それは雨の日に

宇津喜 十一

ネコサン

 うん、そうね。

 お姉ちゃんの言う通りね。ごめんなさい。心配を掛けてしまった。

 でもね、私は全然怖くなんてなかったよ。

 とても不思議な人と出会って……もしかしたら、あの人は本当は人間じゃなかったかも知れない。それが何かは分からないけど、そう、兎に角その人と会ったの。

 危なくなんてないよ。多分。

 親切にしてくれたし、優しい人……人ではないかも知れないけど、優しかった。家に帰れたのはその……取り敢えず、ネコサンって呼ぶ事にする。本人がそう名乗ったの。そう、それで、帰って来れたのはきっとネコサンのお陰なの。

 最初から説明するね。




 その日は朝から雨が降っていた。

 枝葉に当たり、伝う滴が大地を叩き、沢山の楽器を鳴らすように音が溢れている。

 私は近所の大きな公園にいた。その公園は四季折々の花々を楽しめるように、梅が多い場所、桜の多い場所、紅葉が多い場所と言ったように様々な植物を育てていた。

 その中に紫陽花通りという場所があり、そこは20mに渡って、紫陽花が道の脇に植っている事から名付けられた。幅は1m程のレンガ風の道になっていて、紫陽花の向こう側には林が広がっている。メインのルートから離れた場所にあるからか、人気はなく、穴場スポットのような場所だった。

 いつもと同じように、私はその紫陽花通りでしゃがんで葉を見ていた。天からの恵みが葉を打ち、溝をなぞる様に伝っていく。その様が見ていて楽しく、飽きなかった。ここ数日は雨が続いていて、私は毎日此処に訪れていた。

 傘を差すと、葉に降る雨が遮られてしまうから差さない。カッパは着ていたから、服は濡れていなかった。

 ふと、葉を指で捲った。指に引っ掛かるような質感のその葉の向こう側には、誰かの足が見える。棒のように細い足だ。子供かも知れない。靴は履いておらず、裸足だが不思議と汚れている様子はない。

 私は立ち上がって、紫陽花の向こう側を見た。私の背では背伸びをしても向こうを見通せない。

「誰かいるの?」

 声を掛けてみるが返事はない。

 私は入ってはいけないと分かっていながら、縁石を乗り越えて、紫陽花の後ろを見た。そこには誰もいない。

 見間違いだろうと思い、また紫陽花の前にしゃがみ、葉をもう一度捲った。すると、やはり、紫陽花の枝葉の向こうに肌色の物が見える。紛れもなく子供の足だ。

 私はからかわれてるのかと思った。不思議そうな顔をしてうろちょろする戸惑う私を誰かが笑っているのではないかと。

 しかし、どうにも私以外に人がいる気配も目線もなく、謎の足の持ち主も見当たらない。これは少し不思議な事になっているのかも知れないと思った。

 私はもう一度、縁石を乗り越えて紫陽花の後ろを見た。誰も立っていない。更にそのままぐるりと一周して、元の位置に戻った。そして、葉を一枚捲った。

 足はなくなっていた。

 先程までしっかり見えていた肌色はどこにもない。なんだ、良かった。見間違いだったのかも知れない。唯、そこにいた子供が何処かに行っただけかも知れない。不思議は不思議のままだが、消えた以上はどうする事も出来ない。

 私は何となく目に入った、紫陽花と紫陽花の間に腰を下ろした。丁度私の体にぴったりのサイズだった。あまりにぴったりで、とても居心地が良く、ずっと此処にいたいように思えて来た。

 そうだ、いっそ紫陽花になってしまうのもいいかも知れない。だって、私が一番好きな物なのだから。

「ねえ、お嬢ちゃん。」

 左後ろから誰かが私に話しかけて来た。

 振り返ると、茶色と黒の斑な模様の羽織りを着ていて、中の着物は白で、足元はシンプルな下駄を履いていた人がいた。顔は少しつり目がちで、若い男性のようだった。日本人の顔つきだけど、目が緑の混ざった茶色に見え、艶々として綺麗だった。

「どなたですか?」

「ネコサン。」

「ネコサン?」

「そうネコサン。訊きたい事があるんだ。質問してもいいかな。」

 私は異様な風体のその人は怪しくはあったが、怖くはなかったので、うんと頷いた。

「お嬢ちゃん何処から来たの。」

「すぐ近くの家よ。」

「お嬢ちゃんは何で此処に来たの。」

「遊びに来たの、紫陽花を見るのが好きだから。」

「お嬢ちゃんは紫陽花になりたいの?」

 その質問の意味をすぐに理解出来なくて、私は黙ってしまった。

 ネコサンと名乗った、若そうな声の男性は、首を傾げながら私に答えを促す。

「なりたくないの?」

「紫陽花になったらどうなるの?」

「紫陽花になるんだよ。此処に植わっているのと同じように。」

「あの葉っぱの向こう側の子も、紫陽花なの?」

「そう、あの子も紫陽花になった。だから、仲間を探しているんだ。君も紫陽花になれそうだから、誘っているんだよ。」

 私は紫陽花を見た。青色と紫色の花。濡れた緑の葉。それは美しい、大好きなお花。だけど、今はどことなく怖く見えた。

「私、お姉ちゃんに会いたいわ。」

「紫陽花にならなくていいの?」

「うん。紫陽花になったら、お姉ちゃんに会いに行けないから。」

「そうかい。それは良い選択だ。」

 そう言うと、ネコサンは土に半ば埋まった泥まみれの私を抱き上げて、道に戻した。そして、顔を紫陽花に向けて強めなの口調でこう言った。

「駄目だよ。この子を連れて行っちゃ駄目だよ。この子には待ってる人がいるんだから。」

 私はその言葉の意味が分からなかったけれど、紫陽花にあった怖い雰囲気が、その発言で薄れたように感じた。

 ネコサンは最初と同じ柔和な空気を纏ったままだ。そして、しゃがんで私に目線を合わせた。細長い瞳孔の緑色の目が見えた。

「もし、また不思議な事が起きても、その子に同情してはいけない、助けようとしてもいけない。出来るなら見ないでおいて。もし、今言った事の逆をすると、君が彼らに引き摺り込まれてしまう。分かるかな?」

「少し難しい。不思議な物があっても見て見ぬ振りをするという事?」

「それが一番だね。さて、子供はもう帰る時間だ。一人だと危ないから、ネコサンと公園の入り口まで一緒に行ってくれるかな。」

「うん、いいよ。」

 ネコサンと一緒に歩き出した。私は傘を持っていないネコサンに、自分の傘を貸してあげる事にした。

「これは助かる。」

 と言って、ネコサンはやや手こずりながら傘を開いた。彼の派手な格好に、子供用の小さな黄色い傘は、ちぐはぐで、逆にそう言う物なのだとも思えて来た。

 ぱた。ぱた。

 雨粒が私のカッパを、ネコサンの傘を鳴らす。雨だからか周りに人気はなく、雨の音だけが響いていた。

 紫陽花の道を抜けて、野花の道を抜け、薔薇の道を抜け、入り口は近付いていく。それに連れて、雨粒の勢いも増して行く。

 不意にネコサンが足を止めた。そして、傘をまた手こずりながら閉じた。

「どうしたの?濡れちゃうよ。」

「これ、返すよ。もう、お別れだから。」

「いいよ、ネコサン傘持ってないから。」

「今返さないと、ちゃんと返せるか分からないから。ありがとう、助かった。」

 有無を言わせない雰囲気に私は雑に巻かれた傘を受け取ったが、「いいよ、やっぱりあげる。返さなくていい。」と言ってまたネコサンに傘を差し出した。

 すると、ネコサンは最初は驚いた顔をしたが、すぐにとても嬉しそうに笑い、ありがとうと言って、傘を受け取った。

 ネコサンはまたしゃがみ込んで、私の顔の高さに合わせた。そして、公園の入り口を指差した。

「あそこに入り口が見えるだろう。」

「うん、行きもあそこから入ったの。」

「これから君は一人であの入り口を出なくてはならない。ネコサンはまだこの公園から出れないんだ。」

「どうして?」

「どうしても。そうしなきゃいけないんだ。だから、一人で行くんだよ。そして、公園を出るまで絶対に振り向いちゃいけないよ。約束出来るかい?」

「振り向いたらどうなるの?」

「もう二度とお姉ちゃんに会えなくなってしまう、だから、振り向いちゃいけないんだ。分かったね?」

 私はよく分からなかったけど、姉に会えなくなる事が嫌だったので、うんと頷いた。それを見たネコサンは、「よし。」と言って、私の背を軽く叩いた。

 歩き出して、緊張してすぐに振り返ろうとすると、「こっち見ては駄目だ!」とネコサンが言ったので、私は臆病な虫をギュッと握って動かないようにしながら、足だけを動かす事に注力した。

 雨の勢いは強くなって行き、靴に水が滲みてくる。ざあざあと威嚇するような音で、周りの音を掻き消してしまっている。

 それでも、一歩一歩。大人に届かない歩幅を見て、年の離れた姉は「気が付いたら大きくなってるの。きっと、すぐに同じぐらいの歩幅なるよ。」と言った。そして、いつも私の歩幅に合わせて隣を歩いてくれる。私が、自分の歩みの遅さを気にしないでいられるように。

 気が付くと、公園の外に出ていた。

 雨は降っておらず、乾いた風が頬を撫でた。あんなに降っていたのに、何処にも水溜りはない。更に、陽もすっかり落ちて、辺りに街灯がついている。

 私が公園に入ったのは昼食後で、紫陽花を見ていたのも数十分程だから、こんなに暗くなる程時間が経っていなかった筈だ。

 私は自分の体が公園の外にあるのを確認してから、後ろを振り向いた。その先には、昼間とは打って変わって、光の差し込まない暗い林があった。中を覗き込んでも、先程までネコサンがいた所は暗く見えない。でも、なんとなく誰もいない気がした。

「奏!」

 姉が私を呼ぶ声が聞こえた。音のする方を見ると、姉が慌てたように私に走り寄っていた。

「お姉ちゃん。どうしたの?」

「どうしたのはこっちの台詞!今まで何処にいたの。夜になっても奏が帰って来ないから、みんなで探してたの。怪我してない?なんでこんなに濡れてるの?取り敢えず、お家に帰ろう。」

 お母さん達に報告しなきゃと言って、姉は携帯電話を操作する。右手で私の手を掴んでいるから、少し操作がやりづらそうだ。

「もしもし、お母さん?見つかった!今、公園の前、これから帰るから。うん。大丈夫、怪我とかは無さそう。うん、分かった。じゃあね。」

 通話を終えると、こちらを見て「すっごく心配したんだから!何していたか教えてくれる?」と言った。

 私は自分でもよく分からないまま、あった出来事を話した。




 後日、家の前に黄色い子供用の傘が置かれていた。近くの屋根には三毛猫がいて、私がその傘を取るのを見ると、みゃうと一声鳴いてから、立ち去って行った。

 お婆ちゃんが偶にこっそり餌をあげている猫だった。私も猫さん猫さんと呼びながら背中を撫でたことがある。

 行方不明になった私の状況説明は、どうやら大人には難しい話だったようで、よく分からないけど怪我もしてないし無事に戻れたから良いという結論になったようだった。

 たった一人、お婆ちゃんだけが、「それはあの若い三毛が助けてくれたんだよ、餌を貰っているから、恩返しのつもりだったんだろう。ここ数日、雨も降ってないのに、カッパを着て、傘を持って出掛ける奏ちゃんが、心配だったんだろうさ。」と言った。

 それからしばらくすると、その三毛猫はお婆ちゃんの部屋で飼われていた。大事にされていて、いつもお婆ちゃんの膝の上にいる。

 私はその三毛猫をネコサンと呼んでいる。

 偶に、あの時はありがとうネコサンと言うと、ネコサンは誇らしげにみゃうと鳴く。

 やっぱり、この猫がネコサンなのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

それは雨の日に 宇津喜 十一 @asdf00

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ