2 青柳苗の憧憬

 もともと、スポーツ観戦にも、陸上にも興味はなかった。


 いまどきめずらしい県立の女子校に進学したのは、単に学力レベルがちょうど良かったから。苗自身は特に女子校にこだわりはなかったし、むしろ警戒していた。女の争いに巻き込まれて何度嫌な思いをしたか知れない。自分も女だが、女の集団は苦手だった。


 しかしそこは文武両道の進学校、蓋をあけてみると毎日が忙しく、みな他人にかかずらう暇などない。行事のときこそ力を合わせるが、役目を果たしたらぱっと散る。想像以上にドライなクラスメイトに、勉強以外に特に打ち込むもののなかった苗は、かえって戸惑ってしまった。


 そこへ声をかけてきたのが、寝癖の目立つショートヘアに人懐こい顔立ちをした高原澄夏である。

「青柳さん、細いのにふくらはぎきれいだねえ」

 何を言ってるんだこいつは、というのが第一印象。セクハラじみた発言のわりにあまりに邪気がないので、おそるおそる真意を問うてみると、陸上をやっているからつい他人の脚をみてしまうのだという。

「しっかり筋肉がついてて背筋が伸びてるとさ、人の身体ってきれいなんだよー」

 なんだか不穏な物言いだったが、わかる気がした。聞けば大会が近いという。どうせ休日にすることも勉強くらいしかなかったので、一日だけついていってみることにした。


 これが苗の世界をずいぶん変えた。


 以来、意気投合した澄夏と苗は、互いの一番の友人だ。

 したがって不本意ながら、多城慧汰とも自然と接する機会が増えた。

「それにしても、今回は危なかったわね」

「まじでたすかった。青柳さんいなかったらあいついまごろ補習だよ」

 太陽の光り輝く青空の下、競技場のほとりを、日傘をさした私服の女子とジャージ姿の男子が並んで歩いている。傍目から見れば、彼女が彼氏の応援にきた図だが、当人たちにその気配は微塵もない。

 はあ、とため息をつく慧汰を眺めながら、苗は息だけで笑った。お互い、つくづくお人好しだ。


 中間テストで、澄夏は悪い意味で大変な点数を叩き出した。決して勉強ができないわけではないのだが、毎度むらっ気がひどい。特に今回は何か気にかかることでもあったらしく、テスト勉強をすっかり放り出していたのだという。

 高校三年生の風上にも置けない。

「まあ私がフォローできる範囲でよかったけど」

「あいつ、俺らがいなかったらどうするつもりだったんだろうな」

「俺ら、って一緒にしないでくれる」

「はいはい」

 ちょっと前までは、男子とこんなふうに気兼ねなく話すなんて考えられなかった。そういう意味では、慧汰は貴重な友人だ。

 ただ苗は圧倒的に澄夏サイドの人間である。俺ら、と括られるのは癪だった。

「まあ、女子高って男子的なバカさに飢えてるところあるから」

「おい、なんだその突然のディスは」

「あのこみたいなバカをただバカとして愛でる、みたいなとこあるのよねー、よくないわ」

「きけよ」

 結局、苗も慧汰も、澄夏がかわいいのだ。惚れた弱みというやつである。




 この日、チームメイトの出場種目は早々に敗退してしまったので、澄夏たちははやめに荷物をまとめてスタンドに上がった。大会期間中は帰るも残るもフリー、せっかくだから決勝種目を見て帰りたい。


 空いているベンチを探して見回すと、中央の日陰で手を振る集団がいる。城町高校の面々が、先にベストポジションを確保していた。

「おつかれー」

「準決、惜しかったね」

「惜しくねえよ、他がクソ速い」

「クソって」

 別の学校とはいえ近所だし、慧汰と澄夏がきっかけで合同練習もする仲だ。当然のように隣に腰掛けると、男たちは律儀に場所を空けてくれた。

 互いの健闘を称え合い、競技を振り返ったり進路のことだったり、観戦しながら話題には事欠かない。


 そのときである。

「あれえ、お前ら、まだつるんでんの?」

 うっすら悪意を孕んだ笑い声が聞こえて、慧汰はいやいや振り返った。どぎついネオンレッドのジャージが目に痛い。澄夏と苗はちらりと互いを見交わした。

「ええとなんだっけ、成田?羽田?」

「セントレアじゃない?」

「成田だよ!」

 ベタなやりとりが完璧にハマって、成田をのぞく三人は「おおー」と満足げに手を叩いた。大会のたびに絡まれるので、対応も慣れたものだ。


 首周りまでみちっと筋肉のついた彼、成田猛は100メートルの選手で、中学時代の慧汰のライバルだ。

 高校に入ってからさらに実力を伸ばした県トップクラスの選手だが、慧汰が自分と同じ強豪校に行かずに、しかも100メートルをやめてしまったのをまだ根に持っている。

 当然、澄夏のこともよく思っていない。とんだ逆恨みだ。

「ところで成田くん、〈旭学園流星高校〉って朝なの? 夜なの?きみの学校、すごいネーミングセンスよね」

「は?いきなりなんだよ、そんなのどうでもいいだろ」

「そうよねえ、どうでもいいわよねえ、じゃあこの人達のこともどうでもいいでしょ、だからほっといてくれる」

 ほら、チームメイトが呼んでるわよ、と苗の対応は嫌味まで含んで冷ややかだ。それでも成田は食い下がった。

「多城、こんなやつらの相手してるから勝てないんじゃないの。400もさあ、ぜんぜん良くなかったじゃん」

 まわりが雑草だから仕方ないのかなー、とのたまう成田に、苗の眉が釣り上がった。こころなしか拳の気配がする。

「青柳さん、どうどう」

「だって」

「俺は慣れてるから」

 それにいま、大会中だし、と慧汰は本音を言った。

 どうでもいいことでこれまでの努力をふいにしたくはない。

「せいぜい見てろよ4継決勝。俺たち圧勝するから」

「うっさい、バトン吹っ飛ばせ」

 噛み付く苗にかまわず、成田は高笑いしながら去っていった。


「なにあれ、あいつが出るとか絶対見ないわ」

「……俺は見たい」

「私も」

「えっ、なにそれ」

 苗は愕然と二人の顔を見比べる。

「べつにあいつを見たいわけじゃないけど」

「リレーの決勝は普通にみたいでしょ、どこが勝つか気になるし」

「ええー」

 ひとりだけ熱くなってばかみたいじゃない、と頬を膨らませると、珍しく澄夏がフォローに入った

「苗ちゃんが代わりに怒ってくれたから、別にいっかなって……」

 ところがなんだか歯切れが悪い。苗はそこを見逃さなかった。

「なに」

「いや、たいしたことじゃないから」

「いいなさい」

「苗ちゃんお母さんみたい……」

 表情を消した苗が澄夏の顎をつかむ。整った爪が頬に食い込んで、澄夏はとうとう観念した。

「成田猛が言うことも、あながち間違ってないんじゃないかって、ちょっと」

「どういうこと」

「私が慧汰の足引っ張ってんのかなって」

 さらに凄みを増す苗の剣幕を感じ取って、尻すぼみに声が小さくなった。

「何いってんの、多城くんが好きでやってることでしょ」

「おい、勝手に決めるな」

「ちがうの?」

「まあ……」

「そうか、そうだね、ごめん」

 澄夏は早々に発言をひっこめようとするが、それも苗が許さない。

「揉めるとすぐ黙っちゃうのよくないよ、この際ぜんぶ言っちゃいな!」

「揉めてるの苗ちゃんだけだよ……」

「誰のせいだとおもってるのよ!」

 きいい、と日傘を振り回す姿に男子たちが度肝を抜かれている。彼らの夢が脆く崩れ去る音を幻聴しながら、慧汰は軽く咳払いした。

「まあ、誰のせいといえば成田猛のせいなんだけど」

「そうだった!」

「あいつ、まじで俺のこと好きだからな」

「……は?どういうこと?」

 急に勢いを削がれて、苗は呆然とした。澄夏が遠い目をしながら「あのひと、慧汰を私にとられたと思ってるからねえ」とつぶやく。事情を知っている数人から忍び笑いが漏れた。

「結局、成田猛は慧汰と同じチームで一緒に走りたかっただけなんだよね」

 4継走るから思い出しちゃったんだねえ、かわいいねえ、と一同が和むなか、苗ひとりが釈然としない。

「それでも、澄夏まで悪く言われるのは納得行かないわ」

「苗ちゃん……」

「帰る」

 すくっと立ち上がると、周囲が止める間もなくスタンドを駆け下っていく。

 なんとかしてやり返したかったが、苗には対抗するすべがない。せめて、ヤツが出てくるリレーの決勝だけは見てやるものかと、苗は早足で競技場を出た。

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