ゆきおんなを探して

プンクト

ゆきおんなを探して

ゆきおんなを探して


Ⅰ.ゆきおんなを読む


「野瀬(のせ)くん、学級文庫の、ゆきおんなっていう本、読んだ?」

休み時間、真杉(ますぎ)とかいう女子にそう言われたとき、なんのことかわからなくて透(とおる)は瞬きしてただ真杉を見返した。真杉はもう一度同じ言葉を繰り返したので、やっと意味がわかって透は首を横に振った。

 「そっか」

 真杉は少し残念そうに去っていった。

 学級文庫というのは、教室の後ろにある本棚の本のことだ。二十冊くらいあって、もちろん休み時間や放課後に自由に読めるのだろうが、透は読んだことはない。本を読むのは嫌いではないが、前にざっと見たときに興味を引く本はなかった。古くさい本ばかりだった気がする。

 「真杉としゃべってた?」

 後ろから声がかかった。啓二だった。

 「ゆきおんな、読んだ?だって。どういうことかな」

 啓二はさあ?と首を傾げて、

 「真杉はさ、変だから。大体いつも何しゃべってるかわかんねえ」

 と言った。それで説明になるとでもいうように。

 透は昼休み、教室の後ろの本棚に近づいた。読みたくなるような本はない。この学級の担任は生徒に本好きになってほしいと本当に思っているのか?と疑いたくなるようなラインナップだ。折り紙入門、偉人の伝記が数冊、日本の歴史を扱ったシリーズ、俳句や川柳の手引き書。絵本が数冊。『夢を描こう』という職業紹介の本が数冊。

 もうちょっといい本、他になかったの?と思いながら眺めていると、目当ての本が見つかった。

 『青鷺町の物語 ゆきおんな』という背表紙を見つけて透は引き抜いた。かっちりした本ではない。薄い本だった。表紙には吹雪の中に立つ女の人の後ろ姿が描かれている。啓二に体育館に行こうと誘われていたので、透は後で読むために本を机の中に入れた。


 透は転校生だ。六年生の九月、二学期になったときに今までよりかなり北にあるこの青鷺町に引っ越してきてもうすぐ五カ月、少しずつ六年一組に慣れてきたところだった。この学校は、各学年に一クラスずつしかない。前の学校はどの学年も三クラスか四クラスはあったので、透は最初驚いた。この学校ではみんな、一年生の頃からほとんど同じ(途中で転校生がいたにせよ)メンバーでやってきたのだ。そんな中でやっていけるのかと心配にもなったが、みんな透を歓迎してくれているようだった。この五カ月で、席が後ろの啓二、同じ塾に通っている優太などと親しくなった。

 「寒っ」

 一月の体育館は、運動をしていなければ居ても立っても居られない寒さだ。啓二たちはドッヂボールをしていて、大声で透を呼んでいる。内野に入れと言っている。前の学校の体育館はこんなに寒くなかったと透は走り出しながら思った。だいぶ古いもんなあこの校舎。だけど田舎の少人数の学校だって、いいことはある。今、体育館には二十人もいない。啓二たちドッヂボール組以外には、同じクラスの女子が何人かバドミントンをしているだけだ。かなりのびのびと使える。前の学校では少しでも遅くなると他のいくつものグループでもう居場所がなかったものだ。

 透はすぐにぶつけられないように、

 「タンマ、タンマ」

 と言いながら内野と外野を分ける線の中に飛び込んだ。外野にいて、ボールを投げようとする姿勢のまま動きを止めて、みんなを笑わせた陽介が、彫像のポーズを解いてボールを投げつけて来る。透は急いで横に体を逸らした。ぶつけるのは苦手だが、逃げるだけなら得意だ。夢中で逃げ回って、とうとうぶつけられないままに昼休みは終わった。その頃には体はポカポカになっていた。

 チャイムが鳴ったからといって、ボールが転がったままなのにみんな気にせず体育館を出ていこうとしている。透はそのままに出来ずボールを拾い、体育館にくっついている小さな倉庫へ向かった。バドミントンをしていた女子が数人いる。その中で、背の高い女子がこちらに気づいた。片手を広げて、

 「野瀬くん、パス」

 と言った。

 穂積(ほづみ)さんだ。下の名前はわからない。ただ、なぜかみんなに「メロ」と呼ばれている。色白で人形のように整った顔立ちで、いつも凝った髪型をしている。啓二がよく、「メロって可愛いよな」と言っているが、透にはよくわからない。ただ、穂積さんが透の前を歩いていたりすると、その頭によく目を奪われた。茶色がかった髪がいくつかの房になって編まれ、最終的に大きくくるくる巻かれてまとめられている様子は何かを思い出させる。どういう仕組みなんだろう、と不思議なものを見るように眺めてしまうのだった。

 ボールをよこせという仕草だったが透はためらった。穂積さんはもう一方の手にラケットを持っていたからだ。だが、穂積さんはもう一度広げた手を振ったので、透はそっとボールを放った。穂積さんはこともなげに片手だけでキャッチすると、ラケットと一緒に片づけてくれた。


 六時間目は国語のテストだった。透は国語が得意だ。先生が、テストが早く終わった人は提出して、静かに読書をしてもいいと言ったので、透は思い出してあの本を広げた。

 『青鷺町の物語 ゆきおんな』はかなり古そうな本だった。ページは黄ばんでいるし、ところどころシミも付いている。一番最後のページを見ると、透が生まれるはるか昔、三十年前に発行されていた。

『ゆきおんな』は要約するとこんな物語だった。


 二百年も三百年も昔のこと、鷺ノ背山のふもとに銀という若者が猟師をして暮らしていた。冬の初めのある日、銀は鹿を追って山の奥まで行ったが、ちらちらと降り始めた雪はしだいに大粒になり、吹雪になってしまった。銀は道を失い、帰れなくなってしまう。やがて力尽きて倒れた。

気づくと何者かにおぶわれていた。なんとそれは白い装束の女だった。わらのような髪に氷のような目。銀は恐ろしくて口がきけなくなった。「決して人に言ってはならない」と女は言った。銀は震えながら頷くと、女は銀を背中から降ろし、消えた。雪はいつの間にかやんでいて、銀はそこがよく知っている道であることに気づき、家まで帰ることができた。

 やがて本格的に冬が来てしばらくした頃、一人で暮らす銀のもとに、おけいと名乗る若い女が現れた。銀を雪山で助けた女に違いなかった。銀ははじめその姿を恐れたが、おけいを泊めてやる。やがて二人は愛し合うようになり、夫婦となった。

 二人は人目を避けるように山の中で暮らした。おけいには不思議な力があった。氷を使って様々なものを拵えるのである。花や鳥、見たことのない動物などであった。山の湖の氷を切り出して作るその不思議な拵えものはやがて山のふもとの村人も知るところになり、おけいは欲しがる村の子どもたちに作ってやった。おけいは優しい女だった。

 銀とおけいの間には子どもも生まれた。孫も生まれた。二人はいつまでも仲睦まじく、やがて家族で山を下りて、村人としていつまでも幸せに暮らした。


 透は読み終わると本を閉じた。古くて薄汚れていたことが気になり、なんとなく手のひらをジーンズの膝でこする。雪女ってこんな話だったかなと思いながら、「読書ノート」を広げた。

鷺ノ背山とはこの青鷺町を半ば囲むようにどっしりたっている山だ。あの山にこんな伝説があったのか。

「読書ノート」は読んだ本の記録ノートで、日付、題名、作者、そして一行でいいから感想を書くこと、と先生に言われている。学校はこのノートを定期的にみんなに提出させては集計し、クラス合わせて何冊読んだかということを他の学年と競わせているのだ。本当にくだらない、と思いながらも、こうして真面目に読書ノートに書いてしまうのが透の性格だった。

透は少し考えてから書いた。

「思っていたより、幸せな終わりかただった。最後に雪女はいなくなると思っていたので意外だった」

透は本を学級文庫に返して、『ゆきおんな』についての関心はなくなった。しかし、それでは終わらなかった。


翌週の月曜日。中休みの時間に、真杉が興奮した様子で話しかけてきた。

真杉はまわりの女子から少し浮いている。どちらかというと小柄で、髪は短い。目が大きくて、小動物のような、すばしこい男の子のような印象だ。何か興味のあることには夢中になって早口で話すときがある。目を輝かせて外国人みたいに身振り手振りまで交えるので、はっきり言って周りの女子は「引いて」いる。なのにそんな様子にも気づかず話し続ける、いわゆる「空気が読めない」というやつだ。普段は眠そうな様子でぼーっとしていたり、本を読んでいることが多いだけに、なおさら「興奮状態」が目立つのだ。

「野瀬くん、あの本読んだんだね」

おっと、『ゆきおんな』のことか。真杉に話しかけられると知っていたら読まなかったのに。でもどうして知っているんだろう、と思った時、透は真杉が手に持っているものに気づいた。今朝先生に提出した透の読書ノートだ。

「!」

透は一瞬でノートを奪い取ると机の中に入れた。なんてことだ。中身を読んだんだ。自分の幼稚な感想を思い出して透はカッと頬が熱くなった。

真杉はその反応にびっくりしたようだ。

「わたし、図書委員だから先生の集計手伝ってて。ごめん」

「・・まあいいけど」

「実はね、ある噂があるの」

 真杉はもう悪いともなんとも思っていない顔で秘密めかして言った。透の返事も待たずに続ける。

 「学級文庫の『ゆきおんな』を最後まで読むと、一週間以内に必ず不幸になるんだって!」

 ・・くだらない。透は無視して教室を出た。真杉といると目立ってしまうのが嫌だった。しかし真杉はついてくる。

 「馬鹿馬鹿しいって思った?わたしも思った。でも、一応、読んだ人がそのあと不幸になったのか知りたくて。わたしももちろん読んだよ。 わたしが読んだのは先週の木曜日。野瀬くんは金曜日だね。どう?今のところ何かあった?」

 「・・今、不幸。真杉さんにからまれてるから」

 真杉は口を開けて笑った。

 「確かに!もしもっとはっきりした不幸があったら教えてね。他にあの本を読んだ人が見つからないの。これじゃあ判断できないよね」

 「判断?」

 透はもう喋るつもりはなかったのに尋ねてしまった。

 「うん、呪いの本かどうかの判断。読んだ人の一週間を調査したいの。クラスの人にどんどん薦めたいところだけど、悪い噂があるものを薦めるってちょっと無責任かなって思うし。野瀬くんは自主的に読んでくれて嬉しいよ」

 透ははあっとため息をついた。真杉がついてこないように男子トイレに入ろうかとも思ったが、やめて教室に戻ることにする。案の定、真杉も喋りながらついてきた。

「呪われているかもしれない本を人に薦める罪は、インフルエンザにかかっていると自覚しながら登校するようなもの?でも呪いの存在はまだ確認されてないんだからもうちょっと罪は軽いかな」

 透は無視しつづけて教室に入ったが、後ろの席の啓二が面白そうに二人を見ているのに気が付いて、また頭がカッと熱くなった。席についても真杉がまだしゃべり続けようとしたので透はそれを封じるように口を開いた。

 「あのね。そんな調査は時間の無駄。呪いの本なんて在りえない。だいたい一週間以内に・・ってなんかのパクリじゃないの。あっちは呪いのビデオだけど」

 映画化もされた有名なホラー小説だ。これにヒントを得た誰かが言い出した冗談に決まってる。透は畳みかけるように続けた。これ以上真杉に付きまとわれるのはごめんだ。

 「それに、この古い本が今までどれだけの人に読まれてきたと思う」

 「いや、たいして読まれてないでしょ」

 真杉は閑散とした学級文庫をちらっと見て笑ったので透は言葉に詰まったが頑張って続ける。

 「あの本が出たのは三十年前。呪いの効力も切れてるって。いや、そもそも」

 透はいいことを思いついた。

 「あの話は不幸な話じゃないよ。どうして読者を呪うわけがある?」

 真杉は感心したように目を見開いた。

 「・・・なるほど。本を最後まで読んだからこその貴重な意見。ありがとう」

 どこまで本気で言っているのかわからない。透は次の時間の教科書を引っ張り出した。これで話はおしまいという身振りのつもりだ。

真杉は、ハッピーエンドの物語が呪うっていうのもおかしいか・・とぶつぶつ言いながらようやくどこかに行った。

 「なんなの?真杉」

 啓二がさっそく話しかけて来る。

 透は説明をしようと思ったが、面倒になり、うーんと返事にならない返事をした。特に興味もなかったがなんとなく思いついて尋ねてみる。

 「啓二、後ろの学級文庫って、読んだことある?」

 啓二は、え?と後ろを振り返った。まさかと首を振る。

 「ない。低学年の頃はクラスの本読んだりもしてたけど。このクラス、面白そうな本ないし」

 「だよね・・。みんなも読んだりしてないよね」

 断じて真杉の調査に協力しようと思ったわけではない。が、啓二はちょっと意外なことを言った。

 「まあ男子は読んでないだろうね。読んでるとしたらマコトくらいかな」

 「マコトが?」

 マコトはクラスで一番成績がいい。学級委員だし、性格も真面目で穏やかなので、女子から眉をひそめられない数少ない男子だ。

 「マコトはたまにあの辺りに立ってるから」

「へえ」

 マコトなら読書をしていても意外でもない。

 「真杉がさ、呪いの本があるって言ってた。聞いたことある?」

 「はあー?呪いの本?」

啓二は思い切り馬鹿にしたような声を出した。どうやら噂は知らないようだ。本当にそんな噂があるのだろうか。女子だけに広まっている噂なのかもしれない。怖い話って女子の方が好きそうだし。

「真杉の言うことだから嘘かも」

 透はひどい言い方をしてしまった。真杉と仲がいいと誤解されたくなかったからかもしれない。

「真杉ってちょっとおかしいもんなあ。女子の中でも浮いてるからさ、ヤブ困ってるみたい」

 担任は藪下先生というので、男子は「ヤブ」と呼んでいた。

 「まあ転校生だしなあ」

 「え?転校生だったの?」

 透はびっくりした。知らなかったの?と啓二は逆に少し驚いて、真杉は六年になったときに転校してきたのだと教えてくれた。


 真杉が去年の四月に来た転校生と知って透は納得した。もうすぐ一年たつとはいえ、このクラス替えもなくがっちり固定しているクラスの中では、浮き上がるのも無理はないかもしれない。しかも、自分のように良くも悪くも平凡で溶け込みやすい人間ではなく、個性を隠そうとしない真杉なら。

 真杉ももっとクラスに溶け込む努力をすればいいのに。

 透は算数の授業は真面目に取り組んだが、次の音楽の授業でつい真杉のことを考えた。音楽を教えるのは薮下先生ではなく森先生といって優しい先生だから、気が緩んだのか。あるいは、音楽室では座り方が教室とは違い、真杉が視界に入ってくるからかもしれない。

 まずあの男みたいな黒いパーカーとジーンズをやめて他の女子みたいな色の服を着る。ピンク色とか水色とか。真杉はショートカットだ。前髪は短かったり長かったり。あまり器用ではないお母さんが切っているような感じ。あれもなんとかする。

 話しかけられたらちゃんと元気に応じる。最初は控えめに、でも話しかけられるのを待っているだけでは駄目。自分から話しかけるときには話題を選ぶ。悪口やマニアックすぎる話題は厳禁。

 そんなことをつらつら考えて、これは転校を繰り返した自分の処世術だと思った。処世術を持っている自分を、誇るような恥じるような両極端の感情に襲われた。

おっと、今日は歌のテストだったっけ。出席番号順に一人ずつ前に出て校歌を歌う。歌のテストなんて嫌すぎる。透の姓は〈野瀬〉なので、真ん中くらい。こんなの最初にやったほうがいいに決まってる。透はあっという間に終わらせてのんびり頬杖をついている啓二を羨ましく見た。啓二は〈伊藤〉だもんな。透はまだだったが、声変わりの始まった男子もいる。なんだか声がガラガラして苦しそうだった。そうこうしているうちに透の番になった。まだたいして馴染みのない校歌だが、一応家で練習してきたので、少なくとも歌詞は間違えなかった。音楽の先生がピアノを弾いてくれて、

「みーどーりしげーれるーさぎのせやーまー」

と透は歌い始める。

なんとか二番まで歌い終えた。緊張で声がうわずっていた気がするが、仕方ない、こんなもんだと思いながら、パチパチパチという拍手の中を透は頬を赤らめて席に戻った。

 透の次は穂積さんだ。穂積さんは姿勢よく歩いてきてみんなの前に出てペコリと一礼した。穂積さんはいつも堂々としている。そして歌も上手だった。声はそんなに大きくないが、綺麗だし、音程が正確だ。みんな盛大に拍手をした。

 穂積さんの次は真杉だ。緊張がようやくとけて余裕ができた透は真杉を観察した。穂積さんと比べてちっとも落ち着きがない。足がもつれたのか、椅子をガタンといわせて歩いてきたと思うと、リスみたいにきょろきょろ周りを見回している。先生が

 「いいですか?」

 と言って伴奏を始めたので、安心したようにニコッとした。笑顔になるとちょっとだけ―ほんの少しだけ―可愛いことに気づいた。

 透は驚いた。真杉の歌は上手だった。普段は低めの声だが、高い声も出るんだ。特に、「ああ青鷺小学校」のところ、急に高くなるのでみんなが苦戦するところも、何の苦もなく澄んだ声を出している。何より声量があった。この学校の校歌、こんなにいい曲だったんだ、と透は思ってしまった。

 終わって透は両手を打ち鳴らした。

 が、なぜかその拍手は教室の中で目立った。数人が透を振り返って見ている。声のない笑いの気配を感じる。

 なんだろう?透は内心、首を傾げた。


 翌日。透は教室の戸を開けていつもどおり自分の席に向かいながら、何か不思議な気がしてあたりを見まわした。この時間にしては皆が静かだ。そして透に注目しているような気がした。透は何げなく前を向いてぎょっとした。黒板に、


 野瀬透

 真杉美穂


 の二つの名前が書かれていた。

 ハート形が上についた傘の中に。

 透は金縛りにかかったようにしばらくそれを見つめていたがとっさに真杉の席に目をやった。真杉はいない。まだ来ていないようだ。透は小走りに黒板に向かった。誰かがプッと笑い声を漏らした。

 透は黒板消しを手に持ってたっぷり三秒その傘を見つめた。どこかで聞いた(相合い傘)という言葉が頭に浮かんだ。

 なんて古くさいんだ。

 いなかもの。いなかもの。いなかもの!

 頭が熱かった。透は胸の中で誰かを、もしかしたらこのクラス全体を罵倒しながら、相合い傘を消した。消して自分の席に戻るまでの間、教室はしいんとしていた。

 啓二が気の毒そうに見ているのがわかったが、透は目を合わさずに椅子を引いて座った。ショックだった。誰が書いたんだろう。啓二や陽介や優太は、なぜ「やめろよ」って言ってくれなかったんだろう。いや、啓二たちが来た時にはもう書かれていたのかもしれない。それならどうして消してくれなかったんだろう。

 このクラスに受け入れられた気でいたが、とんだ勘違いだったのだろうか。

 真杉は、先生とほとんど同時に駆け込んできた。そういえばいつも来るのはギリギリだった気がする。慌ててはいるものの、黒板のことは何も知らないように見えた。

 それでも、真杉は誰かに聞いたらしい。女子の間で浮いているようでも一応ネットワークがあるのだろうか。休み時間、真杉はやってきた。

 もう近づかないでくれ、という願いもむなしく、今日休んでいる隆志の椅子を引っ張ってきて透の前に座り込んだ。

 「さっそく不幸になったみたいだね」

 まるで他人事だ。透はむかっとして口を開いた。

 「真杉が話しかけるからだ」

 「恥ずかしいの」

 (あんなことが)と言外の意味を感じて透はカッとして頭を上げ、真杉とまともに目を合わせた。

 挑むような、からかうような目の色だった。透はひとつだけ認めざるを得ないと思った。真杉には度胸がある。

 「別に」

 とつい言ってしまうと、真杉は良かった、と明るく笑って、小脇に抱えていた本を差し出した。

 「これ読んで」

 それは分厚い古そうな本だった。『日本の民話・昔話』とある。おれは別に民話に興味があるわけじゃないんだ、と言おうと思ったが、それを封じるように真杉は早口で言った。

 「全部読まなくていいから。しおりのところだけでも読んで。で、感想教えてよ」


 透は昼休みにその本を広げた。

今日はなんとなく遊ぶ気になれなくて啓二のドッヂボールの誘いには乗らなかった。啓二はあのあと、自分が登校したときには既に黒板に文字が書かれていたと言った。ちょっと申し訳なさそうな口ぶりだったので、透は啓二への怒りを解いた。だって、自分が同じ立場だとしても、黒板の落書きを消せないと思うから。(へー、偉いね)(マジメ)(消しちゃった)(つまんねーの)と思われるのが怖くて出来ないと思うから。

啓二以外には、穂積さんだけが、すれ違ったときに「気にしないほうがいいよ」と言ってくれた。穂積さんを振り返って、透は何かを思い出させる穂積さんの髪型が、何に似ているかわかった。シナモンロールというパンのようなお菓子のようなあれだ。あんな髪型に結えるなんてきっと手先も器用なのだろう。綺麗で、勉強も運動も、歌まで上手な穂積さん。みんな黙っているのに、さらっと話しかけてくれる穂積さん。透は啓二が「メロっていいよな」と穂積さんに憧れる気持ちがわかる気がした。

『日本の民話・昔話』は学級文庫でも図書室の本でもなく、町の図書館から借りてきたもののようだった。わざわざ図書館まで行ってこんなつまらない本を借りてくるとは。透は内心呆れた。日本中の昔話や民話が数十話収められているようだ。

 しおりのところだけでいい、って言ったけどしおり三つもあるじゃねーか。

透は毒づきながら最初にしおりが挟まれていたページに目を落とした。題名は『へび女房』。

あらすじはこんな具合だった。


ある若者が池のはたで綺麗な娘と出会う。娘と若者はやがて夫婦になり、妻は身ごもるが、妻は夫に、決して子どもを産むところを見てはならないと言う。夫は約束するが、いざ赤ん坊が生まれそうになるといてもたってもいられず、部屋の前を行ったり来たり。ついに、少しだけならいいだろう、と戸の隙間から覗いてしまう。中では大蛇が赤ん坊に巻き付いていた。夫は恐ろしくなって逃げだし走っているうちに、妻と最初に出会った池に辿りついた。そこには人間の姿で妻が立っていたが、なぜか片目は閉じられていた。妻は、正体を知られたからには一緒にいられない、といい、ふしぎな光る玉を渡して池の中に消える。赤ん坊はそれをなめてすくすく育つが、やがてその玉も小さくなり、なくなってしまう。困った夫が再び池のほとりに立つと、妻が姿を現すが、その目は両方とも閉じられていた。妻はまた光るふしぎな玉を渡し、「これでわたしは何も見ることができなくなった。どうか村のお寺へ鐘を寄進してください。その鐘の音で一日の始まりと終わりを知ることができるように」と言う。

赤ん坊はぐんぐん大きくなり、夫は一生懸命働き、お寺へ釣り鐘を寄進した・・・。


透は口の中で「げげ」と呟いた。

母(蛇)の目玉をなめて赤ん坊が育つというのが怖かった。盲目となってでも子を想う母親の愛情も読み取れたが、それより気持ち悪さが先に立つ。どうしたらこんな話を思いつけるのかと不思議に思うくらいだった。しかも、注釈によるとこれと似た話は全国にあるらしい。

 インターネットもなかった時代にどうやって広がるのかな。偶然こんな話があちこちで発生するとは思えないし・・。

透は次のしおりのところを開いた。これはなんとなくあらすじは知っている『つる女房』だった。


ある貧しい若者が傷を負った鶴を助けてやったあと、ひとりの娘が若者のもとを訪れる。二人はやがて夫婦となる。妻は機織り場を作ってほしい、織りあげている最中は決して覗いてはならないと言い、夫も了承する。妻は機織り場にこもって世にも美しい布を織りあげる。夫がそれを持って都に行くと高い値で売れた。妻はたびたび布を織るが、だんだんやつれていくようだ。ある日好奇心に負けて夫が機織り場を覗いてしまう。そこには自分の羽根を使って布を織る一羽の鶴がいた。妻はやがて出て来ると布を渡し、姿を見られたからには一緒にはいられないと言い、鶴となって飛んで行ってしまう。


 そうか、ふたつとも人間が動物と結婚する話だ。『ゆきおんな』は、動物じゃなくて妖怪だけど、あれだって人ならぬものと結婚する話だ。真杉は何を言いたいんだろう?

 三つ目の話を読もうとしたときに昼休みが終わるチャイムが鳴った。透は本が重いのでちょっと迷ったが、持ち帰って残りは家で読むことにした。


 今日は塾がある日だ。

 前の場所でも塾に通っていたこともあって、ここで母親が塾を見つけてきたときも特に抵抗せず通うことにした。前は中学受験してもいいなと思っていたが、こっちには受験するような中学校はない。全員が近くの公立中学校に行く。塾に通う必要はないような気もするが、母によると「学力はつけておいて損はなし」ということらしい。といっても、前に通っていたビルの中にあって教室がいくつも別れている塾とは全然違い、生徒が十数人、先生は一人の小さな塾だ。他の学年の子とも一緒で、高村というおじさんとおじいちゃんの中間くらいの年齢の先生が教えてくれる。

 塾は四十分授業が二コマ。間に十分間休憩がある。透はこの休憩のときに、思い切って近くの席の優太に話しかけた。優太はぽっちゃりした体型と名前のとおりの優しい性格で、いわゆる「癒し系」だ。なんとなく優太になら聞ける気がした。

 「ね、今朝のことなんだけど。黒板の、落書き」

 あ、ああ、とちょっと動揺した顔で優太は頷いた。

 「あれ、誰が書いたか知ってる?」

 ずばりと聞くと、優太は慌てたように首を振った。なんとなく怪しいと思って

 「ほんとに?」

 と念を押すと、優太は気が進まなそうに口を開いた。

 「・・誰が書いたかは知らない。でも、葉月が学校来たとき、もう書いてあったって言ってたよ」

 ふうん、と意味がよくわからなくて相槌をうつと、優太は淡々と説明した。尾上(おのえ)葉月(はづき)は家が遠いこと、だから朝は母親に車で送られてくること、母親の仕事の都合でいつもやたら早く学校に着くこと。

 「つまり・・そんな尾上さんより先に来たってことは、犯人はめっちゃ早く来たってこと?」

 優太は黙っている。

 尾上葉月もこの塾に通っている。

 授業が終わってから透が探すと、尾上さんは玄関の外で迎えの車を待っていた。透はいつも歩いて帰っている。途中まで優太と一緒だ。

 コートのポケットから手袋を出してはめている尾上さんに話しかけた。尾上さんは小柄で色白で、筆ですっとひいたような目をしたお雛様のような印象の子だ。

 「あのさ、今日学校来たとき、黒板にもうあれ書いてあったの?」

 白い息がぽんぽんと出て来る。寒い。暖房で温まった体から熱が逃げだしていく。尾上さんはびっくりしたように透を見たが、横にいる優太に気づいて、納得したように、うん、と頷いた。

 「・・それ、何時ころだった?」

 まるで探偵だ、と思いながら透は尋ねると、尾上さんはおかしそうに笑った。もっと目が細くなった。

 「そんなのわかんないよー。でも、いつも大体同じ。七時四十分くらいだよ。今日もそうだと思う」

 「一番最初だった?」

 うん、とあっさり尾上さんが頷いたので、透はショックを受けた。つまり・・つまり、「誰か」は、その場のノリで書いたのではないということだ。うんと早く学校に来て、黒板に相合い傘を描いて、一度家に帰るかどこかに身をひそめるかして、再び何食わぬ顔をして現れたということだ。そして黒板を見て驚いたふりをして・・透の想像は広がった。誰かの「計画性」にはインパクトがあった。そうだ、書いちゃえ、と軽い気持ちで書かれた場合と比べて、自分に与える衝撃はずっと大きい。

 尾上さんと別れて優太と二人で歩きながらも透は無口だった。

 前の場所では、塾の帰り道は夜でも賑やかだった。居酒屋やファミレスも多く、「酔っ払いがいるかもしれないから気を付けなさいよ」と母はよく言ったが、八時くらいじゃまだ酔っ払いなんていない。せいぜいこれから酔っぱらおうというサラリーマンに、「遅くまで勉強して偉いな!」と言われたことがあるくらいだ。帰りはいつも空腹で、透は友達とコンビニでおにぎりを買って頬張りながら帰った。塾が終わった解放感のなか食べるおにぎりは美味しかった。

あの頃が懐かしかった。ここは夜はもう真っ暗だ。コンビニもない。田舎はすぐに夜になる。特に冬には。

 透の様子を気にしていたのか、優太は別れる角にさしかかる頃ぽつりと呟いた。

 「まあ気にしないことだよ。ただの冗談だよきっと」

 冗談でも気になることに変わりはなかったが、優太が励ましてくれているのはわかったので、透はうんと言った。

 

 透はその夜、読書ノートを広げた。真杉に直接感想を言わなくてもこれに書いて読んでもらえばいいと思ったのだ。

 家で読んだ三つ目の話―栞がはさまれていた話―は『雪女』だった。学級文庫にある『ゆきおんな』とは違う。透もなんとなく知っているストーリーだった。

 あらすじはこうだ。猟師の二人組が雪山で遭難して、白い装束の女に息を吹きかけられて老人だけが死に、若者は助かる。このあと、雪女と会ったことは決して口外してはならないという条件で見逃された若者は無事に小屋に戻る。しばらくたったある夜、色白の綺麗な娘が小屋に現れ、嵐がひどいので泊めてやる。二人は一緒に暮らしはじめ、夫婦になる。子どもも生まれる。ある吹雪の夜、若者はふと昔のことを思い出し、「こんな吹雪の晩に、恐ろしい女に会ったのだよ」と雪女のことを語る。そのとたん、妻は「誰にも言うなと言ったではないか」と叫び、子どもを置いて消えてしまう。

 これもまた、男が人ではない存在と結婚する話だった。前半部分は青鷺町の『ゆきおんな』と少し似ているが、後半はだいぶ違う。

 透は読書ノートに書きだした。透はささやかなことをコツコツ積み上げていく作業が好きだった。夏休みのラジオ体操も、ハンコがひとつずつ増えていくのが楽しみで苦も無く通っていた。雨で中止だったときには、空欄ができるのが嫌で自分でハンコの欄に「中止」と鉛筆で書きこんでいた。透の性格は、姉に言わせると「コツコツ貯め込む可愛くないアリ」らしい。


 翌日、透は真杉が席の近くを通り過ぎるタイミングを見計らって、

 「図書委員だよね?」

 と言って読書ノートと『日本の民話・昔話』を差し出した。

 真杉は一瞬びっくりしたようにノートを見たが、すぐに意図を察したようで、

 「はーい、預かるね」

 とノートと本を受け取って去っていった。透はトイレに行こうとしながらちらっと真杉を見た。真杉は自分の席で透のノートを広げて読んでいるようだ。もちろん真杉のしていることに注目している人なんて誰もいない。


 『へび女房』(『日本の民話・昔話』)

 『つるの恩返し』(〃)

 『雪女』(〃)

 ぜんぶ、人間の男と、人間に化けた動物や妖怪が結婚するという話だった。「○○をしてはいけない」という約束があったのに、男がそれを破って一緒にいられなくなるという部分も同じだった。なぜ同じような展開になるのか不思議だった。昔は、自然や動物の存在が今より身近で、こういう物語を思いついたのだろうけど、なぜハッピーエンドにしなかったのだろうか。

そして、青鷺町に伝わる『ゆきおんな』(1/26読了)の結末だけがなぜハッピーエンドなのだろうか。色々と不思議だった。


 というのが透の感想文だ。不思議がっているだけであまり中身がない。

 それでも真杉は満足したようだ。ぴょんと跳ねるように椅子から立ち上がってこちらにやってきて、

 「そう、わたしも全く同じことが疑問だったの」

 と熱心に話しかけてきた。

 「それで、わたしの立てた仮説はね」

 と言いかけたが、透は遮った。

 「いや、別におれはそういうことに興味ないから」

 「ちゃんと読んだくせに」

 真杉は不服そうに言ってさらに続けようとした。読めって言われて、読書は嫌いじゃないから読んだだけだ。こういうところが「空気が読めない」んだ。相手が興味があろうがなかろうが関係ない、自分が喋りたいだけ。と思った透は冷ややかに言った。

 「それは、真杉が将来、大学の、文学部?っつーの?に入って、卒論のテーマにでもすればいいんじゃない」

 真杉はちょっとひるんだように見えたので、透はかえって慌てた。素っ気なさ過ぎたかな。それで言うつもりはなかったことを言ってしまった。

 「おれはもっと別のことが気になるんだ」

 ああ、そんなこと言うつもりはなかったのに。

 「なにが気になるの?」

 真杉は興味津々だ。 

 透は渋々、昨日の黒板落書き事件の犯人が知りたいのだと言った。

 なーんだという顔を見て、透はついむきになって昨日塾で得た知識と、推理を披露した。あれを書いた人は誰よりも早く学校に来て、書いて、一度姿を隠してからまた登校してきたのではないか。

 真杉はへえ、と意外そうな声を出したものの、透の推理には軽く言い返した。

 「まあそうとは限らないよね。前の日の最後に書いて帰ったのかもしれないよ」

 そうか。

 そんな簡単な可能性も考え付かなかった透は悔しかった。計画的な犯人像が崩れて、放課後、その場のノリで、ウケようと思って落書きをする子どもの姿が浮かんだ。が、続けた。

 「誰が、何のためにやったんだと思う?」

 「さあ。・・わたしへの嫌がらせだと思ったんだけど」

 え?

 真杉がぽつりと呟いたので透は驚いた。真杉って嫌がらせをされているのかな。まるでそんなことには慣れているような口調だった。

 「でも、違うのかなー。ね、野瀬くんってケイタイ持ってる?」

 透はつい、アドレスならあるけどと言ってしまった。教えて、と言われて、透は面倒な文字の羅列を思い浮かべて躊躇したが、鐘が鳴ったのに背中を押されて、ノートの端っこを破ると猛スピードでそこに書き殴って渡した。

 真杉はそれを持って席に帰っていった。

 なんてことをしてしまったんだ。

 透は自分のしたことを思って恥ずかしかった。でも、真杉が考えることに興味があった。自分の頭には決して浮かばないことを思いついてくれる気がしたのだ。なぜだろう。特に成績がいいわけでもない、ぱっとしない女子なのに。

 

 夜、透が台所でカルピスを作っていたら、姉の杏(きょう)香(か)がやってきた。

 「わたしにも作って」

 と言うので、なんでと素っ気なく言って、コップ片手にソファに沈み込んだら、なぜか杏香は勝ち誇った顔を突き出した。

 「いいの?これ見せなくて」

  余裕たっぷりで首を傾けた姉は高校一年生。冬なのに陸上部のせいか日に焼けた顔をしている。好奇心で目が輝いていた。その手には赤いスマホがあった。

 あっ、と透は肩を縮めた。やっぱりこいつのアドレスを教えたのは間違いだったかも、と思いながら、透は素早く立ち上がるとカルピスを作り、氷も入れて、ソファに座っている姉の前にしずしずと差し出した。

 「どーぞ」

 ここのところ、透は杏香のことをなんと呼べばいいのかわからず、呼ばずに済むようにしていた。「お姉ちゃん」と呼んでいたのがあるとき恥ずかしくなり、かと言って「姉貴」なんてカッコつけた呼び方もできない。「パパ」「ママ」は一年ほど前に苦心して「父さん」「母さん」に移行させたのだが、あのときも大変だった。今度は姉のことをなんと呼べば良いかが、透の密かな悩みだった。

 「よろしい。・・ちょっと薄いな~あんた貧乏性だもんね」

 「見せてよ」

 「女の子とやり取りするなんて生意気じゃない」

 スマートフォンどころか携帯電話も持たせてもらえない透は、たまに姉のスマホを借りて前の学校の友達とやり取りしていた。そんなの不自由だしプライバシーも何もあったもんじゃない、と思うが、全くやりとりの手段がないよりはマシと思って我慢している。母親に命じられて、杏香も渋々貸してくれる。

そうだ、タイトルに「透へ」と書いてある場合、杏香は本文を読まない決まりになっていたんだ。こっちの誰かとメールのやり取りをするのは初めてだったので、真杉にそのことを言うのを忘れていた。

読まれたんだ。なんて書いてあるか知らないけど。

透は動揺しているのを自覚しつつ、片手にスマホ、片手にカルピスのコップをそっと持つと自分の部屋へ逃げ込んだ。

しかし、透の予感は外れたようで、メールにはまだ読まれていない「未読」のマークが付いていた。題名に「野瀬透くんへ」とある。だから杏香は読まなかったのだ。真杉はこれが透個人のアドレスではないことを察したのだろうか。差出人のアドレスは、「masugimiho」、マスギミホから始まるので真杉に間違いない。姉は、アドレスで女の子からだとわかっただけらしい。

透は胸をなでおろして本文に目を落とした。

「野瀬透くんへ」

とまたあってなぜか雪だるまの絵文字が付いていた。そのあとしばらく空白があってからメールは再開されていた。文章の初めの部分がメール通知と共に画面に出ないようにしているのだ。透はちょっと感心した。


「わたしと野瀬くんの名前を並べて黒板に書いたことに、ちゃんとした(?)動機があるとすればなんだろう、と考えてみました。最初はわたしへの嫌がらせだと思いました。なぜかわたしはクラスで浮いているようなので!(プカプカ)それか、野瀬くんへの嫌がらせも兼ねてるかもね。わたしたちは転校生だから、知らず知らずのうちに教室の何かを変える危険分子?という言葉でいいかわからないけどそう思われてる可能性があるでしょ。このクラスは一年生以来(もっと前からかな?)ずっとほぼ同じ構成員だったんだから、保守的だとしても無理はないよね」


なんだかよくわからなくて透はもう一度読み返した。保守的っていうのは、古いものを守るっていう意味だっけ。つまり、新しい要素である透と真杉が恐れられているということだろうか。透は鼻を鳴らした。真杉は自分をそれほどの存在だと思っているのだろうか。透は自分も真杉も特に優秀でもなければリーダーシップもないんだから、クラスの何かを変えたりなんてしていないと思った。

それにしても真杉が自分がクラスで浮いていることを自覚しているとは意外だった。あと(プカプカ)って・・。寒すぎる。でもこれらの感想を伝えるのは面倒だった。


「で、他には?」


と簡単に返信する。他の考えがあるのは明らかだったからだ。

返信が来るまで宿題でもするか、と机に向かったが、すぐに着信音が鳴った。


 「相合い傘に名前を書かれた男の子と女の子は、どうなることを期待されてると思う?」


 はあああ!?

 透は目を疑った。何を書いてるんだこいつは。やっぱり真杉はわけがわからない。相合い傘に名前を書かれた男子と女子は、だって??

 動揺した透は汗ばむ手でスマホを握りしめた。相合い傘に名前を書かれた男子と女子は・・付き合うことを期待されてる?真杉もそう期待してる?交際の申し込みなのか?これは?という思考で頭の中が焼けそうに熱くなったが、それは数秒だった。

 違う。

 真杉が言いたいのはそういうことじゃない。

 頭は急速に冷えた。急いで打ち込む。


 「気まずくなる!」


 そうだ。気まずくなるに決まってるじゃないか。誰かはそれを期待しているってこと?さっぱりわからないながら、送信したとたん、すぐにメールが来た。もう文章を打って待っていたとしか思えない早さだ。


 「そう!そう思ったの。私たちに会話をさせないため。会話を再開させないため。わかる?」


 透は二回読み返した。論理的なようなめちゃくちゃのような。会話がなくなることを期待してる?自分たちの会話がなくなって誰になんの得があるか全くわからなかった。それなら、1のほうが可能性があると思った。転校生が保守的なクラスを変えたことによって反感を買ったという可能性。ただしそれは、クラスの人気を独り占めするとか、成績優秀で誰からも一目置かれるとかいう転校生の場合、だ。透も真杉も当てはまらない。

 会話?自分たちの会話なんて、もともとろくになかった。接点もない。

 いや、違う。

 透は場違いにも一つだけ使われている絵文字に目を奪われた。これは真杉のヒントだ。雪だるま。いや、ゆきおんなだ。二人の話題と言えば『ゆきおんな』のことしかない。そこで急いでメールを打った。

 「ゆきおんな?」

 返事はまた早かった。

 「そう!その誰かは、ゆきおんなのことについて探られたくない人だと思わない?」

 『ゆきおんな』のこと。真杉が最初に話しかけてきたのは、奇妙な噂があったからだ。だけどなあ。

 「ゆきおんなを読むと、一週間以内に不幸になるっていう噂のこと?だけどその噂って真杉以外の人から聞いたことないんだけど」

 別に疑っているわけではないが、懐疑的な文になってしまった。するとすぐに返信が来た。

 「ほんとだよ!いちじてきかもしれないけどうわさはあったんだよ。わたししらべてみる」

 興奮しているのか漢字変換もされていない。透は呆れながら「まあご自由に。もう寝る」とだけ送った。真杉のすることに興味はあった。が、これ以上関わるのを面倒に思う気持ちが大きかった。


 塾の二コマ目は透のやや苦手な算数だった。実は宿題があと数問終わっていなかったので、十分休みに透は慌てて取り組んでいた。授業の初めに先生はどんどん生徒を指名して宿題の答え合わせをしていく。やっていない部分で指名されたら恥をかくことになる。

 しかし、教室のざわめきの中から、集中力を乱す声が聞こえてきた。

「真杉さんって子が」

 真杉という名前に無意識のうちに反応して、透は顔を上げた。透より三列ほど前に座っている尾上さんが隣の席の子に話している。斜めなので、横顔がよく見えた。隣の席の子は知らない子だ。きっと別の学校の子だろう。

 思わず透は鉛筆を止めて耳をすませていた。

 「学級文庫の本を最後まで読んだら不幸になる?そしたらクラス全員不幸になるじゃん。学級閉鎖とか?あ、これはラッキーのほうか」

 と言う隣の席の子に対して、尾上さんは首を傾げながら言っている。

 「まあ学級文庫なんて誰も読んでないから、そうはならないけど。で、そういう噂があるか知ってる?って女子全員に聞いてるの」

 「ふうん」

 「知ってる子もいたけど・・わたしは知らなかった。学校の怪談みたいなの苦手だからなあ。ちょっと怖くなっちゃった」

 「でも読まなきゃいいんでしょ。うちの学校にも怪談あるよ」

 二人の会話は学校にまつわる怖い話に移っていった。

 メールのやりとりから二日たっていた。真杉はしっかり仕事をしているらしい。透は半分呆れ、半分感心しながら再び鉛筆を走らせた。

 そういえば、昨日は真杉に少し驚かされた。 

 あまり関わらないでおこうと思っていたはずなのに、透は休み時間に真杉のところに行って話しかけてしまったのだ。

 「おれのメールアドレス、誰かと共用だって、なんでわかったの」

 真杉が―普段は空気を読めないキャラなのに―メールでは、透のアドレスが透だけのものではないことに配慮していたのが不思議だったのだ。

 真杉はにっと笑った。歯が真っ白で歯並びがいい。その問いには答えず、逆に質問してきた。

 「野瀬くんのお姉さん、あんずのアンって字で、アンさん?」

 透はびっくりして一瞬言葉が出なかった。

 アンではないが、姉の名前は杏(きょう)香(か)。確かに杏(あんず)という字を使う。なぜわかったのだろう。

 「・・いや、キョウカ」

 そして、悔しかったが、「あんずの杏(あん)に、香る」と付け加えた。

 真杉はふーんと言って頬杖をついた。そして特に得意げな様子もなく説明した。

 「アドレス、wild-apricotから始まるでしょ。ワイルドなアプリコット、野生のあんずってことだよね。野瀬がwildってことなら、あんずは下の名前なのかなって思っただけ。野瀬くんの名前とは違うし、そもそもケイタイある?って聞いたときにアドレスならある、って言ったから、自分のではないんだなって思ったよ」

 今度は透がふーんと言った。

 「なんだ。・・・名探偵じゃん」

 それは透が初めて言った真杉への賛辞だった。真杉は、本気で言っているのか疑うように黒目をぐるりと動かして透を見た。二人の目が合って、なぜか同時に笑い出したのだった。

 塾の二コマ目を終え、透は優太と帰り道を歩いていた。雪がちらちらと降っている。透はジャンパーのフードをかぶった。優太のぽっちゃりした体は茶色のダウンジャケットでモコモコに着ぶくれていて、なんだかクマのぬいぐるみみたいに見えた。が、内心で思うにとどめた。これを言ったらさすがの温厚な優太でも怒るかもしれない。

 「あー終わったー。明日とあさっては学校休みだー」

 金曜日だった。

 「帰ったら八時半くらいかあ。ゲームしてー」

 「うち、ゲーム九時までって決まってる。風呂も入んないとダメだし、出来ないかも」

 と優太。

 「うちも九時まで。あ、今日返ってきたテスト見せたらそれもやばいかも・・。ゲーム終わってから見せよう」

 透の母親はやや〈教育ママ〉で、テストの結果でゲームの時間を制限することがあるのだ。透は六十点の社会のテストを思ってため息をついた。白い息が暗闇に吐き出される。

 「優太は頭いいからいいよね」

 「そうでもないよ。八十五点だった。マコトは百点だって。あと、メロもかな」

  へえと透は言った。男子で一番頭がいいのはマコト。女子で一番頭がいいのはメロこと穂積さん。というイメージ通りの点数だ。透はふと思い出して口を開いた。

 「真杉は?頭いいっけ?」

 優太は苦笑いした。

 「国語は出来るみたいだけど」

 「ふうん。他は?」

 「・・出来ない。真杉って全然勉強してないもん。大丈夫?って思うくらい」

 確かに真杉は宿題を出さないことが多いようでよく叱られている。授業中もほとんど手を挙げないし、突然あてられるとびっくりした声で「わかりません」ということが多い。全然もじもじしたり困ったりしていないのが初めのうち奇異に感じられたことを思い出した。

 読書家らしい真杉が国語を得意とするのは当たり前だ。本をよく読んでいれば、国語はほとんど―漢字練習以外―勉強する必要がないことを、透は経験上知っていた。つまり、真杉は自主的には全く勉強していないのではないか。

 あ、でも英語は得意そうだったけど。この学校では英語の授業は少ないしテストもないので、それにどういう意味があるのかわからなかった。

 「透ってさ・・真杉と仲いいの」

 優太が何かを気にしているような表情を向けてきた。

 「別に、良くないけど」

 透は固くなって言った。相合い傘に加えてこれ以上噂でも広がったらたまらない。

 優太は、ちょっと迷っているようだったが、早口で言った。

 「あんまり真杉と話さないほうがいいかも」

 そんな言葉が優太の口から出るとは思わず、透は驚いて優太の顔を見た。優太は落ち着かなげに手袋をした手で鼻をかいている。

 「なんで」

 自分でも変な声だと思った。かすれている。優太はしばらく黙っていたが、やがて、ごめん、なんでもないと呟いた。

 優太が何を考えているか知りたくて透は優太の横顔を見ていたが、視線が合うことはなかった。


 優太が言ったことはなんだったんだろう。

 週末のあいだ、透は気になっていた。これが啓二だったら特に深い考えがあって言ったわけではないと思うだろう。(真杉と話してたら馬鹿がうつるぜ)なんて軽口をいかにも言いそうだからだ。でも優太はもう少し慎重な性格だ。それに、優太の言葉には、透のことを心配しているような気配があった。

 透が真杉と噂を立てられないように注意してくれただけだろうか。

 透はベッドの上に寝そべってゲームをしながら、気づくとまたこのことを考えていた。優太が心配しているのは、男女交際なんていう、どうせ誰も信じっこない噂ではない気がした。

 杏香が帰ってきて母と話している声が聞こえた。杏香は電車で一時間以上かかる隣の市の高校に通っている。週末もたいてい陸上部の活動で不在にしているが、今日は早かったようだ。まだ夕方の四時だ。

 透はゲーム機を放り出してベッドから降りた。階段を下りて洗面所の姉に言った。

 「ね、スマホ貸して」

  杏香は洗った手を拭きながら「まず、お帰りでしょ」と言った。四歳離れているせいか、まるで母親と同じ口調になるときがある。

 「・・おかえりなさい」

 「ただいま」

 杏香は鏡の中の顔をチェックするように角度を変えて見ている。ついでに鏡の中の透と目を合わせて意味ありげに笑った。

 「どうしようかな?スマホ、勉強にも使うしねー」

 「・・どうせ今からお昼寝タイムだろ」

 杏香は週末の部活のあとはよく寝ている。きつい部活なのだ。それなのに塾にも行かず成績優秀なので、透はたまに自分が情けなくなる。

 「まあいっか。私のメール見んなよ」

 杏香は居間まで行き、鞄からスマホを出してポンと渡してくれた。

 「・・ありがとう」

 透は、優太のことに加えて、もうひとつ気になっていることがあった。真杉は「ゆきおんな」の噂について調べてみる、と張り切っていたし、実際調べているらしかったのに、なぜ結果を教えてくれないのだろう。

 

 「真杉さんへ」という題名にした。


 「ゆきおんなの本の噂、調べた?どうだった?」


 しばらくして返事が来た。


 「調べたよ。私が知ったのは今井さんが喋ってたのを偶然聞いたからだったのを思い出して今井さんに聞いたら、穂積さんから聞いたって教えてくれた。穂積さんは、高橋さんから聞いたって。その日は高橋さん休みだったから、金曜日に高橋さんに聞いてみた。でも、高橋さんは誰から聞いたか覚えてないんだって」


 真杉←今井←穂積←高橋という流れらしい。今井さんはよく早口で喋る女の子、高橋さんは反対におとなしそうな子だ。


「覚えてないって怪しくない?そんなに前のことじゃないだろうに。高橋さんが考えた呪いなのかな」


 自分でも半信半疑で打った。あの真面目そうな高橋さんがそんなことをするだろうか。


 「違うと思う。でも他の子はほとんど知らなかったし、これ以上はわからないかも。高橋さん尋問するわけにもいかないし。ところで、野瀬くんがあの本読んでから一週間以上たったね。どう?」


 どう?とは不幸になったかどうか、だろう。真杉と関わり合いになったから不幸だ、と前は言ったが、透はそれを繰り返すのはやめた。


 「特に何もない。今日、小遣いの日だったからむしろ金運アップかな」


 少し前に二月になったので、月に一度のお小遣いを催促したというだけのことだ。透はさらに「真杉は?」と続けて打って、送信した。


 「私も、特にないかな。呪いはなかったのかなー。野瀬くん金運アップ、いいじゃん。私はテストひどかったから勉強運ダウン。やっぱ呪いかな?」


 「それは呪いじゃなくて自分のせい」


 やはり社会のテストの結果は悪かったらしい。

 透は黒板に相合い傘を書いたのは誰だったのかな、と思いながら適当にやり取りを終わらせた。『ゆきおんな』の本と関係があるという説は捨てた方がいいかもしれない。書いた人は、単に真杉と透のことが嫌いでやったのか・・いや、その方がヘコむから!と自分で自分にツッコミを入れる。


 次の日。

 朝の会のときに穂積さんが前に立っていた。先生がいなかったり手が離せなかったりするときは、穂積さんやマコトが代わりに前に立つ。学級委員なのだ。

「今配るこれに記入したものが卒業文集に載ります。ずっと残るものだから適当に書かないように。提出は来週月曜までです」

穂積さんがよく通る声で言った。皆がざわめいた。穂積さんが黒板に「プリント 来週月曜まで」と書いた。チョークで書く字なんてみんな下手になるものなのに、穂積さんの字は上手だった。はっきり言ってヤブ先生よりうまい。

前の人が渡してきたプリントを見ると、「好きな給食」「好きな科目」などを書く欄がある。透は一枚取って啓二に回した。そのときに真杉が目に入った。真杉は横の男子に何か尋ねているようだ。首を傾げるように返事を待っている。が、男子―横井くん―は聞こえないのか、硬い顔をしてプリントを見ている。その様子がなんとなく奇妙で、透は二人に注目した。真杉はもう一度何か言ったようだが、横井くんは反応しない。透は内心首をひねった。

「中学で頑張りたいこと、だって。どうする?そういえば透、なんの部活入る?」

啓二が尋ねてきた。

「えーなんだろ。ていうか、なんの部活があるの?」

啓二は指を折りながら教えてくれた。

「確か、サッカー、野球、バスケ、陸上・・」

うっかりきつい部活に入ったら三年間大変だ、と思った透は身を乗り出した。

ざわめきが大きくなったとき、穂積さんがぴしりとした声で「静かにして」と言った。いつも薄く微笑している穂積さんが真顔になっている。こわい。大きな声ではなかったが、効果は抜群で、教室は水を打ったように静かになった。透は慌てて前を向き、さっきの光景は忘れた。

だが、給食の時間にまた真杉のことが気になった。給食は六人の班ごとに机をくっつけて食べる。机の向きを変えるので、透の視界にちょうど真杉が入ってくるのだが、真杉は誰とも話していなかった。今まではどうだったっけ。何か熱心に話したり笑っている姿を見た気もする。本当はダメだが、他の人の嫌いなおかずをパクパク食べてやる真杉が見えて、(大食い)(嫌いなものなさそう)と思ったこともある。

今日の真杉は姿勢よく座って黙って食べていた。班の他の女子二人は自分たちだけで何か内緒話するように顔を寄せている。男子三人も真杉には話しかけていない。透はなぜか胃が重くなるような感じがして、食欲がなくなった。

翌日、透の嫌な感じはある光景を目撃してもっと強くなった。

体育の授業だった。ここの体育館は寒い。外の方が日差しがある分マシな気がする。

 「今日も寒いな!寒いと体が硬くなって怪我をしやすくなる。まず柔軟体操をするぞ。二人一組になれ」

 薮下先生が言う。透は近くにいた翔と組んだ。床に足を伸ばして座った翔の背中に、透が両手をあててグッと押す。いてて・・という翔の声を聞きながら透はふと顔を女子の方に向けた。そして目を疑った。

 真杉は一人で柔軟体操をしていた。女子が奇数で、一人余ったのかと最初思ったが、真杉のすぐ近くになぜか三人で柔軟体操をしている女子のグループがあった。穂積さん、そして穂積さんと仲がいい今井さん、徳永さんだった。「すごーい」「柔らかいねー」などと言い合いながら一人の背中を二人で押している。

 透は先生の方を見たが、先生は今日使う器具を設置していて、女子のペアがきちんと出来ていないことに気づいていない。透は深呼吸した。なぜか息苦しかった。一人でやっているものの、ちっとも前に曲げられていない体の固そうな真杉の背中から透は目を逸らした。

 穂積さんが三人で組んでいたことにも透はショックを受けた。シナモンロールの穂積さんは、誰にでも優しい穂積さんではなかったのか?あの距離で一人ぼっちの真杉に気づいていなかったとは思えない。

 透の心の中で、穂積さんからは「さん」が取れて「穂積」になった。憧れは警戒へと変わった。


 晩ご飯は鶏の唐揚げだった。運動部の杏香は見た目に反してよく食べるし、透も唐揚げは大好きなので、野瀬家はいつも大量に揚げる。

父は仕事で遅いので、母と杏香と透の三人で食卓を囲む。唐揚げは表面が少し白っぽくてカリカリなのが透は大好きだった。特に皮の部分はたまらない。透は黙々と唐揚げを頬張った。

 「なんか、透、静かじゃない?」

 母が言った。

 透は唐揚げをしばらくもぐもぐして飲み込んだ後に、「食べてるからだよ」と返した。

 「美味しい?」

 との問いに、

 「さいこう」

 と答えた声が杏香ときれいに重なった。

 ふふっと笑って母が食卓を離れたあと、杏香はテレビから目を離して透を見た。

 「透がたまにメールしてる子ってどんな子?」

 透は慌てた。サラダを食べながら時間稼ぎをする。

 「どんなって・・」

 なんと言っていいかわからなかったが、思いついた。

 「そいつさ、メールアドレスから、名前当てたよ」

 姉の名前、という意味で人差し指を姉に向けながら言った。

 「ぴったりじゃないけどさ。杏(あんず)のアンで、アンさんなのかって」

 「へえ」

 杏香は感心したように眉を上げた。

 「頭がいい子だね」

 頭がいい・・?透は否定した。

 「いや、むしろ頭悪いと思う。ぜんぜん勉強できないよ。ただ、たまたま英語を知ってただけだよ」

 「そうかな。ちゃんと勉強するようになったら、すごく頭がいいってことになるかもよ」

 そうだろうか。

 「で、透は何か心配ごとがあるんじゃない?」

 と言われて透はドキッとした。

 「え、なんで?」

 「だって、から揚げ大好きなはずなのに、テンション低かったし・・まあよく食べてたけど。なんかあった?」

 なんと言えばいいのだろう。確かに心配ごとはあるのだ。でも自分の気のせいかもしれないし、と透は思おうとしたが、一方で、気のせいではないこともわかっていた。

 「なんにもないよ」

 「そう?ならいいけど」

 姉は、ご馳走様でした、と手を合わせた。お皿を重ねている。

行ってしまう。やっぱり言いたいことがある気がした。透は、思わずその背中に声をかけた。

 「きょうちゃん」

 透の口から出たのは、「お姉ちゃん」より前、たぶん小学校に上がる前に使っていた呼び名だった。杏香はびっくりしたように振り向いた。透も自分で言った癖に驚いていた。そんな呼び方すっかり忘れていたのに、なぜ今飛び出してきたのだろう。

 「なに?」

 杏香はちょっと照れくさそうな顔をしていたが、呼び方には触れずにいてくれた。透も恥ずかしさを押し隠して、何事もなかったような顔をした―つもりだ。

 「あのさ、そいつさ」

 透は思い切って言った。クラスの誰にもなぜか言えなかったことだ。

 「今、無視されてる。クラスで」

 「・・・いじめられてるの?」

 杏香は一度持ったお皿をテーブルに置いた。眉を寄せている。いじめられてるのかな。いじめって何だろう。ものを隠されたり、ひどいあだ名で呼ばれたり、土下座させられたり、はない。と思う。黒板の相合い傘は・・いじめになるのかな。

 「いじめかどうかは・・わかんないけど」

 「あんたはどうしたいの」

 どうしたい?自分が何かをしたいかどうかはわからない。関わりたくないという気持ちが全くないと言えば嘘になる。

 「おれはただ・・見たくないんだ」

 この言葉が今の気持ちにぴったりしている気がした。

 「そいつが、誰にも話しかけられないでいるのを、見たくないんだ」

 そんな真杉を見ていると心が重くなって息が苦しくなる。

 「じゃあ、二つの選択肢しかないよね」

 杏香はきっぱり言った。

 「その子を見ないように、視界に入れないようにして生活するか。あんたがその子に話しかけるか」

 杏香は手を伸ばしてパシッと透の腕をはたいた。

 「あんた、何のために転校生やってんの」

 「・・え?おれって何かのために転校生やってたの?」

 「なんのしがらみもない。あ、しがらみってわかる?つまり・・クラスメートと面倒なつながりもなくてさ、少なくとも数か月分しかね。ややこしい過去もなくて、自由なんだよ。転校生って。あんたが話しかけなくてどーすんの」

 そんなふうに考えたことはなかった。二つの幼稚園に行き、小学校はこれで三校目。前の小学校で卒業できると思ったのに六年生の二学期で転校になるとわかったときにはがっくりきた。友達と別れる辛さ、新しい環境での心細さ、なんでも覚えなおし、やり直しの面倒くささ。自由だなんてとても思えなかった。受け入れてもらいたいという気持ちに縛られてるんだから、逆に不自由じゃないか。しかし、(人のことだと思って)とは思わなかった。杏香は透より年上な分、透以上に転校をしている、転校生の先輩だったからだ。

 自由なんだよ。

 その言葉は透の心に小さな明かりを灯した気がした。

 

 昼休み、透は啓二の雪上サッカーの誘いを断った。教室を見回す。女子の多くは壁際のストーブのところに集まってお喋りをしていたが、もちろんその中に真杉の姿はない。

 図書室に行ってみるが、そこにも真杉はいなかった。校庭や体育館にいるとは思えなかったし、透は他にどこを探せばいいかわからず図書室の前の廊下を歩いていくと、ふと第二図書室の戸が開いていることに気づいた。ここには入ったことがなかった。普段は使われていない、物置のような印象の部屋だ。

 透が覗いてみると、机の上には本がどっさり―修理する必要があるのか、まだ購入したてでラベルを貼っていないのか、とにかく本がどっさり―積まれている。

その奥の窓際に、真杉が座って本を読んでいた。暖房も付いていない寒い部屋で、特に寒そうな様子も見せず、頬杖をついて本に目を落としている。

透はなんと声をかけていいかわからなかった。黙って入っていき、真杉の前に立つと、真杉は顔を上げて透に気づいた。口を開けたが、何も言わず、やがて「なに?」というように首を傾げた。

 透はいよいよ困った。勢いでここまで来たが、特に用事があるわけではないのだ。

 「なに読んでんの」

 そのくらいしか言うことが思いつかず、本を指さしながら聞いてみた。ついでに、図々しいかもと思いながら真杉の向かいの椅子を引いて座る。真杉は表紙をこちらに向けた。

 『日本各地に伝わる妖怪・幽霊』という表紙を見て、透は思わず吹き出してしまった。

 「なんで笑うの」

 と言いながら、真杉もつられたように笑った。久しぶりに真杉の笑顔を見た気がした。

 「まだそんなの読んでるんだ。さんざんな目に遭ったのにさ」

 真杉が無視されるようになったのは、先週、女子に『ゆきおんな』の呪いの噂について聞きまわったことが原因ではないかと透は睨んでいた。タイミングが一致しすぎている。それなら透にも少し責任があった。もともと相合い傘を書いた犯人のことを知りたがったのは透だったからだ。透は『ゆきおんな』に関係があるとは信じていなかったが・・。真杉は最初は相合い傘のことより、雪女の伝説そのものに興味があったはずだ。確か・・。

 「青鷺町の雪女伝説が、よその雪女の伝説と違うことに興味があるんだっけ」

 「そう」

と真杉は目を輝かせた。

「雪女って、妖怪の一種と思われてるよね。人間が、そういう、動物とか妖怪とか、人間じゃないものと結婚する話を、いるいこんいんたんって言うんだって」

 「なんだって?」

 真杉はぱっと立つと黒板の前まで行った。小さなチョークで

 異類 婚いん たん 

 とわけて書いた。

 「ごめん、漢字わかんないや。でも婚いんって言葉は知ってるでしょ。結婚のことね。異類っていうのは違う種類のこと。たんっていうのはたぶん物語っていう意味かなあ」

 「違う種類と結婚する物語ってことか」

 「うん。たくさんあるの。前に読んでもらったつる女房とかへび女房とかの他にもたくさん。それでさ」

 透は自分でも気づかないうちに口を開いていた。

 「真杉が調べるの、手伝ってやろうか」

 「え?」

 「真杉が論文書くの、手伝う」

 「別に論文まで書く気は・・ないけど」

 真杉は透と目を合わせた。まるで心を覗くように、無遠慮に見つめてくる。透はなんとかその視線に耐えた。透の目に何を見たのか、

 「じゃあ手伝って」

 とあっさり言った。

 「おうよ」

 透も軽く言った。なんだか楽しみになってきた。


Ⅱ.ゆきおんなを追う


 優太の言葉の意味がわかったのはそれから二、三日後だろうか。透のまわりには変な雰囲気が出来ていた。後ろの席の啓二に話しかけると、たいてい聞こえないふりをされる。場合によっては、渋々といった感じで、一拍遅れて対応される。それも最低限の返事しかせず、向こうから話しかけて来ることはない。昼休みや放課後にも遊びに誘われなくなった。他の友達も同じだ。話しかけて微妙な顔をされるのが嫌で、透は話しかけるのをやめた。

 ショックな気持ちと同時に、(なるほどね・・)という冷めた気持ちがあった。透が真杉に話しかけていることで、無視の対象が透にまで広がったのは明らかだった。

 『ゆきおんな』を最後まで読んだ二人がこうしてピンチになっていると思うと、思わず呪いを信じそうになるが、馬鹿馬鹿しい、不幸になってたまるか、とも思う。

 ただ、優太は例外だった。優太は前と変わらず、塾ではもちろんクラスの中でも話しかけてくれた。体育の柔軟体操など二人一組でやるときにはそっと透のそばに来てくれた。このことに透はものすごく救われた。幸い、無視の対象は優太にまでは広がらないようだった。

 おれが何をしたって言うんだよ?そもそも、真杉が何をしたって言うんだよ!

 と透は心の中で叫んだ。透は身についた処世術で、この青鷺町のことを「イナカ」だと言ってはならないことを、誰に言われなくとも知っていた。コンビニが一軒しかなくても(しかも聞いたことのない名前のコンビニ)、ショッピングモールやハンバーガーのチェーン店がなくても、夜は町があっという間に真っ暗になって人も車もいなくてその代わり時にはタヌキが出たって、「イナカだねえ」と口にしてはいけない。住んでいる人が嫌な気持ちになるからだ。

 だけど、今はこの言葉が胸の中で渦巻いていた。

 このいなかもの!

 透は昼休みを図書室で過ごすようになった。図書室には低学年の子はよくいるが、六年生はほとんど来ないので気楽だった。真杉と二人で例の「異類婚姻譚(いるいこんいんたん)」がテーマの本を探しては読んだ。おもに絵本だったが、前に真杉が読んでいたような、昔話や民話を集めた分厚い本も何冊かあった。

 「ハッピーエンドの話がもし見つかればさ、青鷺町の伝説と何か関係があるかもしれないよね」

 と真杉は言ったが、人間が動物や妖怪と結婚して「末永く幸せに暮らしました」という物語は見つからない。

 「ないねえ。なんでだと思う?」

 真杉に問われて、透は考えながら言った。

 「動物とか妖怪と結婚するなんてさ・・なんていうか、タブーだよね。人間としてそれはダメって感じ。だから、幸せな結末にはしづらいんじゃない」

 真杉は椅子の後ろの二本の脚で支えて体をブラブラさせている。

 「まあねえ。じゃあどうして青鷺町ではタブーじゃなかったんだろ」

真杉は机に散らばった本をぱらぱら捲っていたが、そうだそうだ、と思い出したように、学級文庫の『ゆきおんな』を取り出した。

 「見て、これ。すぐ近くなの」

 真杉は本の最後のところを開いた。確か「奥付」という、本が出版された日付や出版社の名前が書かれているところを指さしている。その最後のページには、奥付の上に、7、8センチ四方くらいのオレンジ色の小さな封筒が貼ってあった。   

 「そういえば、これってなんなの」

 透は前から疑問に思っていたことを聞いた。この本に限らず、学校の古い本にはたまにこの封筒が最後のところに貼り付けてあるのだ。

 「え、これ?昔は、図書室の本にバーコードのシールを貼る代わりに、一冊ずつにカード入れを貼り付けてカードを入れてたんだって。そのシステムの名残り。もうカードはないけど、封筒は簡単に剥がせないからそのままなんじゃないの」

 真杉は気持ちは別のところにあるようだったが、早口で説明してくれた。

 「へえ。さすが図書委員」

 「そんなことよりここ見て」

真杉の指の先を見ると、

 著者 藤井和久

 発行者 藤井和久

 発行所 藤井出版

 とあって、その住所も書かれている。青鷺町の町内だった。透もたまに通ることのあるあたりだ。

 「あのへんに出版社なんてあった?」

 「きっと小さくて目立たないんだよ」

 真杉がわくわくした顔をしている。イヤな予感がした。もしかして、行くつもりなのだろうか。

 「帰りに行ってみようよ!」

 いったい出版社を訪ねてどうするつもりなのかと思いながら、透はあきらめて頷いた。

 

 「わたしさ、実は仮説があって」

 放課後、透と真杉はこそこそ辺りを窺いながら、自宅と違う方向に歩いていった。本当は寄り道は駄目だが、一度家に帰ると遅くなってしまう。さいわい近くに六年生らしき姿は見当たらなかった。

 「仮説って」

 「雪女って実在したんじゃないかなって」

 やっぱり真杉はぶっ飛んでいる。

 「はあ?それは無理があるんじゃないの。雪女は、昔の人が今よりもっと雪を恐れていたから生まれた妖怪だろ。雪や寒さの恐ろしさが擬人化されたっていうか」

 昔話について熱く語る自分。これじゃ真杉じゃないか。透はふと我に返って口を閉じた。

 「あ、ごめん、わたしも基本的にはそう思う。でも、ここの、青鷺町の雪女だけ、本当にいたんじゃないかな?それがよそから伝わった雪女の伝説と混じって残ってるんじゃないかなって思ってるの」

 ここの雪女だけ実在した?

 「だから、ハッピーエンドだって思ってるの?」

 「うん。普通の伝説と違って史実だったら、異類婚姻譚の〈お約束〉の結末にならないのも当たり前でしょ」

 電柱に書かれている番地を確かめながら、真杉はそう思った理由を説明した。青鷺町の『ゆきおんな』に出て来る雪女は名前が「おけい」とあること。

 「ここは普通〈お雪〉じゃない?小泉八雲の『雪女』はそうだし、他のいくつかの昔話でもそうだったよね。まあ名無しのことも多いけど」

 二人は色々なバージョンの雪女の話を読んでいた。

透ははじめ、若者のもとに雪女が妻としてやってくる話しか知らなかったが、老夫婦が突然現れた女の子を娘のように可愛がるという話もある。その場合は、お風呂に入るように勧めたり春になって暖かくなったことで女の子が溶けてしまうという結末が多い。名前も『雪むすめ』だったり、つららを意味する方言が使われていることもある。

様々な雪女の話の中でも、小泉八雲の『雪女』は真杉に言わせると一番有名な雪女らしい。小泉八雲とは日本人みたいな名前だがもとは外国人で、明治時代に日本に来て日本の研究をした人だと前に教えてくれた。彼が人に聞いて集めた物語がたくさん入っている『怪談』という本の中に『雪女』もある。

確かに、小泉八雲の『雪女』の妻の名前は〈お雪〉だった。若者が恐ろしい雪女と出会い、生き残り、しばらくして道で綺麗な娘と出会う。娘はお雪と名乗る。透はそれを読んだとき、「ネタバレじゃん」と思ったのを覚えている。

「お雪って名前、読者にもう正体教えてるよね・・」

と透が言うと、真杉はうんうんと首を激しくたてに振った。

「フラグ立った!って感じ?」

フラグが立つというのは透もうまく説明できないが、とある未来への予兆を感じさせるというニュアンスだろうか。真杉は続けて言った。

「物語の聞き手や読み手は、その名前を聞いて、あっ、これはもしかして?ってワクワクする。そういう効果があるわけだよね」

「うん、まあそうかな・・」

「だけど青鷺町の『ゆきおんな』にはそういう仕掛けがない。〈おけい〉なのは、本当にそういう名前で伝わってるから。作りものじゃないからって考えられない?」

透は真杉の言ったことを考えてみた。作りものじゃないから、〈お雪〉という名前ではない。一理あるような、考えすぎのような。

「あとは、ただ〈むかしむかし〉じゃなくて〈二百年も三百年も昔〉ってある程度時代が限定されてることも気になるかな」

「限定・・かなり幅広いけどな」

「あとね、雪女が『誰にも言うな』って言ったのに、そのあとこれを破るようなことが起こらないでしょ。なになにするなっていう禁止は、破るためにあるようなもんなのに」

そういえば、『へび女房』でも『鶴女房』でも「見るな」の禁止は破られていたっけ。

「銀が、誰にも言うなって約束を破らなかったから、ハッピーエンドになれたのかなあ」

と透が呟くと、真杉は虚を突かれたような顔をした。

「・・そうかもね」

このあたりだと思うんだけどなあ、と真杉はあたりを見回した。

「それって三十年前くらいの本なんだからさ。出版社ももうなくなってるんじゃないの?」

 透は両手をポケットに入れていた。今日は手袋を忘れたので指の先が冷たい、というか痛い。引っ越してくる前の場所では手袋は女子のおしゃれアイテムというイメージだったが、ここでは必需品だ。

透としては出版社なんて見つからなくていいよ・・という気持ちだった。だいたい何を聞くのか。出版社の人だって三十年も前の本について聞かれても困るのではないか。

 「あっ、この家、藤井さんだ!ほら、藤井出版の藤井和久さんじゃない?」

 真杉は表札を指さした。藤井とあるが、どう見ても普通の家だ。

 「えー。別の藤井さんじゃないの」

 この地方には同じ苗字の人がわんさかいたりするのだ。もう帰ろうよ、と言いかけたが、真杉はきっぱりと言った。

 「違うかもしれないけど、聞いてみよ!」

 反対する間もなく真杉はチャイムを鳴らしている。

 誰も出ませんように、との祈りもむなしく、「はーい」という女性の声がインターフォンから聞こえた。


 「まーあ、青鷺小学校の子ォ。よく来たね」

 六十代くらいだろうか、元気そうなおばさんはニコニコして二人を家へ上げてくれた。そうか、小学生のメリットもあるんだ、と透は考えていた。これが中年男性だったらそう簡単に家に上げてくれるとは思えない。二人は居間に通された。明るくて片付いた居間で、二人はソファに座った。

 「ごめんねぇ、もう印刷の方は廃業したの」

 この家であっていたようだ。もともとここは「藤井印刷」であって、出版はおばさんのお父さんが趣味でやっていたらしい。

 「青鷺町の歴史とか昔話とか、そういうのが好きでねぇ。儲からないような本を趣味で出しては、知り合いに配ったり小学校とか公民館に寄付してたんだわ」

 「その、お父上は・・」

 お父上だって。

 「亡くなったの。もう八年くらい前」

 「そうでしたか・・」

 真杉は目を伏せる。真杉はその気を出せばちゃんとその場にふさわしい振る舞いができるらしい。透の方が、知らないおばさん相手にどう振る舞っていいかわからなかった。もう会話は真杉に任せて透は出してもらったお茶を飲んだ。熱くて美味しい。

 「わたしたち、この『ゆきおんな』の本にすごく興味があって、お話を聞けたらと思って、来たんです」

 「まーあ」

 おばさんは『ゆきおんな』を見て懐かしそうな顔をした。

 「嬉しいねえ。こんな可愛い子ぉらが来てそんなこと言ってくれるなんて、お父ちゃんに聞かせたかったねえ。これは・・もう三十年前か」

 と奥付を見ながら、思い出すように言った。

 「わたしは三十代、お父ちゃんは五十代の頃だね。お父ちゃん、雪女の伝説に興味を持って、いろんな人に話さ聞きに出かけてたのは覚えてるわ。確か、書きとめておかないと、よその雪女の伝説とごっちゃになってしまう、青鷺町には独自の雪女の伝説があるんだから大事にせねばって言ってたなあ」

 「そうですよね!わたしもそう思います。独特で面白いなあって。お父上は、どんな人に話を聞いてたんですか」

 「おもに年寄りだねえ。当時ももう雪女の伝説なんて若い人は知らなくてね。雪女といえば、よくある悲しい終わり方の、あれしか知らない人が多かったんでねか。知ってたのは当時七十代とか八十代の年寄りだったと思うよ」

 「当時七十代とか八十代・・」

 あ、そうだ、と言っておばさんは部屋を出ていった。透が囁く。

 「そんなこと聞いてどうするつもり」

 「本に書かれてる以上のこと、何か知りたくて。藤井さん、生きてたら色々教えてくれただろうにね」

 「生きてたら真杉と気が合っただろうな」

 透は本気で思った。郷土の昔話に興味がある老人と小学生。なんだか地元の新聞にでも載りそうなコンビではないか。

 しばらくしておばさんは帰ってきた。

 「ごめんごめん。お父ちゃんのノートがないかと思って探したんだけど、見つからないさあ」

 「ノートですか?」

 「うん、取材した内容とか書いたノートがあるはずなんだけど。どこさしまったか・・捨ててはいないと思うんだけど。もし見つかったら読みたい?」

 「読みたいです!」

 間髪入れず真杉は答えた。

 二人はお礼を言って藤井家を出た。もう辺りは薄暗くなっていた。

 真杉の社交性に圧倒されて、透が黙りがちに歩いていると、真杉は妙なことを言い出した。

 「ね、青鷺町のおじいちゃんおばあちゃんに、知り合い、いない?」

 「え?いや、いるわけないじゃん。おれ転校してきたんだよ?」

やはり雪女の伝説についてもっと話を聞きたいらしい。真杉はかつてお年寄りに取材した藤井和久氏と同じことをしたいのだ。

 「だいたい、三十年前の七十代って、今なら百歳だからね?」

 「わかってる」

 「いったいどこにそんな長老がいるのか・・いたとして、話なんて聞けるのかな。真杉は知り合いいないの?」

 「うーん、隣のおばあちゃんとかはもっと若いんだよね。たぶん六十代とかだと思う」

 少し考えてみる、と真杉は言った。二人とも転校生だから、地元とのつながりが少ない。だけど真杉のことだから何か突拍子もないことを言い出しそうでハラハラする。

 二人は、というかおもに真杉は『ゆきおんな』の話をした。よそに伝わる雪女伝説との比較だ。

「そうだ、また小泉八雲の『雪女』の話だけど」

 真杉は思い出したように言った。 

 「どうして老人は殺されたのに若者が助かったか、覚えてる?」

 「えっと・・確か、お前は若いし、可愛いから助けてやる、って言ったんだっけ」

 「そう。イケメンだったってことだよね」

 なんだかその表現は違和感があるがまあそういうことか。

 「地獄の沙汰も顔しだい」

 と真杉が含み笑いをして言ったので、透は鼻を鳴らした。

 「なんだよ。おれだったら殺されてるとでも言いたいわけ」

 「あっ、違うよ。昔話で、男がさあ、顔がどうこう言われるって珍しくない?逆に、昔話では、雪女に限らずよ、女は必ず見た目のこと書いてあるの。女が出て来ると、たいていきれいとか美しいって言葉とセットだもん。たまに醜い時もあるけど。山姥とか。どっちにしても、女は必ず容姿をうんぬんされるわけ。頭にくるよねー。でね」

 山姥って老婆の妖怪だっけ。早口で話されて透の頭が追い付かないでいると、ここからが本題なのだというように真杉はいったん区切った。

 「青鷺町の『ゆきおんな』は、よくわからないの。きれいなのか、醜いのか。雪女の描写としては、〈氷のような目〉と〈わらのような髪〉と〈白い肌〉しかないよね。これってどうなのかな」

 「・・おれは、恐ろしい様子として読んだけど。冷たい目つきと、ボサボサの髪ってことでしょ。山姥みたいな感じかな」

 たとえば〈絹のような髪〉という表現なら細くてつやつやした美しい髪だろうなと見当が付くが、〈わらのような髪〉なんて聞いたことがない。でも透にはボサボサの髪としか思えなかった。

 「そうかな。そのあと〈おけい〉として出て来るときは〈若い女〉ってだけで容貌の描写がないよね」

 「だけど、『銀ははじめその姿を恐れた』ってあったよね。これってやっぱり山姥みたいだったんじゃない」

 真杉はうーんと考え込んだ。ちらと横を見ると真杉はゆっくりまばたきしている。長い睫毛が上下するのを見て、透は慌てて前を向いた。


 日曜の夜、翌日の時間割を揃えていた透はランドセルからあるものを発見してあっと声を上げた。卒業文集に載せるというアンケートの答え、明日までだ。すっかり忘れていた。透は急いでプリントに目を通した。

 「・・まじか」

 思わず呟く。透はとりあえず書けそうな項目から書き込んだ。

1. 好きな給食→ハムとチーズのはさみ揚げ

2. 好きな科目→国語

 ここまではいい。「3.小学校生活一番の思い出」に透はうーんと唸ったが、「青鷺小学校」という条件が付いていないことに気づいて、「修学旅行」と書いた。修学旅行に行ったのは五月、まだ転校してくる前のことだが、まあ大丈夫だろう。

 前の学校での修学旅行を思い出した。夜、布団に寝転がって男子六人でトランプをしたはいいが、途中で消灯となり、それでも暗闇でトランプをし続けたのは楽しかった。よく見えないのをいいことに、自分のカードを実際よりいいものとして申告する人が相次ぎ、みんなゲラゲラ笑いだしてついに先生に怒られたのだった。

 前の学校が恋しくなって透ははあっとため息をついた。

 「4.中学校で頑張りたいこと、かあ」

 透はのろのろと「部活と勉強」と書いた。つまんない答えだがまあいいか。問題は最後の「5.クラスのみんなに一言」だ。

 これはキツイ。今の状況で、なんて書けばいいんだ。「無視すんな」か。書けるわけがない。「中学校に行ってもよろしく!」か。これまた書けるわけがない。

 透は悩んだが書くのをやめた。だが、空欄にしておくと「忘れてるぞ」と先生に言われそうな気がして、迷ったが、ただ「なし」と書いた。文集を読んだ両親ががっかりしそうな気もしたが、親のために書くわけじゃない。

 しかし次の日透は昼休みに先生に呼ばれた。もしかして、と思いながら職員室に入ると、やはり薮下先生は透の記入したプリントを机の上に出していた。

 「おう、悪いな」

 先生は透を回転する椅子に座るように指さした。職員室は暖かい。学校中で一番暖かいのはここじゃないのか。ずるいな。透が所在なく椅子ごとクルクル回っていると、

 「ここどうした。なんか書かないのか」

 と言ってきた。太い指で「なし」のところを指している。

 「・・思いつかなくて」

 「そうか。まあそんなに深く考えなくてもいいぞ」

 先生はそうだなあと宙を見ながら、

 「たとえば、中学校に行ってもよろしく、とか」

 透が昨夜ちらっと考えた文面と同じだったので、思わず笑いが漏れた。先生、もうちょっとオリジナリティよろしく。

 「なしじゃ駄目ですか」

 「なんでもいいんだぞ」

 先生はどうしても書かせたいようだ。透は内心ため息をついた。じゃあこの欄を使って告発してやろうか。

 「なんでもいいって言うけど、なんでも載せられるんですか。検閲はないんですか」

 検閲ときたか、と先生は苦笑した。検閲というのは、文章などの内容がふさわしいか権力側がチェックすることだ。

 「もちろん書いたものはそのまま載せてやりたいよ。ただ、人を傷つけるような内容だったりすると、変えてもらうことになるよなあ」

 まあ当たり前だ。透は頷きながらふと思いついたことを言った。

 「先生が言ったような無難な内容のものを書くと、自分が傷つくんです」

 先生はえっと言って、透の顔を覗きこんだ。

 「・・何か困ってることがあるのか」

 「・・別に」

 「そういえば、最近啓二たちと一緒にいないな」

 と先生は思い出すように腕組みをしている。

 困っている人―今の場合、真杉と透―がいるなら先生に言うのが一番いいのかもしれない。薮下先生は悪い先生じゃないし。しかし、透は先生がみんなの前で

 「おまえら、クラスメートを無視するなんて最低だぞ」

 と説教をして、その結果としてみんなが渋々会話してくれるなんてごめんだった。

 「優太と遊んだり。あと真杉とか」

 透は急いで先生の疑惑を打ち消しにかかった。先生はどう思ったのかわからないが、そうか、と頷いた。

 「まあ無理にとは言わない。でも何か書くこと思いついたら言いに来てくれ。透だけ、もうちょっと待つから」

 「・・はい」

 透はペコリと礼をして職員室を出た。透だけ待つ、という言葉のせいで、うっとうしさを九割、だが残りの一割、ホッとする何かを感じていた。


 放課後、透はまた図書室に行った。借りていた本を返そうと思って行ったのだが、真杉がいて司書の先生の手伝いをしていた。そういえば、図書委員だったっけ。

 「真杉さ、文集の紙どうした?」

 透は本を返却したあと、本用のワゴンを押して歩く真杉に聞いた。え?と言いながら、返ってきた本をワゴンから本棚に戻す仕事に気を取られているようで真杉は上の空だ。めちゃくちゃな真杉でも図書委員の仕事は真面目にやっているらしい。

 「え?紙?あ、今日までだっけ。出してない」

 真杉は慌てもせず言ったので透は呆れた。

 「でももう書いたし、ランドセルにあるよたぶん」

 真杉はワゴンを止めてカウンターの奥に入っていった。プリントを持って戻ってくる。

 「良かった。帰るとき出すよ」

 「出す前に見せてくれない」

 真杉の許可を得て、透はプリントを借りた。真杉は仕事に戻っていったので、透は椅子に座って一人でプリントを広げた。


1. 好きな給食→豆乳シチュー

「豆乳シチューって微妙な味のやつじゃん」と思わず透は呟いた。近くの席の二年生くらいの女の子がこちらをちらっと見たので、透は首を縮めて黙って続きを読んだ。


2. 好きな科目→国語、音楽

3. 小学校生活一番の思い出→転校したこと

4. 中学校で頑張りたいこと→英語で『シャーロック・ホームズの冒険』を読む

5. クラスのみんなに一言→人生万事塞翁が馬


おいおい・・。透はどこから突っ込んでいいのかわからなかった。小学校生活一番の思い出が転校したこと?まあこれは透には実感としてわかる。日常のあれこれはもちろん、運動会や修学旅行などのイベントも吹っ飛ぶくらい「転校」は大イベントだからだ。でも、ここで求められている答えではないような・・。さすが空気を読まない真杉だ。中学では英語の本を読みたいのか。英語が得意そうなのは、そういう理由なのだろうか。まあこれは勝手にしてくれ。

人生万事塞翁が馬・・これって確かことわざだ。漢字は読めたし聞いたことはあるが、意味はわからない。なぜみんなへの一言がことわざなのか。

ワゴンを片づけた真杉がやってきたので、

「これどういうこと?好きなことわざと勘違いしてない?」

と聞いてみた。

「あーそれね。なんでもいいんだよ」

 真杉は帰り支度をしている。透もなんとなく一緒に図書室を出た。

 「人生万事塞翁が馬ってどういう意味だっけ」

 「まあ簡単に言うと、不幸だと思っても幸福につながったり、幸福だと思っても不幸になるきっかけだったり。人生わかりませんよって感じかなあ」

 「それがみんなへのメッセージか・・」

 自由な真杉がうらやましいような気がした。

 真杉は途中で職員室に寄り、プリントを提出してきた。透が玄関で靴を履き替えていると、

 「先生いなかったから机の上に置いてきたよ」

 と真杉がやってきた。薮下先生がいたら何か言っただろうか。

 歩きながら、真杉は話の続きのように自然に言った。

 「まあ、具体的にはさ」

 「え?なんのこと」

 「だから、塞翁が馬。具体的には、皆に無視されるような目に遭ったけど、それがきっかけで野瀬くんと話すようになって、けっこう楽しい。人生そういうこともありますよって感じ」

 透はなんと言っていいかわからず黙った。真杉にはまるで照れた様子がないので、透も意地でポーカーフェイスになった。すると、

 「ありがとね」

 と真杉はニコッとして透を見た。透が真杉に話しかけたことを言っているのだろうか。透は

 「別に」

 としか言えない。

 透だって真杉と話すのは楽しいけれど、だからって「人生万事塞翁が馬」とは思えない。そんなふうに簡単にクラスの人の仕打ちを許せない。おれは真杉みたいに強くないんだ・・と透は思った。そして、ふと気になっていたことを聞くことにした。

「クラスのさ・・その今真杉が言った状況っていうか、つまり、わかる?」

 「無視されてる状況?」

 真杉があっさり言ったので、透はう、うんと頷いた。このことについて今まで二人で話したことはなかった。真杉がどう思っているかわからず、なんとなく話題にしづらかったのだ。

 「やっぱり誰か首謀者がいるんだよね?」

 みんなが一斉に無視を始めるなんておかしい。理由らしい理由もないのに。このことを優太に聞いてみようと思ったこともあるが、優太の困った顔を想像すると聞けなかった。

 「おれさ、考えたんだ。みんなにそんな命令が出来るのは誰かって。リーダーっぽいやつなら、陽介じゃないかな」

 陽介と真杉の間にはあまり接点がなさそうだが、陽介はスポーツなどで、相手をとことん追い込むところがあった。むきになって相手に罵声を浴びせる姿も見たことがある。何かのきっかけで真杉が陽介の怒りに触れたのかもしれない。ほら、真杉って知らない間に人を怒らせるのが得意そうだし。

 「それか、マコトとか。マコトって優等生なんだけど、成績維持するのに必死っぽいだろ。真杉は国語だけは得意らしいから、どんな科目でも負けたくないマコトが、嫌がらせのためにやってるとか」

 自分でも、この仮説はないか、と思った。それにしても、こんな話は学校ではとても出来ない。学校から遠ざかっていく中でこんなうわさ話とも悪口ともつかない話をすることに解放感を覚えた。真杉は面白そうにふんふんと聞いている。

 「うーん、違うと思うよ」

 「真杉は何か考えあるの」

 真杉は立ち止まり、ギュッギュッと雪を踏みしめて何か考えていた。ゆっくりまばたきをしていたが、

 「憶測でものを言うのはちょっとなあ」

とためらったので透は唖然とした。

 「ちょっと。じゃあ今憶測でものを言ったおれがひでえ奴みたいじゃん」

 真杉は笑い出した。真杉は口を大きく開けて本当に楽しそうに笑う。こんな話題なのに、なんでこんな顔ができるんだろう。透は思わずその笑顔に見とれた。

 「あーごめんごめん。じゃあヒントだけ。その二人はね、リーダーシップはそこそこあるかもしれないけど、そこまで影響力はないよ」

 え?と思わず透は真杉を見た。もうはっきり首謀者がわかっているかのような口ぶりだ。

 「影響力?」

 「うん」

 みんながその人の言うことを聞く。その人の言うことに、つい頷いて、従って、真似してしまう。そんな人が一人だけ頭に浮かんだ。色白で背の高い、なんでもできる女の子。みんなにメロと呼ばれる穂積だ。

 「・・だけど、どうして」

 「さあ・・。動機不明、証拠なし。だからまだそうと決めないでね。違うかもしれないし」

 透が思い当たったことに気づいたらしい真杉は、慰めるように言った。

 「野瀬くんも憧れてたら、ショック受けるかなって思って言いにくかったの。でも、彼女ほど影響力ある人はうちのクラスにいないから」

 はっきり名前は出さないが、間違いない。真杉は穂積と思っているらしい。

 「別に憧れてねえから」

 と否定しながら、本当に穂積だったら少しショックかも、と思った。


 卒業が近づいてくる。

 音楽の時間に先生が卒業式について話したので、透は卒業をまた意識した。

 「最後に六年生で歌を歌います。今配った『今日の日はさようなら』を練習していきましょう。これは全部六年生でやってもらいたいの。伴奏と、指揮と、あとソロパートを歌ってくれる人を決めたいです」

 教室がざわめいた。

 ソロって一人で歌うことだ。そんなのやりたい人いるのかな。透は教室を見回した。

 「誰か、やってみる人いませんか?」

 みんなまわりを見ている。そんな中、はいっという声とともに手が上がった。

 「伴奏、します」

 穂積だった。みんながおおーっと言った。透の隣の女子が後ろの子に(メロしかいないよね)と囁いているのが聞こえた。どうやら穂積はピアノも弾けるらしい。

 先生は満足そうに頷いた。先生という人種は自発的に何かをする生徒が大好きなのだ。拍手が沸き起こった。

 「は、はい!」

 手を挙げたのはマコトだ。マコトは勉強は得意だがちょっと恥ずかしがり屋のイメージがあったので、透は少し意外に思った。

 「指揮をしたいです」

 他にやりたい人もいなかったので、指揮者はマコトに決まった。

 しかしソロを歌いたい人はいないようだった。(お前やれば)(いや、お前だろ)(一人で歌うなんて無理)(だよね)囁き声があちこちから聞こえてくる。透は配られた『今日の日はさようなら』の楽譜を眺めた。短い歌だ。

「いつまでも絶えることなく 友達でいよう」から始まる。

 別れの歌のようだ。別れといってもみんな同じ中学校に行くのに。まあ小学校とはお別れだけど。透は、自分には無縁の歌のような気がした。この学校には半年しかいない。卒業といってもみんなとは感慨が違う。

 大きい声が聞こえて透が横を向くと、陽介が近くの席の男子の頭をふざけて叩いていた。「やめろやめろ」「おれ無理だって」などと話している。しかし陽介はまんざらでもない顔をしている。陽介がソロを歌うのだろうか。

 先生はその小さな騒ぎに気づかず、困ったように何かの紙を机から取って、見ている。

 「えー、ソロパートを歌ってくれる人はいませんか」

 透は陽介の様子を窺った。あと十秒待ったら、陽介がやると言ったかもしれない。が、先生はその紙を見ながら言った。

 「じゃあ、真杉さん、やってくれませんか」

 大きなざわめきが起こった。透は驚いて目を上げた。そうか、きっとあの紙には前にやった歌のテストの評価が書かれてるんだ。真杉の歌がうまかったことを思い出す。

 斜め前の方向にいる真杉の顔がよく見える。驚いただろうが、特に表情に出さず先生の方を見ている。まったく話を聞いていなかったのかと思えるくらい反応がない。先生が繰り返すと、楽譜に目を落とした。

 「どこですか」

 「え?えーと、ソロで歌うところね。二番の歌詞にしようかと思ってます」

 真杉は二番の歌詞を読んでいるのだろうか、少ししてから、

 「やります」

 と言った。透が陽介の様子をちらっと見ると、唇を突き出している。やりたかったのだろうか。穂積とマコトのときには拍手があったのに、今回は拍手は起きなかった。透はぼんやりと二番の歌詞を見つめた。


 空を飛ぶ鳥のように 自由に生きる 今日の日は さようなら またあう日まで


 とあった。

 

 次の朝、透は先生の机の鉛筆削り器を借りて、鉛筆を削っていた。もうすぐ朝の会が始まる。黒板のあたりで笑い声が弾けた。気にせずハンドルをゴリゴリ回していたが、陽介の「できた!」という声で顔を黒板に向けた。

 チョークでおかしな顔が描かれていた。顔の中になんとか目、鼻、口が収まっているといった福笑いの失敗作のような顔。髪は短いから男だろうか。しかしその顔から出ている漫画の台詞のような吹き出しを読んで、透は頭に血が上った。

 「空を飛ぶ鳥のように 自由に生きる♪」

 と書いてあった。真杉が歌うソロパートの歌詞だ。この絵は真杉なんだ。

  教室に妙な空気が流れた気がした。声を上げて笑う男子が数人いたが、あとは陽介の視線に応えるように仕方なさそうに苦笑したり、気まずそうに顔を逸らしたり。陽介は絵をそのままに、意気揚々と自分の机に戻っていった。

陽介は気づいてない。でも、みんな、やりすぎだと思ってるんだ。そう、やりすぎだ。透はまだ真杉が来ていないことに安堵した。真杉はいつもギリギリだ。というか遅刻することも多い。真杉が先か、先生が先か。先生が先に来て陽介が叱られるといい、と思ったが、一瞬後には、いや、担任のヤブには何のことかわからないだろうと思う。音楽の先生じゃないんだから、この絵を真杉と結び付けることはヤブには出来ない。悪口が書いてあるわけでもないから、先生が厳しく叱るとは思えない。

 透は考えすぎて頭が熱くなった。考えることはない。この絵は放っておけば真杉の目に触れる。そうしたくないなら、消すしかない。透は削った鉛筆を片手に握って黒板の方に歩いていこうとした。

 が、その時丸っこい人影が意外な敏捷さで黒板のもとに出てきた。

 優太だ。

 優太は上から下まで几帳面に黒板消しを何度か動かして、綺麗に絵を消した。教室はしいんとした。優太は席に戻ろうとして透に気づくと、はにかんだように頷いた。


  数日後の二月十四日、バレンタインデーは塾のある日だった。塾の授業が終わったあと、先生が男子にも女子にもチョコレートを配ったので皆から歓声が上がった。どうやら毎年恒例らしい。

 「毎年、もらうのが義理チョコ一個っていうのはいいんだ。でもくれるのがオジサンっていうのがすごい破壊力だよね」

 帰り道、優太が板チョコを割って口に入れながら罰当たりなことを言った。透も笑って真似をした。甘くておいしい。

 「透はお姉ちゃんいるから、もらったりするの?」

 「あー、まあもらったと言えば、もらった。昨日」

 いいなあと優太が言ったので、透は昨夜のことを思い出しながら言った。

 「たぶん優太が想像してるのとは全然違う。姉ちゃんは友達に配るから大量にお菓子作るの。クッキーとかガトーショコラ。失敗したら困るから余分に作って、一番形が悪いのがおれのところにくるだけ」

 「そうか・・。それがバレンタインの現実か」

 「うん」

 と言ってから透は思い出し笑いをした。

 「しかもおれもらう権利あるからね。手伝いしたもん」

 「すげー」

 優太はのけぞった。

 透は口を開いた。今なら言える気がして。

 「優太さ、この前すごかったね。黒板の、落書き」

 ああ、と優太は照れ隠しのように板チョコを大きく噛み割った。

 「今度は、消せた」

 と言って小さく笑う。透は少し考えて、前の相合い傘の落書きのことを言っているのだとわかった。あの落書きを消せなかったことを気にしていたのだ。やっぱり優太はいい奴だと思った。

 出来損ないのガトーショコラに続いて、先生からの板チョコ。ぱっとしないが、透はここ数日、文集や落書きの件で硬くなっていた心が少し溶けた気がした。甘いものってすごい。

 塾に行っている間に真杉は姉のスマホにメールを送ってきていた。昨夜お菓子作りのアシスタントをしたせいで、姉はもったいぶることなくさっとスマホを貸してくれた。

画像が添付されている。本文には

 うちに来た回覧板!

 とだけ書かれている。透は画像に目を凝らした。

 「デイサービスセンターあおさぎで、お年寄りと保育園児が交流します。〈冬のお楽しみ会〉のボランティア募集!」

 これに行ってお年寄りを捕まえようってことか。

 透は呆れながら「OK」とだけ返信した。今まで学校と塾しか行く場所がなかったのが、真杉と一緒だといろんなところに引っ張り出される。


 その週の日曜日の午後、透と真杉はバス停で待ち合わせをした。

あれから母に聞いたところ、デイサービスセンターとは、お年寄りが入浴したり食事をしたり、機能訓練をしたりして日中を過ごす施設らしい。透がそこへボランティアに行くと聞いて、母はかなり驚いていたが、今日は快く送り出してくれた。息子が良い子になったと勘違いしているのは明らかだったが、説明も面倒だったのでそのままにしておいた。

 「おまたせー」

 真杉が現れた。黒い短めのコートを着て、赤いマフラーをぐるぐるに巻き付けて顔の下半分が埋もれている。赤いマフラーのせいか、なんだか今日はちゃんと女の子みたいに見えた。

 「ああ・・」

 昼に会うと、挨拶に困るということを透は知った。朝なら「おはよー」と言えるけど、昼だとなんと言えばいいのかわからない。しばらくして来たバスは空いていた。田舎では大人はみんな車に乗るので、バスに乗る人は少ない。

 真杉はさっさと座ったが、透は隣に座るのはなんとなくためらいがあって、真杉の斜め辺りの吊革につかまった。目線が違うと会話をしづらく、透は黙って窓の外を見ていた。真杉も珍しく静かに座っていた。

 真杉は学校では相変わらず誰とも話していない。朝は、朝の会が始まるぎりぎりの時間に駆け込んできて、帰りはすぐに教室から消える。昼休みは図書室で過ごすが、他の休み時間は自分の席でひとり本を読んでいた。女子の多くはストーブのところに集まっておしゃべりしている中、真杉はいかにもぽつんとして見えた。

 その点、透の方がましだった。男子のほとんどはぎこちない態度だったが、完全な無視ではなく、どうしても必要があってこちらから話しかけるときは気まずそうに返事をしたし、何より優太が普通に話しかけてくれるからだ。

 「デイサービスセンターあおさぎ」は、バス停から十分くらいのところらしい。バスを降りて二人並んで歩き出すと、真杉は珍しく学校の話をした。

 「この前、わたしが学校に来たとき、なんだか変だった。みんなが黒板見てて、わたしを見て、〈あっ〉って顔になった」

 透はどきっとした。陽介の落書きを優太が消した日のことを言ってるんだ。あの日は確か優太が落書きを消して席についた直後に真杉が教室に入ってきたんだ。真杉は教室の空気がおかしいことに気づいたのか戸惑った顔をしていたことを透は思い出した。

 「なにかあったんでしょ」

 真杉が何も見逃さないという鋭い視線を向けてきた。透は困った。教えたら真杉が傷つくだろうが、クラスの人全員が知っていて自分だけが知らないというのも、嫌なものかもしれない。それに優太がいい奴だってことも知ってほしい。

 透はため息をついて朝の出来事を話した。真杉は話を聞いても黙っていた。

 「たぶん、陽介はソロを歌いたかったんだと思う。」

 透は音楽の時間の陽介と他の男子のやり取りを思い出して言った。そしてふと不安になった。

 「陽介にソロを譲ったりしないよね・・?」

 真杉はクラスの役割に執着するタイプに見えないので心配になったのだが、真杉はふんと鼻で笑った。

 「まさか。そんなことしたら歌が台無しになるじゃん」

 思いがけなく強気な言葉だったので、透は「おおーっ」と感心の声を上げた。でも本当にその通りだ。陽介、声がデカいだけで別にうまくないし。目立ちたがり屋なだけじゃないか。これをずばり本人に言えたらすっきりするだろうなあ、と透は思う。

 「あの歌―ていうか、あの二番の歌詞、好きなんだ」

 真杉はもういつもの真杉の顔になっていた。

 「空を飛ぶ鳥のように、っていうとこがだろ」

 と透は言ってみた。

 「そう。あそこ歌ってるとさ、教室の窓からぱたぱた飛んでいけるような気がするんだよね」

 透にもその気持ちはよくわかった。


「デイサービスセンターあおさぎ」は、新しくて綺麗な施設だった。ボランティアの申し込みは真杉が電話でしてくれていた。透は少し緊張しながら広い玄関でスリッパに履き替えた。真杉はマフラーを外している。

 「あ、今日お手伝いしてくれる方ですか」

 明るく声をかけてくれた人がいた。四十代くらいの女の人で名札には「小沢」とあった。

 「あ、はい。青鷺小学校から来ました」

 「ありがとねー。助かるわ。小学生のボランティアさんなんて、子どもにも利用者さんにもすごく喜ばれると思う」

 小沢さんはにこにこしながら「事務室」とプレートのある部屋のドアを開けて二人を通してくれた。

 そこで、ボランティアはおもに、利用者さん(というのはお年寄りのことらしい)の話し相手になってあげてほしいこと、今日のテーマは保育園児との交流なので、利用者さんと子どもの架け橋になってくれると助かることなどを説明された。

 「小さい子って早口だったり声が高かったりして、なかなかお年寄りには聴きづらいこともあるの。そういうのを大きな声でゆっくり繰り返してくれると嬉しいな」

 真杉は真剣な顔で頷いている。透は、自分に出来るのかな・・と不安になった。普段小さい子と接することは全くない。お年寄りは自分の祖父母しか知らないし一緒に暮らしてもいない。

 「あと、今日は年長さんクラスの子どもたちと利用者さんでステンシルという工作をします。難しそうな人がいたらお手伝いしてくれるかな」

 図工は苦手だ、という気持ちが顔に出たのか、小沢さんは「だいじょうぶ、だいじょうぶ」とほほえんだ。

 やがて「冬のお楽しみ会」が始まった。他にもボランティアの人が四、五人いたが、みんな大人だった。透は保育園児二人とおじいさん一人、おばあさん二人と同じテーブルについた。あとは介護士さんらしい五十代くらいのおばさんだ。真杉は別のテーブルにいる。透は少し心細い気持ちで真杉の方を見た。真杉は落ち着いた様子だ。この状態で、雪女の話をお年寄りにするのだろうか。なんだか想像できない。

 最初にテーブルのメンバーで自己紹介をする。保育園児は、「あおいちゃん」という女の子と、「れんくん」という男の子だった。二人とも工作をするからなのか、水色のエプロンをしていて可愛い。おじいさんは「遠藤さん」、おばあさんは「太田さん」「花山さん」だった。介護士さんは「砂原さん」。透は忘れないように必死で頭の中で繰り返した。透も自己紹介した。

 「青鷺小学校六年の、野瀬透です」

 「のせとーる?」

 あおいちゃんが不思議そうに繰り返した。

 「うん。とおるっていうのが下の名前」

 「とおるくん?」

 「はい」

 と透が返事をしたことになぜか太田さんたちが笑った。

 「のせっていうのはあまり聞いたことない名字だね」

 遠藤さんが眼鏡を押し上げて言った。昔は教師でもしていたような真面目そうな風貌のおじいさんだ。車椅子に乗っている。

 「去年引っ越してきたんです」

 「ほうほう。それは、ようこそ、青鷺町へ」

 太田さんと介護士の砂原さんは、こういうイベントに小学生がボランティアで来たのは初めてだとか、偉いだとか話し、透は弱った。

 次にテーブル対抗のクイズ大会が始まった。テーブルのメンバーで相談して、答えを決めて、紙に書く。

 「もちはもちでも、お友達三人持ち上げられるのは?」

が一問目のクイズだ。

 「あつ、パパじゃない?」

 あおいちゃんがわかった!という顔をしたので、透は思わずほほえんだ。

 「パパ?そうかなあ・・」

 れんくんは首を傾げる。

 「あおいのパパ、あおいとおねえちゃん、もちあげられるよ」

 「れんのパパも、もちあげられる」

 「お父さんたちすごいねー!」

 と砂原さんが感心したように言って、今の会話を耳が遠いらしい花山さんに教えてあげたので、花山さんはにこにこした。

 透は思い切って、隣の遠藤さんに

 「なんだと思います?」

 と話しかけてみた。

 遠藤さんは「もちはもちでも・・」と呟いてしばらく考えると、

 「おおとものやかもち、かな」

 と言ったので透はえっと思った。

 大伴家持。それってすごくすごく昔の人だ。何をした人かはわからない。

 「それか、さいおんじきんもちだ」

 それはさっぱりわからない。太田さんは大笑いした。

 「もう、遠藤さんってインテリなんだから」

 「違うかねえ」

 「違うでしょ」

 「あおいのパパじゃないの?」

 「れんのパパだよ」

 テーブルは収拾がつかなくなってきたので、透は口を開いた。

 「最後に、もち、が付くのが答えです。すごく力のある強いもちです」

 「大伴家持が怪力の持ち主だったかちょっとわからないんだが」

 「もちがつくってなに。パパじゃないの」

 「れんのパパのほうがちからもちだよ」

 太田さんと砂原さんは拍手した。

 「それだよ、たぶん」

 透が重々しく言うと、れんくんは「あーっ」と喜んで、あおいちゃんは悔しそうに「そうかあ」と言った。遠藤さんは、そうかそうかと照れ笑いした。花山さんはにこにこしている。

 ひらがなが書けるというれんくんに、紙に「ちからもち」と書いてもらっていると、真杉の声が聞こえたような気がした。真杉のいるテーブルを見ると、身振り手振りを交えながら一生懸命に話している。それを聞いたお年寄りたちが笑って何か言うと、真杉も笑い出した。

 真杉が笑っている。

 透は自分でも驚くほどにホッとした。教室を一歩出たら、当たり前のことだけど、もう変な空気なんてないんだ。真杉が他の人と笑える場所はちゃんとあるんだ。

 二問目は「もちはもちでも、あの子と仲良くしないで!というもちは?」というクイズで、これは透および大人にはすぐわかったが、保育園児には全くわからなかったので、遠藤さんが教えてあげて、テーブルを代表して達筆で「焼き餅」と書いた。


さらに二問クイズに答え、透たちのテーブルは全問正解できた。そして工作の時間となり、材料が配られた。雪の結晶の形や、雪だるまやミトンのかたちなど、冬にちなむ可愛い模様に切り取られた型紙を、画用紙の上に重ね、くりぬかれた部分に絵具を含ませたスポンジでポンポンと色を乗せる。型紙を外すと、綺麗な絵が出来ているというわけだ。

 型紙をどれにするか、絵の具をどの色にするか、あおいちゃんとれんくんが悩んでいる。遠藤さんたちは二人が選ばなかったものを使うつもりらしく、見守っている。今かも、と思い、透はおそるおそる口を開いた。

 「青鷺町は、その、すごく雪が降るんですね」

 遠藤さんはおう、と元気よく答えた。

 「そりゃあそうさあ。びっくりしたかい、透くん」

 「はい」

 遠回りしても仕方がない、と思い透はずばり尋ねた。

 「青鷺町の雪女の話、知ってますか」

 「雪女?雪女ね、うん、昔話か。吹雪の日に雪女に会って、助けられ、それが後日嫁になる話だね」

 「はい!それを最近読んだんです」

 透は、『ゆきおんな』が他の地域に伝わる雪女の伝説と結末が違っていることに興味があることを話し、当時お年寄りに取材して本にまとめた藤井氏のことを話し、誰か詳しい人がいないかを尋ねた。遠藤さんだけでなく、太田さんと砂原さん、花山さんも面白そうに聞いてくれた。

 「よその雪女と違うなんて知らなかったわ」

 と砂原さん。

 「わたしは聞いたことがあるわ。雪女は氷でそれは見事なお花や鳥を作るの。最後、雪女の家族は山から下りてきて、村人の中で暮らすんでしょう」

 ステンシルの作業をしながら、花山さんはおっとりした口調で言った。遠藤さんと太田さんはそう言われると聞いたことがあるような気がすると言った。

 「花山さんは、そのお話を誰から聞いたんですか?」

 透は出来るだけ大きい声で尋ねた。

 「一緒に暮らしていた祖母から聞いたのかしら。色々なお話を知ってた人だったから。ああそうだ、村に来て、孫もできて、雪女の髪はやがて雪のように白くなりましたって部分があったわね」

 「髪が白くなった?」

 透は隣の遠藤さんのカードと型紙がずれないようにマスキングテープで留めるのを手伝いながら呟いた。それは物語には書かれていなかった。

 「あおいのおばあちゃん、ちょっとかみしろいよ!」

 作業に夢中になっていたあおいちゃんが顔を上げて言った。顔には水色の絵の具が付いている。

 「そうなんだ。・・雪女もおばあちゃんになったってことかあ」

 「雪女は年を取らないイメージがあったけど、ちゃんと年を取ったのね。それじゃあ私たち人間が年を取るのは当たり前だ」

 太田さんが言ったのでみんなが笑った。

 「わたしの祖母が生きていたらもっと詳しく教えてあげられたのにね」

 「確かに昔の年寄りはいろんな話を知ってたっけねえ。透くん、昔の青鷺町は今よりもっと雪深くてね。子どもが雪で遊ぶのは降り始めの頃だけだ。あとはただただうんざりしたものだ。雪のせいで友達の家にだって容易に行けなくなるんだからね。雪かきの仕事は言いつけられるし。冬の間、たいした楽しみもないから、昔話も立派な娯楽だったよ」

 遠藤さんがしみじみした口調で言った。

確かに雪かきは大変だ。透は最初は遊び半分にやって、雪の山を作ってそれをかまくらにするのを楽しんだりしていたが、もう飽きて、お母さんに命令されたときしかやらなくなっていた。なんといっても疲れるのだ。

 色を付ける作業を終えて型紙を外したら、まわりに好きな絵や言葉を添えて、作品が出来上がった。雪の結晶の模様には水色の絵の具を使う人が多い中、あおいちゃんはオレンジ色の雪の結晶にしていた。花のようで綺麗だった。れんくんは外国風に三つ雪だまが重なっている雪だるまだ。隣に犬の絵を描いて「じよん」と下に書いてあるのは、飼っているジョンということだと説明してくれた。透は自分の分も作ったが、皆の作品に比べると平凡でつまらない気がした。

 「二人とも上手に出来たね」

 と透が言うと、二人は「ママに見せる!」とにこにこした。

 「そうだ、昔話のこと知ってそうな人、いるわよ」

 みんなで出来上がったカードを鑑賞してお互いに褒め合っていると、花山さんが透の方に顔を向けた。

 「醍醐(だいご)さんっていうの。ここに入居されてる」

 「だけど醍醐さんはもう相当なお年でしょう」

 太田さんが危ぶむように言った。

 「お年だけど、先週お部屋に伺ったときにはしっかりお話されてたわよ」

 そして、このデイサービスセンターの隣には特別養護老人ホームというのが併設されており、そこには花山さんたちのように通うのではなく、ずっと生活している人たちがいることを教えてくれた。

 「会えるか、スタッフに聞いてあげましょうか」

 透は、はい、と緊張しながら答えた。

 花山さんが、通りかかったスタッフに、帰りに透が醍醐さんに面会できるように頼んでくれた。よく見ると初めに透たちに説明をしてくれた小沢さんという女の人だ。花山さんは上品な話し方ながら、押しが強い。小沢さんは、花山さんの「いい子なのよ」「とっても真面目で」「醍醐さんも喜ぶわよ」という透が赤面するようなお願いの言葉に負け、了承してくれた。

「その醍醐さんっておいくつなんですか」

 透は花山さんにお礼を言ってから尋ねた。

 「ええっとねえ。わたしの母のお友達だったの。母と同級生だったから、百・・三歳になるのかしら」

 百三歳。透は仰天した。今までテレビでしかそんなに高齢の人を見たことはなかった。でも、その年代なら三十年前に藤井氏が取材した相手と同じくらいではないか。

 「ちょっと怖いかもしれないけど、記憶力はいいわ。特に昔のことについては」

 ちょっと怖いというのが気になったが、それは真杉に任せればいいし。何かわかるかも、と透は心が躍った。

 そのあとはおやつを食べて、歌を歌って、「冬のお楽しみ会」は閉会した。

 一列に並んで子どもたちがホールを出ていく。あおいちゃんとれんくんがまたねーと手を振ってくれた。真杉と同じテーブルにいた男の子が、「みほちゃんバイバイ」と真杉に言っているのが聞こえた。

 真杉って「みほ」なんだっけ。今まで名字でしか呼んだことがないので、なんだか変な気がした。

 そのあとは遠藤さんや太田さん、花山さんたちを別の部屋まで送っていった。

 「今日はありがとう、透くん」

 と遠藤さんたちに言われて透は嬉しかった。こんなことをして過ごす土曜日なんて今まで考えたこともなかったけど、悪くないと思った。知らない場所に行くのも、知らない人と出会うのも。別れるときにちょっと寂しくなるくらいに親しみを感じる出会いがあるなんて。

 「ね、なんかわかった?」

 椅子を片づけるために運びながら、透は真杉に近づいた。真杉は不器用な手つきで椅子を畳みながら振り返った。

 「なにが?」

 「なにがって」

 透が呆れたように言うと真杉はあっという顔をして手のひらで口を押えた。椅子がガタンと倒れた。今日、何の目的があってここに来たかをすっかり忘れていたらしい。

 「しまった」

 「忘れてたんだ?真杉がここに来ること言い出したのに」

 透は馬鹿にするように笑った。

 「おれは収穫あったよ。このあと、百三歳のおばあさんに会えるって」

 「ほんと?すごい!野瀬くんと来て良かったあ」

 真杉は小さく手を叩いた。

 透は内心動揺したが、どうってことないという顔をした。

 片づけを終えると施設長さんからボランティアの人たちに挨拶があって、お土産をもらって解散となった。

 透と真杉は小沢さんに案内されて別棟の醍醐さんの部屋へと向かった。

 「忙しいのに、すみません」

 透は恐縮した。ここのスタッフが、とても忙しそうなことには気づいていた。

 「いいの。さっき花山さんも言ってたけど、醍醐さん、こんな可愛いお客さんが来たら喜ぶと思うから。でも、眠ってたらごめんね」

 今井さんは長い廊下をきびきび歩きながら、透たちを振り返った。

 「今日はありがとう。どうだった?」

 「今日は・・」

 透は少し考えて言った。

 「おれ、ふだん、お年寄りとも小さい子ともあんまり話すことなくて。初めてのことばっかりだったけど、すごい楽しかったです」

 「わたしも!色んな話聞いてもらっちゃった」

 話を聞いてあげるんじゃなくて、聞いてもらうってところが真杉らしい気がする。

 「良かった。また来てね。次は春のお楽しみ会があるから」

 「来ます」

 真杉が間髪入れず答えた。透は「来れたら」と言った。それにしても、真杉は今日とても楽しんだらしい。もうこれ以上雪女についての収穫がなくても、来て良かったと透は思った。

 「醍醐さーん」

 今井さんはノックをして部屋に入った。中で何か話している。醍醐さんがいいと言ったのか、今井さんは振り返って手招きをしたので、透と真杉は部屋に入った。


 明るい部屋だった。まず花模様の布団が目に留まった。無意識のうちに病院のような白い布団をイメージしていたからかもしれない。そこで体を起こしていたのは痩せた小柄なおばあさんだった。

 「じゃあ私はこれで。何かあったらそこ右行ってオレンジ色のドアのところに誰かいるから。あ、興奮させるようなことは言わないでね。今日はありがとう」

 今井さんは早口でにこやかに言うと姿を消した。興奮させるようなことってなんだろう。おれたちだけで大丈夫かな。透は一瞬慌てたが、昔話についての話で興奮する人もいないか、と思う。そんなの真杉くらいだ。

 おばあさんはこちらをじっと見ている。目は小さいが、眼光は鋭い。革のような色の顔に、無数の皺が刻まれている。それが繊細な工芸品のように見えて透は思わず見入ってしまった。

 「突然すみません。わたしは真杉美穂、こっちは」

 「ぼ、ぼくは野瀬透です」

 透は慌てて自己紹介をして頭を下げた。うんとよそ行きのときにだけ出る「ぼく」が久しぶりに口から飛び出た。

 「青鷺小学校の六年生です」

 大人だったらこういうとき話せる肩書が色々あるんだろうなと思う。相手を納得させるような。突然入ってきたけれど、怪しいものではありません。ワタクシ青鷺小学校の六年生を教えています、とか。ワタクシ高校生の娘と小学生の息子を育てています、とか。透は薮下先生や自分の母親を想像してみた。でも真杉や自分には何もない。ただの小学生。最弱のカード、トランプなら2だ。相手に恐怖を与えることは少ないが、納得させることは難しい。

 だから頑張って話して、わかってもらわなきゃいけないんだ。

 「醍醐さんのことは、花山さんて方から伺いました。青鷺町の昔話について聞かせてもらいたくて」

 透がそう話している間に真杉はリュックサックをごそごそしていると思ったら、学級文庫の『ゆきおんな』を取り出している。持ってきていたのか。

 フフともススともつかない音が聞こえた。一拍後にそれは笑い声なのだと透は気づいた。醍醐さんの口の端を見てわかった。醍醐さんは面白そうに笑っていた。

 「あの花山の嬢ちゃんに仲介させて、こんな婆さんに会いに来るなんて」

 あの花山さんも醍醐さんから見れば嬢ちゃんらしい。でもあの上品でおっとりした感じには似合わないこともない。醍醐さんは咳き込んだのか笑ったのか、少し言葉を止めてから続けた。

 「変わった子どもたちだね」

 真杉は否定せずにこっとした。お腹の前に表紙が見えるように本を持って話し出そうとすると、

 「その本は見たことがある」

 と先に切り出されたので、吸った息を吐くのを止める。真杉のペースが乱されるのを見るのは面白い。

 「藤井なんとかっておっさんが書いた本だろう」

 藤井氏は「おっさん」なのか。

 「そうです。藤井和久さん。三十年くらい前、醍醐さんも取材を受けたんですか?」

 「そんな前になるかね。取材なんてたいそうなもんじゃない」

 すごい。大当たりだ。

 醍醐さんはゆっくり話してくれた。

 昔話ならいくつも知ってる。昔は年の離れた兄や姉、叔父や祖母も一緒に暮らしていたし、誰から聞いたかはもう覚えていない。何度も繰り返し聞かされた話は、自分の子らにも話して聞かせた。もう語る相手もいなくなってからも覚えていたので、戯れに誰か大人に話してやったこともある。それを藤井が聞きつけて、話を聞きたいとやってきた。自分だけではなく、他の人にも話は聞いていたようだ。そんな話の中に『ゆきおんな』もあった・・。

 「わたし、雪女は本当にいたんじゃないかって思ってます。醍醐さんはそう思いませんか?」

 真杉の持論だ。こんなところで言い出すとは思わず、透は驚いた。醍醐さんはふうん?というような声を出して目をつぶった。何かを思い出そうとしているように見える。やがて目を開けると真杉の方へ手を伸ばした。

 「その本を貸してくれるかい」

 真杉が渡すと、醍醐さんはベッドの横の小さな台の上からゆっくりと眼鏡を取ってかけた。表紙を少しの間見つめてから、ページをめくった。『ゆきおんな』は長い話ではない。醍醐さんはたまに咀嚼するように頷きながらゆっくりと読み終えた。

 「わたしが話したそのままではないね。省略がある」

 真杉が身を乗り出した。

 「そうなの?何が省略されてるんですか」

 醍醐さんはまたフフともススともつかない声を出した。ただ、今回は困ったような笑いに思えた。

 「それを言っていいものか。藤井は考えがあって書かなかったんだろうからね」

 「お、教えてくれないんですか」

 透は思わず口を出した。ただ昔話をするだけだ。そんなにもったいぶることないじゃないか。醍醐さんは透を見てふうと息を吐いた。

 「花山さんが、『雪女の家族は村に下りて暮らすようになって、やがて孫もでき、雪女の髪は雪のように白くなった』って言ってました。このこともこの本には書かれてないですね」

 透が言うと、真杉が驚いたように透の方を見るのが視界の隅でわかった。醍醐さんは今度こそ笑った。

 「あの嬢ちゃん、そんなことを覚えてたのかい、感心、感心。―ただ、少し違うね。村に下りてから髪が白くなったんじゃない、髪が白くなったから村に下りてきたんだ。わたしが聞いた話はそうだったよ」

 どういうことだろう。髪が白くなったから村に下りてきた?意味が分からない。真杉を見たが、真杉も少し口を開いてぽかんとした顔をしている。

 「あんたたち、青鷺町をどう思う。好きかい」

 突然質問をしてきた。醍醐さんは眼鏡を外し、置きながら、さして興味はなさそうに真杉と透の顔をちらりと見た。

 「ぼくは、まあ、普通です」

 普通ってなんだと心の中で自分にツッコむ。

 「わたしは・・好き、かな」

 「どこが」

 「自然が豊かで。緑茂れる鷺ノ背山に、清き流れの三雲川」

透は違和感があって真杉を見た。その言葉、どこかで聞いたことがある。すぐに気づいた。校歌じゃねーか。真杉は透の方を見るとははっと笑った。いつもの笑いとは全然違う、力のない笑い。泣き笑いのようで、透はどきっとした。

「嘘です。正直、よくわかりません。好きか嫌いか」

真杉の声は低かった。透は、真杉が今まで愚痴や弱音を言うのを聞いたことがないことに気づいた。今、初めて真杉の生の声を聞いたのかもしれない。

 そうか・・と醍醐さんは呟いた。疲れたような声だった。

 「ここはなんの取り柄もない田舎さ。でもね、あんたたちのような子が喜ぶかもしれない・・特徴がある。それは、物語が近いってことだ」

 「物語が近い?」

 「そう。物語と一緒に暮らしてる、ようなもんだ」

 醍醐さんは体をベッドにゆっくりと沈めていった。ふうっと息をついている。

 「ごめんなさい、疲れさせて」

 真杉は慌ててベッドに近づくと掛布団を醍醐さんにかけた。醍醐さんは目をつぶっている。

 「お話ありがとうございます。そろそろ帰ります」

 「・・ありがとうございます」

 透と真杉は頭を下げると戸の方へ向かった。後ろで何か声がした。振り向くと、醍醐さんは目を閉じたまま呟いた。

 「藤井が書いた別の本を読んでみなさい。題名は忘れた。青鷺町の歴史を書いた本だよ」

 透と目を合わせてから、真杉ははい!と言った。目にはまた光が戻っていた。


 次の日の昼休み、透と真杉は図書室で本を探していた。醍醐さんの言った本だ。

 「ないねー。藤井さんの本は何冊かあるけど・・」

 コンピューター検索で、藤井さんの書いた『鷺ノ背山』『青鷺町のわらべ歌』などは見つかったが、ここの歴史を書いた本ではなかった。

 「でも、どういうことなんだろうね。山を下りてから髪が白くなったんじゃなくて、髪が白くなったから山を下りたって」

 真杉は言った。上靴を脱いで椅子の上で膝を抱えながら、ゆっくりまばたきしている。これが真杉が考え込むときの癖だということに透は気づいていた。

 「髪が白くなったって要するに老いたことを言い換えたんでしょ。年を取ったら山の中より村で暮らす方が楽だよね。それだけのことじゃないの」

 「うーん・・。それだけかな?なんか、醍醐さんの言い方、意味ありげじゃなかった?」

 「あのおばあさんは全体的に意味深だったけど」

 と透が言うと真杉は口を開けずに、口の端っこだけ上げて笑った。

 「なんか言いたいけど言えない、みたいな感じだったね」

 「醍醐さんの言ってた本を読めば、わかるのかなあ」

 うーん、と真杉は膝の上に頭を伏せた。今日の真杉はなんだか元気がなかった。月曜日だからかもしれない、と透は思った。透も、土日にくつろいだ後には、登校するのが憂鬱だったからだ。

 「あのさ」

 透は前から思っていたことを言ってみようかと思った。今日の図書室には他に誰もいないことも背中を押した。唾を呑み込む。

 「ヤブに言ってみる?」

 真杉は顔を上げずにくぐもった声で、「何を?」と言ったが、思い当たったのかぱっと顔を上げた。

 「ヤブ先生にさ、言ってみない?真杉がクラスのみんなにさ、ハブにされてるってこと」

 透はかなり勇気を振り絞ったのだが、真杉は何を言うかと思えば、くくっと笑って「ヤブとハブ」と呟いた。透は苛立ちを押さえて真杉の顔を見続けていると、真杉は微笑みを浮かべて言った。

 「でもね、何をされてるってわけでもないんだよ。嫌がらせもされない、これみよがしにヒソヒソ悪口言われるわけでもない、上靴も隠されてない。ただ、話しかけられないだけ」

 「それでも、クラスにいづらいだろ」

 なぜか透はむきになっていた。

 真杉の顔にうすく浮かんでいた微笑がすっと消えた。頬が紅潮し、目に光が宿った。透はどきっとした。

 「いづらいよ。当たり前じゃん!透明人間みたいにされて、ほんとに透明ならいいけど、そうじゃないんだもん。みんな、わたしと目が合いそうになったら慌てて逸らして、すれ違うときは触らないように体をくねらせてる。でも先生にそんなことうまく説明できると思えないよ」

 真杉の目にみるみるしずくが盛り上がるのを透は呆然と見ていた。あ、落ちる、と思った瞬間、真杉はそれを乱暴に手の甲で拭った。

 どうしようどうしよう。透は背中にじっとり汗をかいているのを感じながら、思い切って口を開いた。

「あのさ、じゃあ・・じゃあおれがヤブに言うのは?」

真杉は小さな声で「・・いいっ」と言うと上靴を履いて図書室を飛び出していった。かかとを踏んだままだったので、パタパタと音が残った。

なんでおれが怒鳴られなきゃなんないの。

五時間目、授業はまるで頭に入ってこなかった。理不尽だという思いがあったが、それ以上に、クラスメートの態度なんて気にしていないように振る舞う真杉が、本当は傷ついていたことに、透はショックを受けていた。心のどこかで、真杉なんだからたいして気にかけてないと思っていた。鈍感で、自分の好きなことしか見えない、自分の立ち位置なんてわかってない真杉。と思い、羨んでさえいた自分が恥ずかしかった。

 真杉は先生には言いたくないらしい。他におれにできることはないのかなと透は考えた。



Ⅲ.雪女と会う


 次の日、透はいつもより三十分以上早く家を出た。晴れているが、夜中に雪が降っていたのか、白い羽毛布団のような道になっている。ほとんど誰にも踏まれていない道を歩くのは、やっかいな反面、快感でもあった。冷たい空気を吸うと鼻がツーンと痛くなってじわっと涙が出た。

 早く来た目的はふたつある。一つ目は、誰よりも早く来る人に会うことだった。六年一組の戸を開けると、自分の席にいた尾上葉月が驚いたような顔を向けた。

 「早いね」

 尾上さんが一番早く登校することは覚えていたし、朝早くなら他には誰もいないから好都合だと思ったのだ。塾では他の人がいるし。

 尾上さんは透を無視してはいないようだった。もともとほとんど会話がないからよくわからないが、塾で今までと変わらず挨拶くらいはしてくれるので、尾上さんに白羽の矢を立てたのだ。先生が駄目なら、女子の力を借りようと昨夜思いついたのだ。

 「まーね」

 透は他の人が来ないうちに、と上着もランドセルもそのままで尾上さんに近づいた。尾上さんはなんなのという顔をしている。

 「あのさ、尾上さんさ、真杉に話しかけてやってくれない」

 単刀直入に言うと、尾上さんは目をぱちぱちさせた。

 「どういうこと」

 「真杉ってみんなから無視されてるだろ。それ、どうしてなの」

 尾上は答えない。目を逸らしてペンケースのふたを開けたり閉めたりしている。

 「・・まあいいや。尾上さんがたまに話しかけてくれたら、他の人も話しかけるようになるかもしれないから、どうかな」

 「わたし、別に真杉さんを無視してない。ただ、もともと友達ってわけじゃなかっただけ。同じ係とか班になったことないし」

 尾上さんはきっと透を睨んだ。お雛様のような印象の尾上さんは意外と気が強いのかもしれないと透は思った。

 「そうなんだ」

 どうやらこれでは話しかけてくれそうもない。しかしあまりしつこく頼むのも逆効果だと思った透は、じゃあ、と口の中で呟きながら自分の席に戻ろうとした。

 「野瀬くんておせっかいだね」

 尾上さんはすぐに目を逸らしたが、一瞬だけ見えた顔には呆れたような感心したような表情が浮かんでいた。

 透はもっと他に言うことがなかったか考えながら、自分の机にランドセルを置いた。もう少し追及したら真杉が無視されることになった原因がわかったかな、と思ったが、尾上さんも知らないのかもしれない。透は頭を切り替えて、教室を出た。どうやらひとつめは失敗したようだが、朝のあいだにもうひとつやることがあった。

 透は足早に隣の五年一組の教室に向かった。まだ誰も来ていなかった。五年生の教室にも思った通り学級文庫のコーナーがある。透はそこをじっと眺めた。漫画の伝記の本が多い。目的の本はなかった。次は隣の四年一組だ。どの学年も一クラスしかないので、その点では楽だ。ここには二人の四年生が登校していて、透を見て不思議そうな顔をしたので、「失礼しまーす」と言って学級文庫コーナーに向かった。ここにも探していた本はなかった。

 やっぱりないのかなあと思いながら、透は三年一組の教室に入った。誰もいない。学級文庫コーナーを見ると、六年一組と同じ『ゆきおんな』があった。その隣に、藤井和久著『青鷺町の歴史』があった。透は小さく歓声をあげてその本を引き出した。変色している。分厚く、開いてみると、字は小さいし、三年生向きだとは思えない。この教室に置くなんて、この学校の先生ってセンスないよなあ、と透は思いながら、その本を持ち出した。あとでここの担任の先生に断ればいいだろう。

 自分の教室に戻ると、人数は増えていた。癖で学級文庫に目をやると、マコトが立っていて何かの本を開いていたのでびっくりした。なんの本だろう、と思わず見ていると、マコトがこちらに目を向けた。目が合うと、マコトの顔がみるみる赤くなった。

 なんなんだ。透がぽかんと立っているとマコトはその本を閉じて隠すように抱えて、ぼそっと何か言った。おはよう、と言ったのだと気づいて透も慌てて「おはよう」と返した。

 首を傾げながら透が自分の席に向かうと、真杉が透の机のそばに立っていたのでまた驚いた。

 「早いじゃん」

 いつも真杉はギリギリに来るのでそう言うと、真杉はうんと言って、ばつが悪そうにちょっと黙っていたが、

 「ごめん。昨日」

 と言った。これを言うために早く来たのかなと透はちらりと思ったが、透も真杉に見せたいものがあったので好都合だった。

 「別にいいよ。それよりさ」

 じゃん、と透は持っていた本を真杉の顔の前に突き出した。近すぎて真杉がのけぞる。一瞬後に、ええ?と題名をまじまじと見た。

 「どうして」

 驚いているので、透は得意な気分だった。

 「三年の教室にあった。図書室のパソコンで検索しても、学級文庫にある本は出てこないんだよ。『ゆきおんな』も出てこなかっただろ。もしかしたら、藤井さんのこの本も、検索画面には出てこなかったけどどっかの学級文庫にあるかもしれないと思って」

 真杉の顔が輝いた。

 結局、学校で真杉のこの表情が見られるのは、『ゆきおんな』について話すときだけなんだ。真杉を助けたいけど、とりあえず今はこれしかないのかなあと透は思った。


 〈青鷺町は、かつては青鷺村といい、人々は昔から稲作とわずかな野菜作りで暮らしてきた。鷺ノ背山からの雪解け水があり、川もあり、水は豊富だったので米作りには適している。長い冬の間には山から取ってきた木を曲げ、わっぱと呼ばれる入れ物を作って収入の足しにした。また、木こりや炭焼きを仕事とする者も多かった〉


 というような人々の暮らしぶりが時代とともにどうなっていったか、祭りや踊り、食事といった青鷺村の文化の変遷についてなどが書かれている。透はさっさと読み飛ばしていった。面白かったのは熊や猪や鹿をどう獲ったか、その肉や皮をどうしたのかという話や、江戸時代、異人が漂着したかもしれないという話くらいだった。

 透は昼休みまでに『青鷺町の歴史』にざっと目を通し、がっかりしていた。醍醐さんがなぜこれを読むように言ったのかわからなかった。特に日本史の表舞台に登場することもなかったであろう青鷺町の歴史を読んでどうすればいいのだろう。

 「真杉が持ってていいよ」

 と昼休みに渡すと真杉は喜んでさっそく読んでいた。

 

 夜、塾から帰ってきた透は、冷凍食品の焼きおにぎりを電子レンジで温めていた。早めに夕食をとってから塾に行くものの、帰ってくる頃にはお腹が空いているのだ。

 テーブルで食べようとしたとき、杏香が現れて、赤いスマホを透に差し出した。

 「はい。電話、かかってくるよ。それ食べといてあげる」

 え?なに?と透がまばたきしていると、杏香はメール画面を出して透に見せた。透は目をやってぎょっとした。真杉からだ。が、題名は「杏香さんへ」となっている。

 「はじめまして、真杉美穂といいます。透くんに電話したいんですが、いいですか?もしよければ、電話番号を教えてください」

 とあった。急いで送信済みメールのところを見てみた。

 「真杉さんへ。いつも透と仲良くしてくれてありがとう。電話番号は090・・」

 と姉は電話番号を教えている。その文面に透はカッと首筋が熱くなった。なんだこれは。

 そのとき電話が鳴りだした。杏香の好きなミュージシャンの曲だ。透はびくっとしてスマホを落としそうになったが、握りなおすと、顔を上げた。杏香は焼きおにぎりを食べながら(!)にやにやしてこちらを見ているし母までソファの方からこちらに興味津々の顔を向けている。

 透は鳴り続ける電話を握って一段飛ばしで階段を駆け上がった。

 「はい」

 自分の部屋に入ると、息を整えながら電話に出る。真杉が何かを言う前に「ちょっと、困るんだけど」と文句を言った。

 「あ、ごめん、忙しかった?」

 「・・別に忙しくはないけど」

 「ならよかった」

 真杉は興奮しているようだ。声が高く早口になっている。

 「あのね、わかったの。『青鷺町の歴史』読んでたらね、雪女の正体見つけたって思って、明日まで待てなくて!」

 「正体?ちょっと、待って。おれもざっと読んだけど、雪女のことなんて書いてなかったよ」

 「異人が流れ着いたって話、読まなかった?」

 え?異人?そういえば、外国人の男女が流れ着いたかもしれないという話はあった。

 「それがどうしたの」

 「その女の人が、雪女なんだよ!」

 言われたことがよく呑み込めず黙っていると、真杉はもどかしそうに、本を読み上げ始めた。


 鷺ノ背山の西には日本海が広がる。しかし現在のようなトンネルがない頃、村から海へ行くのは困難だった。山を越えていくのは並々ならぬ労力が必要とされたので、残されたのは山を大きく迂回する方法だったが、これも男の足で一日がかりだったと思われる。しかし海へ行ったところで、ぎりぎりまで山の斜面があり岩場ばかり。猫の額ほどの浜しかない。波も一年を通して荒かったので、漁という習慣はなかった。体力を持て余した若者がたまに釣りをしに行くくらいだった。

 そんな若者の一人が奇妙な遭遇をしたという記録がある。時は安永から寛政の頃、正確には不明である。以下、伊兵衛という男の断続的な日記のある一日を要約する。伊兵衛はあるとき浜で異様な男を見たという。男は毛むくじゃらで半裸(日付はないが、季節は夏か)で、手製と思われる道具を使い釣りをしていたという。また、男は頭部は赤い毛に覆われ、それが髪だということを伊兵衛はにわかには信じられなかった。伊兵衛と男は互いを認めてしばらく言葉もなく立ち尽くしていたが、やがて互いに害意がないことがわかり、伊兵衛は握り飯を分けてやると男はとても喜んだようだが、異様な言葉を話すので意思の疎通は出来なかった。ただ、男は自分を指さして「アダム」と言い、岩陰を指して「キヤサリン」と言った。どうやらもう一人の人間がいるらしかった。伊兵衛はその人間にも関心を持ったが、姿を隠していて見えなかった。ただ、別れるときに伊兵衛が背を向け、しばらくして振り返ると男以外にこちらを見る者があった。その髪はなんと黄色かった。

 伊兵衛は当時の青鷺村の村人には珍しく読み書きができたので、これらのことを書き残している。これ以降はこの出来事についての記述がなく、このことを聞き知ったであろう村人の間に騒ぎが起こったかどうかは不明である。伊兵衛の他にこのことを書き残している者はなく(前述のように読み書きのできるものが少なかったのも一因か)、伊兵衛の創作という可能性も捨てきれず、異人との遭遇の史料としての信憑性は高くない。


 透は真杉が語るのを黙って聞いていた。話し終わっても頭の整理が出来ず、少しの間黙っていたが、やがて口を開いた。

 「で、キャサリンって人が雪女だっていうの?」

 「そうだよ」

 「どうして」

 「だって」

 ここで真杉は効果を狙うように一泊置いてから息を吸い込んだ。

 「キャサリンって名前の、よく使われる愛称は〈ケイト〉なんだよ!」

 どう?という顔が浮かぶようだったが、あいにく透は期待された反応ができなかった。愛称ってなんだっけ。あだ名みたいなものか。ケイトだったらなんだっていうんだ。とそこまで思ってやっと気づいた。

 「おけいって名前は、ケイトから来てるって思ってるわけか」

 「そう!それだけじゃないの。野瀬くん、〈わらのような髪〉っていうのはボサボサの髪のことじゃないかって言ったよね」

 今度はすぐに分かった。真杉の説では、わらのようなっていうのは質感ではなくて色なのか。〈黄色い髪〉だ。

 「金髪のことだっていうの?」

 「うん。〈氷のような目〉は青い目のこと。銀が雪女の容貌を恐れたのは山姥みたいだったからじゃなくて、生まれて初めて見た外国人だったからなんだよ!」


「そうだ、電話したときには言い忘れたけど、もうひとつ、〈おけい〉が金髪だった根拠になりそうなところがあるの」

 翌日の昼休み、真杉は電話のときと変わらない熱心さで話していた。

 醍醐さんは、「村に下りてから髪が白くなったんじゃない、髪が白くなったから村に下りたんだ」と言った。それは、真杉の説によると、金髪から白髪になったことで、周囲に与える脅威が和らいだ、ということらしい。

 「黒い髪も、金髪も、白髪になれば同じ。金髪碧眼のおけいさんを恐れる村人は多かったでしょうね。なんせ当時は鎖国中だったんだし、役人にでも見つかったらどうなるかわからない。だけど、白髪になったから、村人に混じって暮らせるようになったっていう意味なんじゃないかな」

 そうだ。江戸時代は日本は鎖国してたんだ。透は社会の授業で習ったことを思い出した。鎖国というのは、外国との貿易や行き来を一部を除いて禁止していたことだ。こんな田舎に、本来いてはならない外国人がいることが公になったら大騒ぎになっただろう。

 「青い目はどうするの。黒いカラーコンタクトで隠す?」

 透はわざと昔にはなかったものを言った。が、内心では真杉の推理に舌を巻いていた。なんだか途方もない推理だけど・・当たっているかもしれない。

 「青い目は・・どうしようもないよね。まあ、目は近づいて顔を合わせなきゃわからないから」

 真杉は肩をすくめて見せた。それこそ外国人みたいな仕草だった。

 雪女といえば、白い肌に黒い長い髪。着物を着ている。このあたりまでは多くの人の共通のイメージのはずだ。透がぼんやり抱いていたイメージも、寂しげな一重の目の、日本人形のような女の人だったので、真杉の説は受け入れにくかった。

 真杉もそれには同意した。

 「うん、わたしもそう思ってたよ。例えて言えば、尾上さんみたいな感じかな」

 透も前から色白で切れ長の目をした尾上さんのことをお雛様みたいだと思っていたので、あー確かにと言った。性格はお雛様よりきつそうだけど。

 「最近ね、尾上さんがよく話しかけてくれるんだ」

 突然真杉が『ゆきおんな』以外の話、どうやら現実世界の話をしているらしいことに気づいて透は驚いた。そしてその内容にさらに驚いた。

 「そうなの?」

 「うん。昨日は一緒に帰ったし」

 真杉は不思議がっている風だったが、嬉しそうだった。

 透は頬が緩みそうになるのをなんとか押さえた。尾上さんが真杉に話しかけていたとは。性格きつそうなんて思ってごめん。

 雪女について、今週はもうひとつ新たな展開があった。『ゆきおんな』を出版した藤井和久さんの娘さんから電話があったのだ。取材ノートが見つかったという。

 「そったらたいそうなノートじゃないんだけど。一応知らせておこと思って」

 という藤井さんに、真杉は伺いますと即答したらしい。

 「明日の土曜日。野瀬くんも行こ」


 土曜日、透は学校の前で真杉と待ち合わせて、藤井さんの家へ向かった。

 「ね、アダムはどうなったの」

 透が気になっていたことを聞くと、真杉はきょとんとして、一瞬後にああ、という顔になった。伊兵衛が出会った男の方のことを真杉は忘れていたらしい。

 「アダムっていう男はキャサリンの父か兄か夫かわからないけど、どうして消えちゃったの」

 「さあ・・死んじゃったのかな」

 真杉が簡単に言ったので透は突っ込まずにはいられなかった。

 「ちょっと。簡単に死なせんなよ。じゃあキャサリンはこの山でたった一人で生きてたってこと。無理じゃないの」

 透はすぐ後ろの鷺ノ背山を顎で示した。富士山みたいに高い山じゃないけど、女の人が一人隠れて生きていけるだろうか。

 「一人で生きていたっていうのは無理があるかな。協力者はいたのかも」

 「でもなるべく人には見つからないように暮らしてた。あ、だから、誰にも言うなって銀に言ったのか。異人である自分の存在を言うなってことか。でもそこで銀にひとめぼれしちゃって、自分から会いに行ったのかな」

 「うんうん」

 材料が少なすぎてわからないことの方が多かった。でも、こうやって昔のことを想像するのは面白かった。

 「考えてみればさ、氷で芸術品っぽいものを作るっていうの、外国っぽいよね」

 と透が呟くと、真杉は確かに!と言った。

 「氷の彫刻ってテレビとかで見たことあるけど、すごい手間だよね。昔は冷凍庫もないし、あったかくなったら溶けちゃうのに。はかない芸術だよ。日本の貧しい田舎には似合わない感じ。キャサリンさんは、きっと寒い国から来たんだろうね」

 真杉は思いを馳せるように空を見ている。

 藤井家を訪れると、おばさんはにこにこしてさっそくノートを見せてくれた。

 「持っていってゆっくり読んでいいよ。って言っても『ゆきおんな』についてはあんまし書いてなくてね。申し訳ね」

 「いいえ!嬉しいです。ありがとうございます」

 と真杉が言ったので、透も慌てて頭を下げた。

 真杉は両手でノートを押し頂いた。それを透に預けると、リュックをおろして中から水色の可愛い袋を出した。

 「あの、これ、朝焼いてきたんです。クッキーです。美味しいかわからないけど」

 真杉は頬を赤らめながらおばさんに袋を差し出した。クッキーだって。透は手土産のことなどまったく考えていなかったので、真杉の大人のような社交性に驚いた。


 「まだクッキーあるんだ。一緒に食べない?」

 まだ日は高い。藤井家からの帰り道、真杉は透を公園のベンチに誘った。公園といってもろくな遊具がないからか、誰もいない。知り合いが現れそうにないことを確認して、透は了解した。

 真杉はリュックからプラスチック容器を出して透に押し付けると、自分はノートをめくった。食べていいの?と聞くと生返事しか返ってこない。真杉の目はノートに吸い付けられている。

 透は容器を開けた。白と茶のマーブル模様のクッキーが入っている。おおーと歓声を上げるが真杉は無反応なので、いただきまーすと言ってクッキーを食べる。バターの香りが口に広がる。美味しい。こんな特技があったなんて。まるで女子みたいだ、と透は心の中で呟く。

 パクパク食べながらノートを横から覗き見る。字が達筆なのか汚いのかわからないが、読みにくい。

 「見て、ここ。本と違うよ」

 「・・読めない」

 真杉が指さしたところがよくわからなかったのでそう言うと、真杉は読み上げてくれた。

 「〈・・いつか銀を吹雪から助けた女に相違なかった。女はこがねのように輝く髪、晴れた空のような目をしている。銀ははじめその姿を恐れたが、恩があるので家にあげ、火に当たらせた。女の言葉は銀に通じず、銀の言葉は女に通じなかった。しかし二人は不思議とお互いを気に入り、二人はめおととなった。少しずつ言葉を交わせるようになり、銀は女をおけいと呼ぶようになった〉」

 透は魅せられたように真杉の低い声に耳を傾けていた。言葉が出ない。

 本当だ。外国人だ。西洋人の雪女だ。

 「ね。ここのところ、本になった文章とだいぶ違うでしょ。これだと金髪に青い目ってはっきり書いてるし、言葉が通じないってことも書いてる。どう?」

 わたしの推理、当たってたでしょ?という顔で真杉が透を見た。

 「他にもあるよ。たとえば、ここ。〈・・・おけいの髪は白くなった。今では他の人と変わらないようになったので、おけいと銀は家族を連れて、山を下りた〉」

 「やっぱり、金髪が白くなったから、山を下りたってことか。当時のお年寄りにはこういう部分も細かく伝わってたんだね。でも、藤井さんはその辺りを省略した」

 「そう。どうしてだろう?」

 真杉はページをめくった。透にもわかる走り書きもあった。挿絵を誰に頼むか、どういう装丁にするかといったメモもある。語り口を青鷺町の方言にするか、普通の言葉にするか検討しているページもある。〈ダイゴ〉とたまに書いてあるのは醍醐さんのことだろう。

 「これ、なんだろ」

 真杉が指さしたところには〈氷→火〉とあった。よくわからない。

〈ヒウラ家より電話 ご隠居が心配しているとのこと 要話し合いか〉と書かれた下に〈折れない ご隠居が不憫だからと泣きつかれる〉という殴り書きがあった。気のせいか、文字に苛立ちが感じられる。

〈省略することで妥協 無念〉という文章でそのページは終わっていた。次のページからは新しい『ゆきおんな』が書かれている。一言一句覚えているわけではないが、完成された『ゆきおんな』とほぼ同じ文章ではないかと透は思った。

 「つまり・・ヒウラって人から電話があって、『ゆきおんな』の内容にいちゃもんを付けられたってことかな。話し合った結果、部分的に省略することで妥協した、と」

 「ご隠居が心配してるってなんのこと?」

 さあ・・と真杉は首を傾げた。

 「『ゆきおんな』って藤井さんの趣味で、藤井さんのお金で出してる本なんでしょ。どうして他人に口出しされてその通りにしなきゃなんないの」

 検閲。という言葉が頭に浮かび、透はその言葉の連想からぎくっとして叫んだ。

 「あああああ!プリント出してない」

 ぎょっとしている真杉に、卒業文集に載せるアンケート用紙をまだ提出していなかったことを力なく説明する。あれからだいぶ経っている。ヤブ、待ってるかな。ヤブのことだから忘れてるかもしれないけど・・早く出さなきゃ。最後の質問、なんて書こう。

 「まだ出してなかったの?」

 宿題をほとんどやらない真杉にだけは言われたくない。

 「そうだ、検閲だ」

 透は思い出した。

「ヤブが言ってた、アンケートについて。検閲するんですかって聞いたら、〈誰かを傷つけるような内容だったらそのまま載せられない〉って」

「ふむ」

と真杉はオジサンっぽい相槌を打った。透の膝の上の容器のクッキーが残り少なくなっていることに気づいて、慌てて三つまとめてつまみ上げる。それを頬張りながらゆっくり言った。

 「この場合も同じかもしれないってこと?『ゆきおんな』がそのままだと誰かを―ヒウラさんかな?―傷つけるかもしれないから、中身を変えるしかなかったってこと?」

 「そうか」

 急に透は思いついた。ポンと考えが降りてきた。

 「省略された部分を読めばわかるよ。雪女が外国人ってことがわかる表現が消えてる。頼んできたのはキャサリンさんの子孫だよ。自分たちの先祖が雪女だっていうお話を出版されるのを嫌がったんだよ。特に、隠居した、おじいちゃんか、おばあちゃんが」

 「どうして」

 真杉が不思議そうな顔をしたので透は鼻を鳴らした。

 「さあ。西洋人の末裔っていうのが嫌だったのか、雪女っていう妖怪みたいなのと関わりがあるのが嫌だったのか・・。とにかく人と違うってことはリスクがあるから」

 特にこの町では。という言葉を透は呑み込んだ。

 忘れられかけていた昔話。それがきちんと出版されて、雪女が西洋の女性だと広く知られるのを嫌がった人がきっといたのだ。

 キャサリンさんの子孫がこの町にいるという考えは真杉の気に入ったようだった。

 ノートと空になった容器をリュックにしまい込んで真杉は立ち上がった。

 「ね、ちょっと登ってみない?鷺ノ背山の、途中まで!」


 昨日から寒さが緩んでいたせいか、道の雪もだいぶ薄くなっていて、黒い地面が見えているところもある。久しぶりに見る地面だ。

「前に野瀬くんが言ったこと、きっと当たってるよ」

 「え?なんて言ったっけ」

 「銀が、誰にも言うなって約束を守ったから、ハッピーエンドになったのかなって言ったでしょ。銀は奥さんのことを守ったんだよ。銀だけじゃなくて、村人も。キャサリンさんの記録が残ってないっていうのは、皆が、よそ者には正体がばれないように、彼女のことを守ったっていうことじゃない?見つかったら問題になるから、隠して、記録には残さないで、お伽話のかたちになったんだよ」

 真杉の言葉を透は頭の中で繰り返した。

 「見ない」「言わない」の誓いは、破られるのが「異類婚姻譚」のお約束だった。でも、この青鷺町では破られなかったんだ。それってすごいことなのかもしれない。

二人は雪女と関係ない話もした。透は前から気になっていたことを聞いた。

 「真杉ってさ、どうして勉強しないの」

 歌もうまいし、お菓子作りも上手なのに、勉強はやらないなんて。

 真杉は怒った様子もなく首を傾げた。

 「さあ・・。あんまり興味がなくて。知ってる?」

 特別な秘密でも教えるような顔をしたので透はわくわくしたが、真杉の台詞は妙だった。

 「公立の中学校って、どんなに勉強できなくても行けるんだよ」

 「・・そりゃそうだろ」

 真杉は何がおかしいのか口を開けて笑った。元気が余っているのか、小走りに先を行く。

 「でもわたし、本気出せば、勉強得意だと思う!」

 「はあ?なめんなよ」

 透は本気で言った。ちゃんと学校の宿題をして塾にまで行っている立場からは聞き逃せなかった。

 「勉強って積み重ねなんだから。真杉みたいにほったらかしてたのが本気出したって、急に出来るようになるわけないだろ」

 「なによ、先生みたいなこと言っちゃって」

 真杉は余裕たっぷりだ。透はむきになって言った。

 「じゃあ、中学行ったら勝負しようぜ。テストの順位で」

 真杉は少し先を行っていたが、振り返った。黒い目がきらきらしている。

 「いいよ!」

 中学行くのが楽しみと聞こえたような気もしたが、声は風に持っていかれてよくわからなかった。

 二人はもう三十分くらい歩いていた。平地で溶けかけていた雪は、坂になるとまだまだ深かった。さっき暖かいと思ったのが嘘のように肌寒くなってきていた。

 「おれたちの装備じゃこれ以上無理だよ。帰ろう」

 透は音を上げた。まだ山というほど高い場所には来ていなかったが、雪の積もり具合はまちなかとまったく違う。

 冬になって、女子はよく暖かそうなブーツを履いているが、男子は履くものに困るのだ。男子が履けるようなデザインのブーツはあまりない。長靴はなんとなく「ダサい」とされているのでめったに履かず、いつもは防水機能付きのスニーカーを履いている男子が多い。今日の透もそうしたスニーカーだった。が、深い雪を歩けば足を入れる口からどんどん雪が入ってくるわけで、当然もう靴の中までぐっしょり濡れている。真杉のモコモコのブーツだってたいして防水効果はなさそうだ。

 「わかった」

 分厚いこんもりとした雪の上に足跡を付けていた真杉がそう言った瞬間、「わっ!?」という声とともにその姿が消えた。

 透は一瞬呆然としたが、急いで真杉の足跡に足を重ねながら走った。そして気づいた。積もった雪のせいでわからなかったが崖になってるんだ。崖の先の、雪しかないところを真杉はずぼっと踏み抜いたんだ。怖かったが、透は慎重に足をおろして地面があることを確かめながら近づいた。踏み抜いた穴より手前から覗きこむと、真杉の茶色いダッフルコートが思ったより近くに見えて少しほっとした。崖というほどではない。が、三メートルはあるだろうか。

 「だいじょうぶ!?」

 「いたたたた」

 雪が布団のように積もっているのだからあまり心配はしていなかったが、真杉は顔をしかめていた。雪の上に左足を投げ出している。

 「足が痛い」

 透はドキッとした。骨折したのだろうか。どうしよう。これでは上ってくることはできないかもしれない。

 「どうしよう?」

 「うーん。なんか、杖になりそうな太い枝ないかな?右足は大丈夫だから、杖があれば上がれるかも・・。それか、ひもで引っ張ってもらうか」

 言葉がしっかりしていたのでやや安心する。しかし、杖かひも?透は焦ってまわりを見まわしてみたが、ほとんど雪しかない。木はたくさんあるが、まさか太い枝を切り落とすなんて芸当ができるわけがない。

 「んなもん、あるか!」

 透はそろそろと下に降りていきかけたが、思った以上にこの斜面が上りにくかった場合どうするんだ?という思いが頭をよぎった。真杉を背負えたにしても、この急な斜面を上ってこられるだろうか。透はあまり体力に自信がない。誰にも気づかれず、ここで夜を明かすことになったら凍死するかもしれない!

透は決めた。

 「おれ、誰かに杖かひも借りてくる!」

 真杉はこちらを見上げて、わかったーと力のない声を出した。さすがの真杉も弱っているようだ。

 この辺に土地鑑がないので、知らない道を行くのはやめて、来た道を戻る。しっかり足跡がついているせいで簡単だった。雪のおかげだ。雪が積もっていなければ真杉ももっとひどい怪我をしたかもしれないし、雪に感謝だ。いや、雪がなければ真杉が地面のないところを踏み抜くこともなかったんだから、感謝はおかしいか。

 そんなことを考えながら走る。日が翳ってきた。時計がないからわからないが、四時くらいだろうか。手足だけは冷たいが体は汗でびっしょりだ。五分もかからずに、小高い丘に入る手前、なだらかな坂のところに、行きになんとなく記憶していた家を見つけた。このあたりによくあるような黒い瓦の大きな家だ。

 誰かいますように・・・と祈りながらガラガラと引き戸を引く。鍵がかかっていないということは誰かいるのだろうか。

 「すみませんっ」

 と言ってから、小さな声だったので、もう一度頑張って繰り返した。

 床がきしむ音がしたと思うと、右手の方から誰かが現れた。

 「・・はい」

 長い髪の女の人だ。と思ったが、その人が透の顔を凝視しているので、透もよく見返して、一拍後にそれが同じクラスの穂積だということがわかった。

 「野瀬くん」

 穂積は驚いたようにこちらを見ている。いつもシナモンロールのようにまとまっている茶色い髪はゆるく波打って肩を覆っている。

 よりによって穂積の家だったとは。真杉と透が無視されている状態の元凶が穂積だとすれば、助けを求めたくなかった。でも背に腹は代えられない・・ここで、やっぱりなんでもないと出ていくわけにもいかないし。

 透は腹をくくって事情を簡単に説明した。ロープか何かを貸してほしいことを言うと、穂積は慌てたようにどこかへ消えた。白いダウンコートを着て手には新聞紙を縛るようなビニールの紐の玉を持って現れる。

 「こんなのしかない。今誰もいないの」

 と言って、あ、と言ってまたどこかへ消える。現れたときには手袋をはめた手に携帯電話を握りしめていた。

 「どうにもならなかったら親に連絡する」 

 どうやら一緒に行ってくれるらしい。

 なんだか妙なことになった。穂積と一緒に行ったら真杉はどう思うだろうと心配したが、もう仕方ない。それより真杉は大丈夫だろうか。痛みで気を失っていたりして。

 透はいてもたってもいられず、走り出した。穂積は家を施錠していて遅れたが、あっという間に透に追いつく。雪国の人間は雪の上を走るのが得意なのだ。

 透はちらりと横の穂積を見た。白いコートに劣らず白い顔をしている。緊張したような表情だ。髪もたらしているし、いつもみたいに他の女子とクスクス笑っていないので、なんだか別人みたいだった。

 白い装束に長い髪・・なんだっけ。誰かに似ている。そうだ、もちろん雪女だ。なんて、真杉に影響されすぎか。

 「そこ、雪だけだから気を付けて」

 透は穂積にそう言いながら斜面に近づく。

 「ますぎー!」

 と覗きこんで声をかけると、真杉は体を横にしていた。透はぎょっとしたが、やがて真杉は「ああ」と言って体を起こした。

 「ごめんね」

 とさらに何かを言いかけたが、透の隣に同じように真杉を見下ろしている穂積の存在に気づいたようで、驚いた顔をした。

 「穂積・・さんの家がすぐそこで。紐持ってきてくれた」

 心の中では呼び捨てにしていたが、一応「さん」を付け加えた。

 穂積は紐がぐるぐる巻かれた玉から先端を引っ張り出して、手際よく自分の腰に結び付けた。そして、「行くよ」と言って残りの玉ごと真杉の方にぽんと放った。白い紐が宙でどんどん出てきて、真杉のいるあたりに長い紐を吐き出す玉が落ちた。

 「これ引っぱって上っていいの?」

 「それじゃ手から抜けると思う。わたしみたいに体に結び付けて。できる?」

 真杉はもたもたしていたがなんとか紐を自分の腰に巻いて結び付け、残りの紐の玉はコートのポケットに収めた。

 あとは真杉が紐を頼りに右足でのぼるだけだ。透は穂積が引っ張られて落ちないように、穂積の前に立って必死で紐を引っ張った。

 真杉は何度も転んで雪まみれになりながら少しずつ上がってきた。たまに左足を地面につけるときは、相当痛いのか、「つつっ」と声をもらす。普通に片足で飛んで歩くのも大変なのに、斜面と深い雪という条件で、大変さは十倍以上だ。真杉が転ぶと紐が引っ張られて透たちも危なくなる。透と穂積は必死で踏ん張った。

 なんとか透たちのいるところまで這いあがってきたときにはもう真杉は髪、睫毛まで雪にまみれていた。ああーっと言って寝転がる。

 「ついたー!」

 真杉はとりあえず元気に見えたので透はほっとした。

 「あー良かった。まったくえらい目にあったよ」

 と透もしゃがみ込んだ。穂積もほっとしたように紐を腰から外している。真杉も自分の腰から紐を外そうとしたが、手袋ではできず、手袋を外しても手がかじかんで出来ないようだ。透が手伝おうとしたが、穂積が来て外してくれた。そして、真杉の前にしゃがんで背を向けた。

 「乗って」

 さすがに真杉は躊躇している。

 でも、確かにこのまま家まではとても歩けないだろう。透がおぶってやるべきだろうかと一瞬考えたが、恥ずかしくて言えなかった。それに自分より穂積の方が背は高いし・・でも細いけど・・などと考えていると、真杉は明るく

 「じゃあ遠慮なく。ありがとう」

 と言って穂積に背負われた。穂積は危なげない足取りで歩いた。細く見えるが意外に力があるのかもしれない。だいたいこんなところに住んでいるとは知らなかった。ここから学校までは歩いて三十分はかかる。毎日こんな雪道を踏みしめて登校しているんなら、透なんて遠く及ばない体力がありそうだ。

 それにしても、穂積がこんなことをしてくれるとは全く意外だった。自分たちを嫌ってるはずなのに。人命救助(?)はなにごとにも優先するという考えなのだろうか。

 今日の穂積は無口だ。そのことでもなんだか調子が狂う。真杉は穂積の背中の上で元気を取り戻したのか一人で喋っている。

 「雪山の怖さを初めて知ったよー。もう、ほんとナメてた。これ一人で来てたらさ、遭難してたよね。あ、夜になったら誰か来るのかなあ。モモンガとかタヌキとか」

 「反省してんならちょっと黙って」

透はこのあとどうすればいいか考えていたので真杉がうるさくなって遮った。

穂積の家が見えてきた。

 「ちょっとうちに寄って」

 「え。いや、いいよ。ごめん、携帯電話だけ貸してくれる?親に電話して車で迎えに来てもらう」

 これしかない。母が捕まればいいのだが。

 穂積はいいよ、と言った。

 「でも電話はうちからして、迎えが来るまであったかいところで待った方がいいよ」  

 今日の穂積はどこまでも気を遣ってくれるようだ。なんなんだ。少し怖い。こういう昔話なかったっけ?まんまと家に誘い込まれて、食われてしまうやつ。


家に着いた。穂積は真杉を背中から降ろし、玄関の鍵を開けている。透は真杉と目を合わせた。どうする?と尋ねたつもりだが、なぜか真杉はコクコクと頷いている。その目は妙に輝いていた。家に入れてもらうということでいいらしい。本当に真杉の考えていることはわからない。

透のスニーカーはもはや足と一体化して雪のかたまりとなっていた。靴ひもは固く凍り付いている。当然靴下もびしょびしょだし、これではとても人の家に上がれない。透は玄関に立ったまま、

 「おれはここで。外より暖かいからここでじゅうぶん」

 と言うと、「いいからあがりなって」と穂積はちょっとイラっとした感じで言った。いつもの女王様のような穂積が顔を見せた。透は仕方なく靴を脱いだ。大量の雪をかきだしたので土間が雪だらけになった。

 なるべく濡れた跡をつけないように踵で歩いて穂積のあとを付いていく。真杉は左足に重みをかけないようにほぼケンケンで廊下を歩いている。玄関前で少しは雪を払ったようだが、結局雪のかけらをまき散らしていた。

 通されたのは居間だった。なんだかおじいちゃんの家のような、懐かしい感じの部屋だ。やけに大きな時計があって、チクタクと時を刻んでいる。もう五時を過ぎていた。部屋の真ん中に大きな炬燵がある。掘り炬燵だった。穂積は炬燵のスイッチを入れて、入って、と言った。そしてどこかから大きなタオルを二枚持ってきて、透と真杉に向かって放った。 

 「足見せて」

 と言って真杉の前に座り込む。真杉は右足だけ炬燵に入れ、左足の靴下を脱いだ。

 「わお」

 左足は腫れ上がっていた。グロテスクな赤い色をしている。

 「捻挫かなあ」

 穂積は台所のほうに立っていった。透は思い出して、急いで

 「あの、電話貸して」

 と言うと、穂積は振り向いて電話のある方を顎で示した。

 今どき珍しいジージーとダイアルを回す電話機で、透は母親の携帯に電話した。つながったのでほっとした。場所をなんとか説明すると、二十分くらいで来てくれるらしい。

 穂積が洗面器の中に水を入れて戻ってきた。

 「冷やした方がいい」

 「えー。もう十分冷やしたよ」と真杉は情けない声を出したが、穂積の無言の視線に負けたのか、おとなしく足を水に浸す。炬燵に入ってなんとなくそれを眺めていると、穂積が真杉の前にぺたりと正座をして頭を下げた。

 「ごめんなさい」

 何が起こったのかわからず、透はただ穂積を見ていた。真杉も小さい声で、え?と言ったようだが、あとは黙って穂積を見ている。穂積は透の方に向かってもう一度頭を下げた。小さな声で、ごめんなさい、と繰り返したようだ。

 「わたしのせいなの。真杉さんと、そのあと野瀬くんが無視されるようになったのはわたしのせいなの」

 真杉が予想していたとおりだった。それにしても穂積が謝ったことに驚いた。いつも友達に囲まれて薄い微笑みを浮かべている穂積、なんでもできる、なんでも一番の女王様然としたあの穂積が。

 「わたし、真杉さんが引っ越してきてすぐ・・説明するのも恥ずかしいくだらない理由で、真杉さんにムカついた」

 なんのことだろう。「ムカついた」だって、怖い。やっぱり、女子は怖い。真杉もなんのことだかわからない顔をしている。

 「真杉さんって変わってない?おかしいよねって友達に言い続けてたら、みんなも、そうだよねって言うようになった。みんなが同調してくれて嬉しかった」

 穂積は青白い顔で淡々と話している。

 「だから真杉さんがちょっとクラスで浮いてたとしたら私のせいかもしれない。それで今回・・別のある理由があって、また真杉さんにムカついた。真杉さんは悪くないの。ただ、私にとって都合が悪いことがあって。だから、真杉さんのこと無視しちゃった。そしたら、みんなも無視するようになって。最初は正直満足してた、ごめん。でも、無視するようにみんなに言ったわけじゃないのに、みんなわたしの真似するなんて変だよね。だんだん困ったなって。野瀬くんが真杉さんに話しかけたってわたしはなんとも思わなかった。でも、他の人は野瀬くんまで無視するようになって。もうわたしの知らないところで二人を無視するのが当たり前って雰囲気ができてた」

 真杉が口を開いた。

「穂積さんにリーダーシップがありすぎて、みんなが穂積さんの顔色を伺って行動する、それが困っちゃうってこと?」

真杉にしては珍しい、皮肉な口調だった。

 穂積はさっと顔を赤らめた。

 「そうは言わない。でも、わたしはみんなをそそのかしたつもりはない、それだけは本当」

 「穂積さんにとって都合が悪いことで真杉にムカついたってどういうこと。それを説明しないで謝ったって意味わかんないよ」

 透は口を挟んだ。

 穂積は黙っている。どうしても言いたくないのか、うつむいて唇を噛んでいる。

 「それについてはわかってるからもういいよ」

 真杉が言ったので透は絶句した。穂積もはじかれたように顔をあげて真杉を見ている。

 「真杉はどうして無視されてるかわかってたわけ?」

 「うん。最近わかった。あとで話すよ。あ、野瀬くんに話してもいい?」

 と穂積に尋ねる。穂積は赤い顔をしていたが、やがて頷いた。真杉は穂積に向かって、

 「でも、中身は読んでないからね」

 と謎めいたことを言った。なんのことだろう。片足は炬燵に突っ込み、片足は洗面器に立てている。ジーンズを膝までたくし上げて。そんな妙な恰好なのに真杉には不思議に貫禄があった。

 「どうやって終わらせればいいかわからなかった。真杉さんに謝ろうと思ったんだけど謝れなくて。今日、真杉さんが崖から落ちたって聞いたとき、もし死んじゃったらどうしよう。二度と謝れないって思った」

 「んな大袈裟な」

 と真杉は呟いた。

 「ほんとにごめんなさい」

 穂積はもう一度謝った。沈黙が落ちた。真杉のことだから、明るく、いいよ、と言いそうな気がして、透は口を開かずにはいられなかった。

 「許さなくていいんだよ」

 二人は驚いたように透のほうを向いた。一人で柔軟体操をしている真杉、隣の男子に何か話しかけたのに透明人間のように扱われる真杉、休み時間に頬杖をついている真杉の姿が浮かんだ。

 「真杉には怒ってる権利があるよ。今日は穂積さんに助けてもらったけどさ、だからって簡単に許さなくていいんだよ」

 そんなに簡単に許したら、傷ついたことがなかったことになるみたいだ。

 真杉は透の顔を見ていた。いつかのように、心を覗き込むように透の目を見ている。そして、ありがと、と小さな声で言った。

 「わたしの質問にひとつ答えてくれたら、許す」

 真杉が穂積に言った。穂積はこわばった顔を真杉に向けた。

 「ヒウラって苗字、知ってる?燃える火に、サンズイの浦かな」

 何を言っているのかわからなかった。本当に、真杉の言動は予測不可能だ。当然、穂積も大きな目を見張ってただ真杉を見ている。

 「ヒウラ?そんな人・・いたっけ」

 「この青鷺町に、いない?」

 「待って。わたしのおばあちゃんの結婚する前の名字だったかもしれない」

 「ビンゴ!」

 真杉は興奮した様子で足を洗面器から引き抜いた。水が飛び散る。慌てて元通り足を水につけた。

 「どういうこと?」

 「野瀬くん。穂積さんなんだよ。ゆきおんなの子孫。藤井さんのノートにヒウラって名前があったでしょ。それから、氷って漢字のあと矢印で火って書いてあったでしょ。」

 え、え。『ゆきおんな』の話をしているのか。ゆきおんなの子孫?頭が追い付かない。藤井さんのノートには確かにそういうメモがあったのは覚えているけれど。

 「雪山でも平気で暮らすおけいさん、氷から綺麗なものを作り出すおけいさんにはさ、やっぱり雪や氷のイメージが付いてたと思うんだ。だから、氷浦って屋号みたいなもので呼ばれてたんだよ、きっと」

 「屋号?」

 「昔は、庶民には名字はなかったんだって。でもどこの誰かってのをわかりやすくするためには家のあだ名みたいなものがよく付けられたんだよね。それが屋号。その氷浦の氷の字が、時がたつうちに燃える火の字に変わった」

 「氷の字が、火の字になった」

 透は頭を整理しながら言った。

 「うん。雪女の伝説と結び付けられたくなくて、同じヒと読むけど意味は正反対の火の字に変えたんじゃないかな」

 穂積は息せき切って喋っている真杉を呆然と見つめている。

 「雪女?なんのこと?」

 「んー、話すと長くなるんだけど・・穂積さんさ、雪女の子孫なんじゃないかなってわたしは思ってるの。穂積さん、おばあちゃんからそんな話聞いたことない?」

 穂積は真杉の言葉が頭に入ったのかどうか、不思議そうな顔で真杉を見ている。(やっぱり真杉さんって変かも)と思っているのかもしれない。

 「どうして穂積さんがヒウラの姓の子孫じゃないかって思ったの」

 透は聞いてみた。

 「だって。さっき、崖の下から、穂積さんを見上げたとき、ぴんと来たの。穂積さん、すっごく綺麗だったから」

 「え?」

 「前にも言ったでしょ。昔話に出て来る女の人はみんな美人だって。それに、穂積さんは髪もちょっと茶色いし、あっ、キャサリンさんの―おけいさんの―子孫だ!ってひらめいたの」

 どうやらそれを確かめるために、もっと穂積と話したくて、この家に上がったらしい。

 透は真杉の直感のでたらめな鋭さに呆れた。呆れて何かを言おうとしたが、そのときにガラガラと戸があき、ごめんください、と透の母の声がしたので、一気に現実に引き戻された。


 あれから十日ほどがたった。

透は放課後、第二図書室で真杉を待っていた。

真杉の足は捻挫で、数日のあいだ傘を杖代わりにして登校してきたが、もう回復したようだ。

 女王様の穂積が何を言ったのかわからないが、真杉と透はクラスの皆から普通に話しかけられるようになった。真杉はよく尾上さんと話している。今日は穂積とも何か話し込んでいた。とはいえ、透の皆への不信感はなかなか拭えなかった。同時に、クラスの〈暗黙の了解〉に負けずに透に話しかけてくれた優太には改めて感謝した。

 「優太ってさ・・すごいよね」

昨夜の塾の帰り道、透は思い切って言った。

 「何が?」

 優太はきょとんとしていた。

 「おれに話しかけてくれて勇気あるよ。その・・どーもね」

 優太は気まずそうな顔をした。

 「いや、おれ、勇気なんてないよ。透のほうがずっとすごいよ。みんなに、くだらないことやめようって本当は言いたかったんだ。でも言えなくて・・ごめん」

 二人は今まで話したことのなかったクラスの話をした。女子は穂積を中心によくまとまっていること、男子にも穂積のことを可愛い、好きだと言う者が多数いるので、いつの間にか穂積の意向を皆が気にするようになったこと。優太は自分でも分析するようにゆっくり話した。優太は、真杉が転校してきてすぐに穂積の機嫌を損ねた出来事についても知っていた。

 「たいした話じゃないんだけど。メロってあだ名はメロディから来てるの知ってた?穂積の下の名前は音佳っていうんだ。音だから、メロディ」

 「へー、そうだったんだ」

 「そのことを誰かが真杉に教えたんだろうね。そしたら、真杉がこう言ったらしい」

 音なら、サウンドじゃないの?メロディって旋律って意味でしょ。

 「わああ・・」

 真杉なら言いそうだ。馬鹿にするつもりもなく。そして真杉はやっぱり英語が好きみたいだ。

 「そんなこんなでメロは真杉にむかついてしまいましたとさ。・・透からしたら、おれたちって本当にくだらないよね。でもさ・・メロにもいいとこあるんだよ」

 優太が苦笑いしながらも、真剣みを帯びた口調で言った。

 うん、そうかもしれない。

 青白い顔で、真杉のために雪の道を走ってくれた穂積の姿が浮かぶ。

 穂積よりも、クラスの他の人たちの方が気味が悪い。穂積の顔色を伺って行動するなんて。

 だけど。

もう三月になっていた。すぐに卒業だ。卒業したら・・中学生になる。中学校には、青鷺小学校とあと二つの小学校から生徒が来るらしい。つまりこのクラスのメンバーもやっとシャッフルされるわけだ。長きにわたるメロ帝国の解体かもね。と透は半分冗談、半分本気で考えた。

 そうなったら案外穂積が一番ホッとするのかもしれない。

 透は卒業文集のアンケートの最後、「クラスのみんなに一言」の項目にこう書いたのを思い出した。

 「Good bye, 6-1」

 きざだろうか。手抜きと思われそうな気もする。だけど、これにはいろんなものが詰まってるんだ。恨みと感謝と。数か月分にしてはたっぷりの思い出と。

 戸が開いて真杉が入ってきた。手には学級文庫の『ゆきおんな』を持っている。どうして真杉が無視されるようになったか、あとで教えるって言ったじゃないかと透が問い詰めたら、今日の放課後教えてくれることになったのだ。

 「ほら、ここ」

 入ってくるなり、真杉は本の最後の奥付のところを開いた。オレンジ色の7、8センチ四方くらいの封筒のようなものが糊付けされている。これが何かは真杉が前に教えてくれた。昔の貸出しシステムの名残りだ。

 「このカード入れるとこにさ、穂積さんは手紙を入れてやり取りしてたみたい」

 「手紙?」

 「そ。秘密のやり取り。たぶん・・相手は男子?穂積さんがここに手紙を入れる。相手はここから出して読む。返事をまたここに入れる。学級文庫の本なんて誰も読まないからちょうどいいと思ったんじゃない?」

 「・・てことは、噂も?」

 「そう。誰も読まないように、『ゆきおんな』の本を最後まで―ここがミソだよ、最後まで読まなきゃこの手紙には気づかないからね―読んだら呪われるって噂を流したわけ」

 「ところがそれが裏目に出たと。噂に食いついて本を読むばかりか、噂が誰から始まったのか調べるような変わり者がいたってわけか」

 「うん。わたしも最初に読んだときは気づかなかったけど。わたしがこの本を読んでることに気づいて、穂積さんたちはすぐ手紙の置き場所を別の本に変えたみたい。学級文庫の、なんだっけ、別の本を読んでたらさ、その本の最後のカード入れに手紙が入ってた。それで、全部わかった。最初はこれが『ゆきおんな』に入ってたんだって」

 「秘密を探られてると思って、穂積は真杉に腹を立てたわけね」

 雪女の子孫らしい穂積が、手紙を隠すのに『ゆきおんな』の本を選んだのは、不思議な巡りあわせだ。

 透は、真杉が穂積に「中身は読んでない」と言ったのを思い出した。あれは手紙の中身のことなんだ。

 「本当に、手紙の中身は読んでないの?」

 透は怪しむように尋ねた。自分だったら読んでしまう気がした。

 真杉は心外そうに眉を上げた。

 「なんだろって思って紙を開いたけど、メロへ。って字が見えたからそれ以上は読まなかったよ。わたしさ・・正直、そんなこと興味ないんだよね」

 「カッコつけちゃって」

 穂積の弱みを握れるチャンスだったかもしれないのに、手紙を読まなかった真杉をちょっと尊敬した。が、そうは言えず透は茶化した。あの余裕ぶった穂積が秘密のやりとりを楽しんでいたなんて、案外可愛いような気もする。余計な噂を流すあたりがだいぶ抜けてるし。

 「あれ?噂は穂積じゃなくて高橋さんまでさかのぼったんじゃなかった?」

 高橋さんは誰から聞いたか覚えてないということだった気がする。

 真杉は苦笑しながら言った。

 「うん。それも穂積さんの策略というか。あの聞いて回った日は高橋さんが休んでたから、穂積さんは高橋さんに発生源を押し付けて、高橋さんから聞いたって嘘をついたんだろうね。で、後で高橋さんと口裏を合わせたんだと思う。でも高橋さん、嘘がうまくなくて、すごく困ってるから、これはなんかあるなって思った」

 「やっぱこえーな。・・あ!」

 透はひらめいた。穂積の手紙の相手はきっとマコトだ。確か啓二が、マコトなら本を読んでるかもしれない。よく学級文庫のところにいるから、と言っていたのを思い出したのだ。それに透もマコトを学級文庫のところで目撃したことがあった。そして、たぶん、相合い傘を書いたのも、マコトだ。

 「黒板に書いたの、誰かわかった。たぶん手紙の相手だよ」

 「え?誰?」

 真杉はそれはわからなかったらしく、目を見張った。

 「憶測でものを言うのはちょっとなあ」

 前に真杉が言った言葉を使ってみた。真杉はちょっとーと笑いながら知りたそうな顔をしている。

 「じゃあヒント。野瀬透ってさ、漢字で書いてあったんだ。瀬も透も小学校で習わない漢字なのに。そんなのが書けるやつ」

 自分の名前の漢字だから逆に今まで気づかなかったが、これをさらさらと書ける人間は限られる。穂積でもない。穂積が黒板に書く文字は覚えていたが、あの字ではなかった。あーと真杉はわかった顔になった。

 穂積の命令でやったのか。『ゆきおんな』のことを探られるとまずいと思って自分で考えたのか。それはわからない。あの優等生のマコトが、わざわざ早朝に登校して几帳面な字で黒板に落書きをしているところを想像すると、ちょっと笑える。

 前の透だったら怒りや気味の悪さを感じただろうが、笑いがこみ上げてきたのが自分でもおかしかった。真杉の図太さが移ったのかもしれない。というか、前には大事件と思っていた落書きのことが、今ではたいしたことと思えなくなっていた。

 この前、姉に言われた台詞を思い出す。

 「あんた、前はもっと神経質っぽかったのに、なんだかふてぶてしい顔になったね」

 誉め言葉と思うことにして「どーも」と返すと、杏香は呆れたように笑っていた。

 「じゃあ、わたしたちが気まずくなるように書いたっていうわたしの推理は当たってたのかな」

と真杉。

 「そうかもね」

 実際には逆につるむようになってしまったが。透はなんだか恥ずかしくてそのことについてはそれ以上話さなかった。

 「やれやれ。とりあえず一件落着、なのかなあ。『ゆきおんな』についても、クラスの問題についても」

 「そうだね。あのさ」

 真杉はちょっとためらってから言った。

 「ありがとう。この前、簡単に許さなくていいって言ってくれて。腹を立てるのは恥ずかしいこと、許さないのは恥ずかしいことってなんとなく思ってたけど・・・そうでもないのかなって思えた」

 透は困った。照れくさくて真杉の顔が見られない。やっと

 「んなこと言うけど、簡単に許しちゃったじゃん」

 と呟くと、

 「だって!わたし、遭難してたら雪女に助けられたんだよ?こんな体験した人、そうはいないでしょ。もう許すしかないよ」

 と真杉は目を大きく見開いて力説する。

 なんだそりゃあ、と透は力が抜けて笑った。


 卒業式。

 透は緊張しながら卒業証書を受け取った。さんざん練習したとおりにお辞儀をして壇上を歩いていると、カシャカシャというカメラの音がした。お父さんだろうか。

これも歌のテスト同様、出席番号順だ。透は無事に自分の椅子に座ると、ぼおっとクラスメートを見守った。今日はいつもよりみんなおしゃれをしている。真杉でさえ、紺色のワンピースを着て大人っぽく見えた。

 明日から春休みだ。透は真杉が前に言ったことを思い出した。

 「『ゆきおんな』については一件落着じゃないよ。本当に火浦っていう姓が雪女の子孫なのか、調べるの。とりあえず穂積さんのおばあちゃんに話を聞きたいし」

 「まだやるの」

 「野瀬くんもやろうよ」

 真杉は楽しそうだった。

ちょっと待った。火浦家はそれを探られたくないんじゃなかったっけ?三十年前に藤井さんに意見した「ご隠居」さんがまだ生きているかはわからないけれど。真杉が興奮して乗り込んでいくのを思うと透はちょっと慌てた。

 「あー、その前にさ、醍醐さんのところに行ってみない?おれたちの考えたことで合ってるか、答え合わせしてもらおうよ」

 そうだね!と真杉は目を輝かせた。

 「醍醐さん、物語が近いって言ったね。『ゆきおんな』は、本当に私たちに近いところにあったもんね」

 なんて話をしたのだった。春休みも忙しくなりそうだ。

 式次第の最後は、『今日の日はさようなら』の合唱だ。

 六年生は揃って立ち上がった。穂積はピアノの方へ向かい、マコトは指揮棒を持って前に立った。二人とも緊張しているのか、いつもより白い顔をしている。がんばれ。と透は心の中で呼びかけていた。


 いつまでも絶えることなく友達でいよう

 明日の日を夢みて希望の道を


 次は真杉のソロだ。なぜか心臓がどきどきした。真杉がんばれ。


 空を飛ぶ鳥のように自由に生きる

 今日の日はさようなら またあう日まで


 澄んだ声だった。のびのびとして、でも少し寂しい雰囲気も出ていた。まだ三番も残っているが、ソロが終わると客席から拍手が沸いた。間奏の間、思わずといった様子で拍手している六年生もいる。透は、陽介が拍手していることに気づいた。

 それから、それからあのとき真杉はなんと言ったんだっけ。そう、思い出した。

「今なら、青鷺町が好きって言えるかも」

「そう?」

 「うん。昔々、異邦人の雪女を―転校生の私たちと比べものにならない、究極のよそ者を―さ、ここの人たちは守ってくれたんだから」

 真杉はとびきりの笑顔で言ったのだった。

                                     完


参考資料

小泉八雲著 山本和夫訳『怪談』(2005)ポプラ社

作詞・作曲 金子詔一『今日の日はさようなら』

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