4 その光の向こうがわ

 大会最終日は、朝から真夏のような陽射し、快晴に恵まれた。

 雲の峰がもくもくと育ち、選手たちは水分補給に余念がない。すでに出場種目が終わった選手も多いことから、ワゴンのかき氷がやたらとよく売れていた。


 城町高校と城町女子高校は、マイルリレーでともに決勝進出を決めていた。

 最終種目まで時間はたっぷりある。澄夏や慧汰も、帽子とタオルで日除けをしつつ、他の選手のサポートに奔走する。

「いきます!」

「はーい!」

 トラック種目と並行して、フィールドでは砲丸投げの競技が行われていた。トラック競技と違って、選手の掛け声に全力で返すのが応援側ができる精一杯のあと押しだ。

 うああ、と叫びながらの投擲、ごとりと音をたてて砲丸が落下する。すぐさま距離が計測されて、記録がわかると拍手で選手をねぎらった。

 フィールド競技はとにかく長丁場だ。応援する側も根気がいる。

 個人で競うスポーツだが、陸上競技はひとりでは戦えない。慧汰はつくづくそう思う。

 今大会だけでも何度も仲間の力を借りたし、出場種目の合間を縫ってサポートにもまわった。練習の質や量を確保するのだって、チーム全体の力があってこそだ。その信念があるから、自分にも他人にも、力を出し惜しみしなかった。

 なのに、ずいぶんと弱気なことを言ったものだと思う。

 同じチームの、男同士ではあそこまで吐き出せなかった。さすがに澄夏は慧汰の性格をよくわかっている。おかげですっきりと切り替えられた、気がする。


 悔しいのには変わりない。でも、まだ戦いは終わっていない。


 トラックでは女子3000メートルの競技中、目の前を城女のユニフォームが横切る。慧汰は腹に力をこめて、「ファイトー!」と叫んだ。




 ひとつ競技が終わるごとに、会場にいる人の数は減っていく。一方で、勝敗の余韻と決勝種目に向けた興奮の気配はいよいよ濃くなっていた。日が傾くころになると、スタンドにいるのは固唾を呑んで勝敗の行方を見守る当事者の高校生たちと、筋金入りの陸上ファンくらいなものだ。


 最終種目を待つ競技場は、午後のひかりのなかで奇妙な静けさに包まれていた。

 ざっと雨が降って、すこしだけ暑さも落ち着いた。招集所では、男女あわせて16チームのマイルメンバーだけが集められ、ナンバーカードやスパイクの点検を受けている。

 そこへ、ぴりぴりとした雰囲気にはおよそそぐわない、明るい声があたりをつらぬいた。

「すみかー!」

「苗ちゃん?!」

「待たせたわね!」

 来てやったわよ、とばかりに胸を張る苗の後ろには、軽くひとクラスぶんほどの人数がずらりと並んでいる。

「げっ、お前らなんでいるの?」

 慧汰はじめ、城町高校のリレーメンバーも慌てて出てきた。苗が従えているのはみんな、学校のクラスメイトや後輩たちだ。さらには中学の後輩や家族の顔まで見える。

 苗がかき集めた、即席の応援団だった。

「ちゃんと決勝残ってくれてよかったー、あちこち駆け回った甲斐があったわ」

 まだまだ上にいるわよ、という言葉の影で、数人がげっそりしている。きっと彼女にこき使われたのだろう。

 澄夏たちが言葉を失っているあいだに、苗は「じゃ、応援してるから!」とあっさり手を振ってポニーテールを翻した。顔に似合わぬ嵐のような振る舞いは、招集所に少なからぬ波紋をのこす。

 「がんばって」とくちぐちに言いながら苗のあとをついていく団体を呆然と見送りながら、慧汰が「えらいことになったな」とつぶやいた。

 両チームで顔を見合わせると、誰からともなく震えが走った。

 武者震いだ。

 周囲からの期待と緊張を燃料にして、各々の瞳に火がともる。


「はい、では女子から、移動しますよー」

 競技役員から声がかかったそのとき、動き出そうとした城女メンバーを、慧汰が止めた。

「円陣組もうぜ、この8人で」

 全員が一瞬固まり、しかしすぐさま慧汰のまわりに集まった。

 自チームでなら何度となくやってきたことだが、2チーム揃っては初めてだ。男女どう組むかでまごまごしていると、慧汰が「めんどくせえ、オーダー順に並べ」と男女交互に並ばせた。

「行くぞ!」

「おう!」

 よし、いってこい、と押し出された女子チームはあわてて競技役員の指示にしたがう。

先導役の役員は、「ほどほどにしなさいね」と苦笑しながら両校をたしなめた。




『このあとトラックでは、女子4×400メートルリレー決勝の競技が行われます。大会記録は……』

 いよいよ決勝が始まる。第2レーンから順に出場校とリレーメンバーが読み上げられ、城町女子高校の番がめぐってきた。

『第7レーン、城町女子高校……』

「せーのっ」

「「城女ーーー!!」」

 向こう側からものすごい厚みの声援が飛んできた。びっくりして振り返ると、ホームストレートの反対側で、スタンドをびっしり埋め尽くす一団がいる。苗が連れてきた人数に、城高城女のほぼ全部員が合流しているようだった。

「なにあれ……」

「すごいね……」

 他のチームからも驚きの声が漏れて、澄夏たちは少々居心地が悪い。しかし、おかげですこし緊張がほぐれた。第一走者の二年生は、応援団にむかって手を振りながら嬉しそうに飛び跳ねている。


 澄夏はリレーメンバーのたっての希望でアンカーになった。

「できるだけいい位置でつなぐけど、どうなっても最後にはひっくり返してくれるでしょ」といくらか圧のかかる采配だったが、それが戦略的にも精神的にもベストだと、顧問とも話し合って決めた。

 あとは走り切るだけだ。

『オンユアマークス』

 スタートに備えて誰もが声を低め、さやかなざわめきのなかで各校の第一走者が位置につく。

 大丈夫、落ち着いている。バトンの色も、ユニフォームと同じピンク寄りの赤だ。縁起がいい。

『セット』

 そして号砲が鳴った。

 始まった。途端に弾けた歓声が場内で渦を巻く。

 なかでも城町両校応援団の声量はすさまじく、他よりすこし速いテンポの「ゴーゴーレッツゴー」に全身が粟立つ。澄夏たちあとに続くメンバーも、緊張と興奮を逃がすように声を限りに叫んだ。


 第一走者はセパレート、つまり最後まで与えられたレーンを走る。スタート位置をずらしてあるため順位がわかりにくいが、城女はかなりいい位置で健闘していた。

 もともと100が専門ながら最後までしっかり走りきった二年生は、第二走者の三年生にバトンを渡そうともがく。しかしこの相手がドSで、思い切りリードをとって加速してから、すべるように飛び出していった。彼女は800の選手だ、はじめの100メートルから駆け引きがはじまっていることを、身にしみて知っている。

 第二走者がカーブを抜けると、そこから先はオープン、各チームは自分のレーンから解き放たれる。実力の突出した前の三校に続き、最短距離を鮮やかに駆け抜けていく技術は彼女をおいて他にいない。じりじりと後退しつつも、持ち前の粘りで最後は追い上げて、四番手でバトンパス。

 第三走者はつなぎの区間と言われる。城女はここで勝負に出た。400の経験がほとんどない一年生を起用したのだ。100のタイムなら澄夏より速く、トップスピードのキレはお墨付き。あとは走りきれるかどうかだが、その点この一年生は大変肝が据わっていた。地区予選大会ですっかりマイルの魅力にとりつかれ、澄夏が引退したあとは400に転向するとまで言いだした。

 彼女には、後半どのみちボロボロになるのだから、前半できるだけトップスピードで楽しく飛ばせとだけ指示していた。それを実際にやってのけるだけの胆力を見込んでのことだが、決勝でも実に楽しそうに走ってくれている。

 さすがにラスト100メートルで足取りがあやしくなり、後続にかなり詰められてしまったが合格点だ。

 あとは澄夏が引き受ける。

「ラスト!がんばれ!」

 リードは最低限、ぐらぐらと揺れるバトンを奪い取るようにつかんで、澄夏は飛び出した。後続のことは考えず、少し離れた先にいるトップ3チームをひたすら追った。追いかけるのは澄夏の大得意パターンだ。自分の前世は猟犬だったんじゃないかとすら思う。

 しかしなかなか差は縮まらず、代わりに200メートルを過ぎたあたりで後ろにぴったり付かれた気配がした。カーブで抜きにかかるのは得策ではない。おそらく直線に入った時点で抜かれる。

 いよいよカーブを抜ける、きつい、と思ったところで猛烈な〈澄夏コール〉が押し寄せた。ちょうど大応援団の目の前である。男子も女子も入り混じった声援は、これまでの澄夏が経験したものとは圧が違った。

 ラストの直線100メートルに入ると、それは明らかに追い風に変わる。

 ひとり先行を許した、その背中に澄夏はなんとか食らいついた。トップチームがゴールするのが見えて、早く自分もあそこに行きたいとただ祈る。

 最後は大きく口を開けて、ばらばらになりながらゴールラインのむこうに崩れた。とっさに競技役員が手を貸してくれ、あとから来る選手の走路を空ける。先に待ち構えていた他のメンバーがあとを引き継いで肩を貸してくれた。


 タイムは、ラップは、朦朧とする頭にいくつか浮かんだが、まずは5着。このチームで関東を決めた。

 個人の成績からすれば大健闘だ。まだこのチームで走っていられるのが何より嬉しい。

「「おつかれ城女ーー!!」」

 大応援団から声が届いて、澄夏たち四人はできるだけ大きく手を振った。わあっとひとしきり盛り上がって、彼らはもうひとつ声を揃えて叫ぶ。

「「やったれ城高ーーー!!」」

 うるせえ、と城高チームが笑う。城女チームと入れ替わりでトラックに出ていく彼らの笑顔は、すこし怖いくらいぎらぎらしていて、それがとても頼もしく見えた。




『つづいて、今大会最終種目、トラックでは男子4×400メートルリレーの決勝が行われます。大会記録は……』

 いよいよ最後のレースになった。会場の視線はスタートを待つ八人の選手に集中している。


 城高チームは全員が三年生、彼らは慧汰をアンカーに据えた。これは戦略というよりチームメンバーの忖度で、個人種目で悔しい思いをした慧汰にせめて花をもたせてやろうというおせっかいである。

「くそ、余計なことしやがって」

 知らぬ間にオーダーを決められていた慧汰は、複雑な心境だった。それでも、いいチームに恵まれたな、とは思う。

 全員、成田の言う〈雑草〉から、文字通り力を合わせてここまで勝ち上がってきたのだ。


『第3レーン、城町高校……』

「「城高ーーー!!」」

 城女のときにも聞いていたが、いざ自分が浴びると威力が桁違いだ。大応援団の全力に、慧汰はうっかり目頭が熱くなった。

「おい、泣くのは早いぞ」

「うるせえ」

 決勝には当然のように流星高校もいて、第一走者は成田が任されていた。コールされると気取った動作で一礼するので、思わず笑ってしまった。

「余裕だな」

「俺らもやるか」

「やだよかっこわりい」

 冗談を言い合っていると、競技役員から「しっ」と制された。

『オンユアマークス』

 合図にしたがって、第一走者の8人がスターティングブロックに足をかける。


 そして、最終競技がはじまった。

 男子マイルは、かつてない混戦となった。

 まるで一斉掃射のようなスタート、男子のレースはスピードと迫力が違う。

 各校、力が拮抗し、第一走者から第二走者へのバトンパスはほぼ横一線、オープンになってからも縦並びの一団となって離れない。ホームストレートに帰ってきてからやっとトップ2チームが抜け出すというありさまで、競技役員が必死で第三走者の交通整理をする。バトン同士がぶつかる高い音がいくつか響き、あわやバトンミスという場面もあって観客は息を呑んだ。

 そこをするりと抜けたのが、城高の誇る400メートルハードルコンビ。たくさんの手足がごちゃつくなかを器用に立ち回って混戦から解放され、先行する3チームを追う。この時点で四番手。


 慧汰は黙ったまま戦況を目で追っていた。ボクシングの選手のように小刻みにステップを踏みながら出番を待つ。頭は冴えていたが、身体が落ち着かない。

 とにかく早く走りたくて仕方ない、こんな感覚は久しぶりだった。

 アンカーの顔ぶれはいずれも個人で決勝に残った選手ばかり、まさにオールスター状態だったが、不思議と負ける気はしなかった。とはいえ関東大会に残るには現時点でぎりぎりのライン、城女が先にその切符を手にしたので、なんとか勝ち残りたいというプレッシャーはさらに増している。


「つぎ城町!」

「はい!」

 第三走者の駆け込んでくる順に各校のアンカーが内側に詰められ、バトンを受けて次々飛び出していく。

「ラスト!」

 長身の第三走者は、もうへろへろのくせに呼びかけるとへらりと笑った。わずかに抜かれて五番手に後退。鋭くリードをとって、差し出されたバトンをむしり取る。

 前のチームとは少し差があって、カーブだから特に前がぱっと開けた。

(俺のレースだ)

 喜びと楽しさがないまぜになって、身体が驚くほどよく動いた。いつも以上に早いピッチを刻みながら軽くカーブを抜け、直線で面白いほど勢いに乗った。前のチームも速いが、うしろから詰められている気配もない。ただそれもどうでもいい、とにかくいまが楽しく、慧汰は一枚の刃のようになって風を切り裂く。


 つぎのカーブの頂点を超えて、さすがに少し足が重くなってくると今度は大声援が慧汰を迎えた。直線に出ると風はわずかに向かっており、しかし声援が風圧となってそれを上回る。

 横から抜きにかかってくる後続の姿が目に入ったが、絶対に譲る気はなかった。腰を落とさず、肩を開かず、できるだけ体勢を維持して抜き返す。今までチームメイトとの練習で何度も繰り返してきたことだった。

 デッドヒートにさらにうしろから別のチームが絡んで、5着から7着の三人がほぼ同時にゴールに駆け込んだ。順位がはっきりせず、どのチームも微妙な顔をしている。

 6位と7位では天と地の差、なにしろ6位までが関東大会に進めるのだ。まもなく8位のチームがゴールして、勝負の行方は写真判定に委ねられた。

 慧汰はとりあえず仲間の肩を借りてスパイクを脱ぎ、まっくらなままの電光掲示板を見上げた。応援団も結果を待って、何も言えずにじりじりしている。


 やがて、ピポーン、ピポーンとチャイムが鳴って、結果発表のアナウンスがはじまった。

『ただいま行われました、男子4×400メートルリレー決勝の結果です。電光掲示板を御覧ください』

 ぱっ、とスタンド上の巨大な電光掲示板に映し出された文字をみて、会場全体がわっと揺れた。

 先に待機所に引っ込んでいた澄夏が、矢のように飛び出してくる。勢いよく踏み切って飛びかかったので、もはやよれよれの慧汰はあっさりよろけた。

 そのまま、声を上げて泣き崩れた。

〈5着 城町高等学校〉

 電光掲示板には、そう示されていた。


 5着のチームが2校、最後は完全に同着だったのだ。慧汰は順位を守りきり、チームで関東への切符をつかんだ。

「「おつかれ城高ーーー!」」

 応援団はそう叫ぶやいなや、スタンド裏に消えた。ほどなくして、競技役員の慌てた声が聞こえてくる。

「君たち、ここは選手以外立ち入り禁止だよ」

「選手が出てくるのを待ちなさい、こら、言うことをきいて!」

 さすがに中に入ってくることはなかったが、ゲート外にたまる人数は増える一方、競技役員からしたらちょっとしたホラーだったろう。

 慧汰と、もらい泣きをした城高城女の両チームメンバーは鼻をすすりながら出ていって、泣き顔を笑われながら祝福を受けた。

「やり返したね!」

 苗が誇らしげににこにこしているのを見て、澄夏は我慢できずに抱きついた。

「青柳さんの復讐のために走ったんじゃないけどな」

「ていうか流星には勝ててないし」

「順位で負けても勝ったようなもんだろ」

 わはは、と明るい声が響く。

 他の学校のメンバーも次々とやってきて互いに健闘を称え合い、その全員がみなやわらかい表情をしていた。


 慧汰が早くクールダウンに行きたがり、「全員、関東までに故障したら殺す」とまで言うので支度を整えていると、スーツを着た年配の役員が声をかけてきた。

「きみたち、城町も城町女子も、リレー競技らしい、いいレースだったねえ」

 わけへだてなく仲が良くていいことだ、と嬉しそうににこにこしている。

 それぞれなんと返そうか言葉を探していると、慧汰が張り切ってこたえた。

「俺の自慢のチームです」

 おじいちゃん先生はさらに笑みを深くしてうなずき、周りからはヒューゥと歓声が上がる。

「おいおーい」

「いつお前のになったんだよー」

 容赦ない野次に慧汰はみるみるうちに真っ赤になって、それからとうとう爆発した。

「いいだろ、三年間、全力注いだチームなんだから!」

 からかい半分で沸き上がる拍手に、いたたまれなくなった慧汰は先にジョグに出ていってしまった。

 そのうしろ姿を見送りながら、澄夏は目を細めた。

 みんなの姿が、午後の陽射しに内から光を放つ。この光景こそが自分たちの強さだと、啓示のような思いが腹に落ちる。それはいつまでも澄夏の心に残った。澄夏と慧汰が走ってきた道の、ひとつのこたえだったからだ。


 まだこのメンバーで走っていられる。このチームでこの光の向こうへ行くのだ。澄夏は他のみんなとともに、足取り軽く慧汰のあとを追った。

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