最高の夜だったよ――――』


 あの夜から一体どれくらい経ったのだろうか。

 君は、一生記憶に残るような星空を、はたして見ることが出来たのだろうか?

 自分を正当化する訳ではないが、それでもまぁ、良いものを最後に見せられたんじゃないかと今では思っている。

 

 だって、二人で見上げていなければ愛しく思えないからだ。

 一人で居ても、綺麗だとは思うが美しく感じない。

 きっと二人で居たからこそ最高のものであって、そのどれもが一生記憶に残るようなものだったに違いないからだ。

 願わくばずっと、君とずっとこのまま横に並んで、明けない夜があるのならそこで永遠を過ごしてみたいと思っていた。 

 そんな夜があっても良いと思わないか?

 きっと、君があの日見上げた夜空は永遠のものになったはずだ。

 そんな素適な永遠を何度も繰り返せるのなら、明けない夜があっても良いじゃないか。

 いつまでも見上げていたい夜空が、きっと世界中、誰の心の中にもあるはずだから。


「星座、ちゃんと覚えておけばよかったな」


 君の顔を眺めるだけじゃなくて、逆にこちらから教えられることがあったならば、きっと君は驚いて、目を丸くしながらも嬉しそうに、顔を覗き込んでくれたに違いない。

 今となっては、君との記憶を繋ぐのはこの空だけだ。

 ずっと見上げていたって苦にならない。


 倒していた背を持ち上げ、元々決めていた事を再度決心する。

 眼前に広がる広大な海は、星空専用のキャンバスだと言っていた。

 そこに溶け込むことが出来れば、君に近づくことができるかな。


 君の事を思い出せなくなったその時。

 その声、顔、姿をはっきりと思い出せなくなったその時、君はいなくなってしまう。

 ――そうならない内に、いかなければならない。


 終わらない夜に、君を想って――。


「待っていて」


 一歩、また一歩と、その足を前へ沈めていくのだ。








 

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