on your mark

草群 鶏

1 高原澄夏の懸念

「なんだあのレース。さてはお前、アップサボったな」

「いやあの、寝坊して……」

「は?ふざけてんの?」

「いいじゃん予選通ったんだから」

「いっそ落ちればよかったのに」

「はあー?!」

 澄夏の絶叫は、打ちっぱなしのコンクリートにびりびりと響きわたった。


 全国高等学校総合体育大会。通称インターハイ、陸上競技の県予選である。

 予選とはいえ、さらに上位の大会に進める選手はひとにぎり。多くの高校生にとって、県大会こそ夏を懸けた大舞台であり、会場には独特の高揚と緊張感が充満していた。

 全周に座席をそなえたメイン競技場は出場校の横断幕やのぼりに彩られ、初夏特有の乾いた日差しに燦々と照らされて華々しい。スタンド裏では各校がブルーシートを敷いて陣を構えており、談笑したりマッサージし合ったりと思い思いに戦いのときを待っている。


 澄夏は大声に驚く人たちの強烈な注目にさらされて、咄嗟に口元をおさえた。ただでさえ他校の選手に説教を食らうおかしな状況なのだ。澄夏が着ている撫子色のジャージは〈県立城町女子高校〉、対して不機嫌そうにこちらを見下ろす幼馴染の慧汰は鉄紺のジャージ〈県立城町高校〉、それぞれの学校名がでかでかと書いてある。これ以上目立ちたくはない。

「俺、いつも言ってるよな?朝イチのアップは長めにとれって。無理な動き方するとまる一日響くから、ゆっくり身体を起こせって。メニューも渡したよな?」

「……はい」

 おっしゃるとおりです、と澄夏は細い首を垂れる。


 さきほど走り終えた400メートル予選の内容はさんざんだった。しっかり眠れたぶん身体は軽く、前半の直線は快調にぶっちぎっていたのだが、第三コーナーを過ぎたあたりから身体が動かなくなった。ホームストレートはもはや地獄、早く終われと歯を食いしばるも一向にゴールは近づいてこない。他の選手がうしろからゆっくりと視界に入ってきて、ずるずる抜かれて、結局三着。予選通過ギリギリの順位である。

 アップ不足による、典型的な酸欠だった。


「ちょっと、うちの子いじめないでくれる?」

 睨み合う二人の間を割って、凛とまろい声が響く。

「……出たよ」

「出たとはなによ、とっとと自分の学校にもどったら」

「苗ちゃん!」

 きてくれたの、と素っ頓狂な声が出て、澄夏はふたたび周囲の注目を集めた。

 真っ白なカットソーに薄手のカーディガン、ポニーテールの先をゆるくカールさせて不敵に微笑む彼女は、高校入学以来の大親友である。

「今年が最後でしょ。今回も、美しい骨格を拝むついでに来てやったわよ」

「きょう、へいじつ……」

「そんなの仮病に決まってるでしょ」

 なんのためにふだん品行方正気取ってるかって話よ、と傲然と言い放つ。

「身体目当てでもうれしいよー苗ちゃーん」

「変な言い方やめてくれない。……あんた、ついでってとこは突っ込まないのね」

 苗の美少女っぷりは、野性味あふれる澄夏と並べるまでもなく際立っており、この競技場においては異端とさえ見えた。

片手には折りたたんだ日傘、きれいに整えられた爪、白い肌には最高レベルの日焼け止めが塗り込まれていることだろう。彼女の美意識は徹底しておりスポーツ観戦にまで及ぶ。一見正反対の澄夏と仲良くなったのも、その点通ずるものがあったからだ。

「……無駄足にならなくてよかったな」

「澄夏が予選で負けるわけないじゃない。おかげで朝ゆっくりできたわ」

 慧汰の皮肉にも、苗は涼しい顔で応じる。

「苗ちゃん……!」

 澄夏が感極まっていると、声色が急にワントーン下がった。

「で、澄夏、なんで裸足なの」

 えっ、と澄夏の顔がひきつった。

「あの、スパイク脱いだらこう、開放感が……」

「なんで、裸足なの」

 こういうときの苗は吹雪のように冷たく厳しい。状況を察したチームメイトがシューズバッグとタオルを差し出す。澄夏はおとなしく受け取って足裏を拭い、保護者ふたりの監視下で両足の靴紐をきゅっと締めた。




 予選の直後、酸欠でフラフラの状態で見守った慧汰の400は、身内のひいき目を差し引いても美しかった。

 なめらかな加速、流れるような足の運び。苦しいはずのラストも、力強く肘を引いてストライドを維持し、大崩れすることなく走りきる。


 もともと澄夏と慧汰とは小学校からの腐れ縁で、彼は実質、澄夏のコーチでもあった。澄夏の得意な楽しい〈かけっこ〉に、知識と技術を加えてこねて、きちんとした陸上競技に仕上げたのが慧汰だ。

 なにかと凝り性の彼は、これと決めたらとことんまで調べつくし、やってみなければ気がすまない。中学で専門的な指導者に恵まれなかったこともかえってやる気に火をつけた。もともと他人に指図されるのを嫌うタイプだ、まさに水を得た魚である。

 どうも澄夏を実験台だと思っているふしがあり、中学時代は新しい知識を仕入れるたびにさんざん付き合わされた。正直こまかくてめんどくさい人間ではあるのだが、別々の高校に進んだいまでも澄夏の競技生活には欠かせない相棒だ。


「正直、これで付き合ってないなんていまだに信じらんないわ」

「だれが?」

「多城くんと澄夏」

 多城は慧汰の姓である。苗の発言にぐっと喉をつまらせた澄夏は、すんでのところでおにぎりを飲み込んだ。うんうんと頷く気配を感じて振り返ると、一年生たちが目をきらきらと輝かせている。

「ほんとに付き合ってないんですか?」

「ないです」

「そうですかあ?」

 不満げに首をかしげる様子を、ほかの上級生がにやにやしながら眺めている。すでにずいぶん使い古されたネタだが、後輩の反応はいいおもちゃになるようだ。

「彼氏でもない男に触られて、ぜんぜん平気なんだもんね、この子は」

「いや、男っていうか兄弟みたいなもんだし」

「でたあ、幼馴染マウント」

 あからさまな煽りを横目で黙らせて、澄夏はふたつめのおにぎりに手を伸ばす。今日はあと三本走るのだ。食べすぎないように、でもエネルギーは切らさないように、澄夏の保冷バッグには小さなおにぎりがみっしりと詰まっている。


 もぐもぐしながらもう片方の手で自分のリュックを探った。取り出したのは大判の手帳だ。ウィークリーの、しかも見開き片面フリーの書き込みタイプ。数えて五冊目になるそれは、ほとんどが練習や競技にかかわる記録で埋まっている。

 体調、気候、食事、練習の内容と量、あらゆる要素が結果を左右する。この手帳は澄夏が身をもって積み上げたデータベースであり、慧汰と二人三脚で駆けてきた軌跡そのものだ。これがいま、澄夏の自信の源になっている。

走り込んだ冬、スピードを磨いた春。ぱらぱらとめくりながら振り返る。この記録もこれが最後かと思うと、すこし胸がつまった。

(付き合う、ねえ)

 これだけ深く長く関わった相手に、いままで少しも心が揺れなかったと言ったら嘘になる。しかし、慧汰は慧汰であり、それ以外の呼び名を澄夏は知らない。すくなくとも、〈彼氏〉ではないとおもう。それはきっとこれからも変わらないだろうし、そうあってほしかった。

 ただ。

(これでよかったのかな)

 たまに手帳の片隅にぽつぽつと吐き出すひとりごと。勢いにまかせて斜めに流れていく文字のなかで、そこだけが停滞し、淀んでみえた。


――慧汰がいまひとつ伸びない原因は、もしかしたら私かもしれない。


 努めて考えないようにしてきた可能性が、紙の上で、ただ黙ってわだかまっている。




『第八レーン、高原澄夏さん、城町女子高校』

 選手紹介のアナウンスに合わせて片手を挙げて、下ろす勢いのまま頭を下げる。「すみかー!」とチームメイトの黄色い声援が聞こえて少し微笑んだ。

 女子400メートル決勝。澄夏は苦手な外側のレーンに配置された。

 スタート位置は斜めにずらされており、視界に入るのは右側の一人だけ。追いかけるほうが得意な澄夏にとって、いつも以上に緊張する条件である。


 選手招集の直前、慧汰は澄夏の肩のストレッチを手伝いながら言った。

「300のT.T.タイムトライアルだと思って突っ走れ。あとはどうにかなる。」

「どうにか、なるかなあ」

「吐くほど走り込んだんだからどうにかなるだろ。よく動けてるし、肩もやわらかいからガチガチにならなきゃ大丈夫だよ。なあ」

 横にいる後輩に同意を求めた。サポートについてきてくれたのは、澄夏の練習にずっと付き合ってきた二年生である。ともに何度も苦しい局面を乗り越えてきた彼女は、サラサラのショートヘアを揺らしながらうんうんと頷いた。

「すみか先輩なら大丈夫です」

「ほらな。いいじゃん8レーン。うまくいきゃあ最後までトップだぞ」

「それはないとおもうけど」

 いつもは元気いっぱいの澄夏もさすがに苦笑する。緊張で顔がうまく動かない。

 しばらく口を閉ざした慧汰は、何を思ったか澄夏の背中を全力で平手打ちした。ばあんと派手な音がする。

「いった、なにすんの」

「アホはアホらしくぶっちぎってこい」

「先輩、その言い方は……」

「おまえ、青柳さんいなかったら出場も危うかったんだからな。ある意味もう死んでるんだ、あとは余生だ、好きにやれ」

「めちゃくちゃだな」

 とうとう笑ってしまう。慧汰にしては珍しい暴論だ。いつもなら澄夏が言いそうなことである。生真面目な慧汰なりに、精一杯和ませてくれようとしているのだった。

「わかった、自分が準決で負けたのよっぽど悔しかったんでしょ」

「うるせえな」

 ほら、招集始まってるぞ、と背中を押されて、澄夏はいくらか軽い足取りで決戦へ向かった。


『オンユアマークス』

 合図にしたがってスターティングブロックに足をかける。背中にじりじりとあたる陽射し、熱したトラックのにおい。深く息をつきながら、ゆっくりとスタート位置についた。

 左足が前、右足が後ろ。膝を折ってしゃがんだまま、まっすぐ背筋をのばして自分のレーンを目で追うと、すこし明るく浮かび上がって見えた。いい兆候だ。めちゃくちゃ緊張しているが、頭の中は静かで、集中できている。

 指先を地面についた。

『セット』

 すっと腰を上げる。

 ドン、と号砲が鳴ると、一気に時間が動き出した。声援に満ちた競技場の底を、八人分のスタートダッシュが切り裂く。

 他の選手は気にならなかった。カーブを抜けた時点で一気にスピードに乗り、スパイクが地面を叩く音を足先で聞いた。一歩足を置くごとに面白いように前に進んだ。風が耳元で渦を巻き、ごうごうと鳴る。外側9レーンの選手にはすでに追いつき、内側の選手はまだうしろにいた。

 だんだん苦しくなる200メートル地点、勢いを殺さずに再びカーブに入った。ひとり、またひとりと先行を許す。その背中を、リズムを追いかけて、澄夏はホームストレートに戻ってきた。

「すみか!」

「「すみか!」」

 ここが勝負どころ、カーブの出口付近でチームメイトの応援が待っていた。手拍子に合わせて、ひたすら名前を連呼する。

「ラスト!切り替えろ!」

 慧汰の声が耳に入って、澄夏の腹にぐっと力がこもった。ばらばらになりそうだった手脚がぐっとまとまってゴールへむかう。胸は灼けるようだし、膝も上がらない。お尻の筋肉だってびしびしいっている。それでもスパイクは地面をたたき、重い身体をなんとか運んでいく。

 前に三人、横からも並びかける気配。ぐっと肩を前に出してゴールラインを割る。反射的にランニングタイマーの巨大な数字を振り返った。

(ベストが出たかもしれない)

 腰に手を当てて荒い息をなんとか支えながら、来たレーンを振り返って一礼。全力を出し切った澄夏は、スパイクがアスファルトにがりがり当たるのも構わず足をひきずり、待機ブースにへたりこんだ。


 着順は五位。タイムも自己ベストだった。

(本当に、どうにかなったな)

 その予想が正しかったのか、それとも言葉そのものに力があったのか。

 駆けてきたチームメイトにもみくちゃにされながら、澄夏は遠巻きに見ている慧汰に手を振った。




 この日、澄夏は女子400メートルで関東大会へ駒を進めた。慧汰は準決勝で敗退したため、本命の800メートルに望みをつなぐ。

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