彼女の右隣

ねこK・T

彼女の右隣

 夜八時半から上映。

 張り出されていた映画予告ポスターの左下には、そんな小さな上映案内の文字がうずくまるように、慎ましやかに印刷されていた。文字の横には他の時刻など一切書かれておらず、一日のうちで上映されるのはそのレイトショー、一度だけということがありありと分かる。

 ――確かに、宣伝も何もしてなかったものね、確か。

 ポスターとにらめっこを続けていた彼女は、ふうと大きく息をつきながらそんなことを考えた。上映している映画館を見つけただけでも奇跡だろうか、と。

 頭上には、早くも陽の落ちてしまった闇だけが広がっている。月も、星の一つすらもない冬空は、ただ静寂だけを地上へと届けていた。しかしその静寂は他の季節のものとは違っていているように彼女には思えてならない。背中に圧し掛かってくるような静けさ、全てを飲み込んでしまうような痛みの無音――冬の闇はそんなものを持っているような気がしてならないのだ。

 時計を確認し、その妙な静けさと寒さに身体を震わせると、彼女は足早に映画館内へと向かった。これ以上外に居たら――そんな不安な気持ちから逃げるように。


 チケット売り場を抜けると、広がっているのはちょっとしたロビーだ。右手側には飲み物やパンフレットを扱う売店があり、左手には上映前の時間をつぶせるよう、長椅子がいくつも置かれている。そして絨毯敷きの廊下の奥へと視線を向けてみれば、観音開きの扉が二つ。劇場内部への入り口だ。

 ――しかし。

 彼女はロビーに立ちながら辺りを見回すが、そのどこにも、彼女以外の人影は無い。売店は最後のレイトショーの前に閉まり、売り子も既に帰った後。ポップコーンの鼻をくすぐるような香りもしないし、ガラスケース内のパンフレットを手に取る事も適わない。幾つも並ぶ長椅子にも、当たり前のごとく人の姿は皆無だ。

 そう、客は彼女一人――その日最後のフィルムは、たった一人のために回される。

 彼女は小さな笑みを浮かべ、わざと大きな足音を立てて奥へと歩き出す。どうせ誰も居ないのだ、普段出来ないような事をしてやろう、と思ったのだ。こつこつ、こつこつ。余り高くないヒールに、絨毯の柔らかさもあって、音は彼女が期待していたほどのものではない。しかしそれでも彼女は意地でも張るかのように、踵を下へと下ろし、打ち鳴らすように席まで歩き続けた。

 そうでもしないと彼女は、この静けさに負けそうになってしまうのだった。


 彼女がたった一人の客だと、映画館側も知っているのだろうか。

 上映を知らせるブザーも鳴らないままに、彼女が席について間もなく、音を立てずにスクリーンの幕は開く。かたん。そんな小さな音を響かせて、リールが回りだす。かたたたた、たたた……。

 ――始まった、わよ。

 映画のタイトルがスクリーンに映し出されたそのとき、彼女はそっと右隣を覗きこむ。しかしそこには、予想通り誰も居らず。彼女の右手を握ってくれるような人も、決して居はしなかった。

 スクリーンの内側では白黒の画面が動き続ける。スカートを翻して、女優は走る。黒く光る海と、白い砂浜、その境目を軽やかに走る。カメラはその遥か向こうから、女優を追いかけるように映し続けていた。

 最初に見えているのはスカートのひだが揺れる様子くらいだったのが、どんどんと近くなる。段々と、白い手足が見えてくる。肩口で揺れている髪は、少し先を巻いたパーマで。左手には細い時計をはめているのだと、映像は伝える。

 段々と近付くカメラ。やわらかそうな髪の毛、風に跳ねるその髪先の様子さえ分かるくらいに近付いたときだった。女優はくるりとカメラの方へと振り返る。

 スクリーン一杯に映し出された笑顔。それはまるで春の光のよう。


 そしてそれは、席でスクリーンを見つめる彼女の顔そのものだった。

 もちろん、年を経た彼女の顔には多くの皺が刻まれ、一方スクリーンの女優は皺一つ無い肌をしているとはいえ。しかし、目鼻立ちは若かりし頃のもの、そのもの。

 ただし笑顔と泣き顔、スクリーンの内と外とで、その表情は全く違っていたのだが。




 かつん。音を立てて映画館から足を踏み出した彼女は、眉の間をほぐすように揉んでから、ぐぐっと伸びをした。二時間も座り続けていたためか、体中が痛い。

 ――少し前だったらこのくらい何とも無かったのに。

 もう私も歳なのかしら。そんな風に、苦笑を浮かべた唇で彼女は一人ごちると、鞄の中から一枚、使っていないチケットを取り出した。元々二枚あったのだが、一枚は先ほど彼女が使ってしまったので手元には無い。小さな引換券が残るだけだ。

「――あなたったら、全然来てくれないんですもの」

 今日くらいは来てくれると思ったのに。唇を小さく尖らせてから、彼女はためらいもなく、そのチケットを破り捨てた。

「デートのつもりで買ったのよ。……幽霊でも何でも、出てきてくれれば良いのにね」

 掌に残った細々とした紙の残骸すら、風に躍らせるかのように。彼女はひらひらと両手を振ると、ポスターへと視線を滑らせた。そしてぽつん、と。そんな言葉を残して、靴音高く、彼女は歩き出す。

 圧し掛かるような冬の重みは、いつしか彼女の周囲からは消えていて。彼女は何故なのかしら、と歩きながら頭の片隅で考えた。


 遠ざかる彼女を見送るように、壁に貼られたポスターは、冬空からの硬い風に揺られて音を立てた。

 そのポスター左下には、レイトショーの予告。夜八時半から上映。

 中央には、主演女優の立ち姿。若かりし頃の彼女の笑顔。

 そしてポスター右下。

 そこには彼女の名と、映画を撮った監督の名とが並んで記されていた。


 たった一度だけ映像に映った女優の名は、彼女のもの。

 そしてその右隣に記されたもう一つの名前。たった一度だけメガホンを取ったその男性の名は、彼女が愛した男の名に相違無いものだった。

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