3 多城慧汰の懊悩
「あのひと、いまダークサイド堕ちてるから話しかけないほうがいいですよ」
「なにそれ」
俺のことを言ってるな、と慧汰は耳をそばだてた。どうやら澄夏が準決勝のウォーミングアップついでに様子を見にきたらしい。
案の定だ。レースのあとに何も言われないからおかしいと思ったに違いない。澄夏はチームメイトの制止もきかずにこちらへ向かってくる。
「おつかれ。いいレースだったよ」
それは慧汰にとって、いま一番聞きたくない言葉だった。
負けたレースがいいレースなもんか、と心のなかで毒づく。慧汰は勝ちに行くはずの800で、準決勝落ちしていた。
「ちょっと私のアップ付き合ってよ、ヒマでしょ」
「ヒマじゃない、俺にもやることがある」
「もうレース終わったじゃん。壁に向かって座ってるのがやること?」
ちっ、と舌打ちして立ち上がった慧汰の足元には、冷え防止のマットがきちんと敷かれていた。コンクリートの地べたは日陰だとかなり冷たい。やけになっているわけではなさそうだ、と澄夏はほっと息をつく。
800メートルの予選は前日に済んでおり、準決勝は今日、澄夏の200メートル予選直後に行われた。だから澄夏は、慧汰が負けたのも、そのレース内容もすべて目撃している。
本当に、いいレースだった。前半からよくスピードに乗っていて、慧汰にしてはのびのびと走っていた。タイムだって悪くない。
それでも、周りが速ければ負けるのだ。鐘の鳴る二周目、他の選手のギアの入り方は明らかに違った。他の組なら着順で決勝に進めたタイムで、慧汰は敗退した。運がなかったと言っても、彼は納得しないだろう。
ゆるゆると外周をジョギングしはじめた澄夏に、慧汰は黙ってついてきた。少しずつペースを上げて、体中に酸素を送り込む。
ほどよく息が弾んできたところで、彼はやっと口を開いた。
「成田猛、嫌なところ突くよなあ」
何が、とは訊かなかった。
「人の面倒見てる場合か、とか、自分のことだけやってれば勝てたんじゃないか、とか。強豪で走ることだけ考えてればもっと強くなったんじゃないか、とか」
(そりゃあ思うよね)
澄夏の気持ちはすっと沈んだ。左腕からピピピ、とタイマーの音がして、ふたりとも黙ったままスピードを緩める。
こんなとき、苗がいてくれたら、と思う。彼女はいい意味で部外者だ。すでに400で関東を決め、200も勝ち進んでいる澄夏が慧汰に声をかけるのは難しい。こんな日に限って、苗は「やることあるから」と来ていない。
そう、苗ならなんて言うだろう。ほと、と光がみえた気がして、くじけないうちに口を開いた。
「でも、それが慧汰なんだろうね。自分が強くなるために、自分だけが強くなるんじゃいけないって、おもってるでしょう」
苗ならもっと自信満々に「何いってんの、多城くんは多城くんだからいいのよ!」と間髪入れずに言い切るだろう。でも、澄夏はうしろめたかった。足りないところを補ってもらってばかりで、自分は何もできている気がしない。
しかし、そんな慧汰だから、澄夏はここまで一緒にやってきたのだ。
一緒に、強くなってきたのだ。
「そうかな」
「うん」
そのまま考え込むように黙った慧汰は、幼い頃と同じ顔をしていた。
ウォーミングアップエリアの芝にのって、揃ってストレッチを始める。ほとんど独り言のような調子で、慧汰がつぶやく。
「俺、自分で考えないと気がすまないからさ、強豪校行ってコーチの言いなりとか、絶対ムリ」
知ってる、と澄夏は頷く。
「陸上だけじゃなくて、やれることは全部やってみたいし。まあ、欲が深いんだろうな」
そうだね、ともうひとつ頷いた。
「だから、ある意味成田猛はすごいんだよ。他の可能性を全部捨てて、陸上一本でやってきたわけだろ」
うん、バカだけどね、と言いたかったが控えた。陸上一本に絞ったといえば聞こえはいいが、ヤツは学校の勉強だけでなく思いやりの学習も疎かにしている。苗ではないが、澄夏はそういうバカは嫌いだ。
「俺にはそこまでできなかったからな」
「できなくていいよ、慧汰があいつみたいになるって考えただけでぞっとする」
思いのほか強い口調になってしまった。前屈する澄夏の背中を押す手が、ふっと緩んだ。
「そうかな」
「そうだよ」
すくなくとも私はよかったよ、慧汰には悪いけど、と澄夏が続けると、慧汰は「別になにも悪くねえよ」と笑った。
慧汰が付き合ったのはストレッチまでで、立ち上がったときにはずいぶんすっきりした顔をしていた。
「あんまりダラダラ何本も走るなよ、ピリっとダッシュだけで充分」
「慧汰もマイルあるんだから、しゃきっとしなよ」
おう、と片手を上げて去っていく慧汰の背中を見送って、澄夏はよし、と気合を入れた。
これ以上、慧汰に後悔させたくない。まずは自分がベストを尽くさなければ。ポンポンと腿を上げてリズムを刻みながら、澄夏は身体の状態をひとつひとつ確認していった。
澄夏はぎりぎり200の決勝に残り、7着で終わったものの自己ベストを更新した。なんだか肩の荷がおりたような気がするが、息つく間もなく次の競技が待ち構えている。
4×400メートルリレー、通称〈マイル〉だ。正真正銘、これが澄夏にとって、慧汰にとっても最後の種目になる。
澄夏は軽いジョグで身体をほぐしたあと、そのままチームメイトの待つ招集所へ向かった。その道すがらで、城高のマイルメンバーとすれ違う。
「みんな、いまからアップ?」
「そ、ジョグ終わってこれから動きづくり」
そう、いってらっしゃい、と見送ろうとする澄夏をひとりが呼び止めた。
「高原さん、さっきこいつになにかした?なんか別人みたいになって帰ってきたんだけど」
「え?」
「超元気になってんの。なんかあれ? ちゅーでもしたのかなって」
「ばかじゃないの」
しょうもなさすぎて力が抜ける。慧汰も呆れて何も言わない。
ある意味、人に話す内容でもないのは間違いないので、とりあえず澄夏はにやりと笑って「ないしょ」とだけ言っておいた。
「ほらーなんかあったよ絶対」
「うるせえな」
大盛りあがりする男子たちを置いて、さっさと立ち去った。おかげでだいぶリラックスできたし、あの調子なら、慧汰ももう大丈夫だろう。
昔から、メンタルだけが慧汰の弱点だった。これに関しては澄夏もあるていど扱いを心得ているが、さっきの軽口は彼らなりの景気づけだったのかもしれない。考えすぎかもしれないが、慧汰もいい仲間をもったな、と他人事ながらうれしかった。
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