第5話 高校生になった彼は永訣の朝を読んで昔いた奇妙な生物を思い出した
彼は学校から戻ると、冷蔵庫から麦茶、食器棚からグラスを取って二階へとあがった。家には誰もいないらしかった。
容赦ない直射日光を避けられるだけでもまだましだが、扇風機がないと耐えられる暑さではない。
部屋に入ると、ほとんど中身がなにも入っていないバッグを投げ捨て、小さな折り畳みテーブルに麦茶とグラスをおいた。朝からつけっぱなしだった扇風機の前に立って、白いシャツの内側に風を通した。ぱたぱたはためくシャツのボタンの隙間から風が抜ける。膨らんだ胸は不格好だが、こうして風を内側に通すと、汗で湿ったシャツは乾くうえに、体温も下がる。一石二鳥だった。
冷蔵庫から出したばかりの麦茶の容器の表面が濡れていた。水滴が垂れるのも気にせずグラス一杯に注ぎ、一気に飲み干した。
しばらく扇風機の風にあたってさほど暑さも感じなくなると、通知表を一階に置いておくのを忘れていたことに気がついた。億劫だったが、母が帰ってから渡したのでは面倒が増えるに違いない。今のうちにこっそりと居間のテーブルに置いて、さっさと二階に避難するのが良策だと思い、投げ捨てたバッグを開いた。
通知表と連絡プリント、筆箱以外に何も入っていない。
終業式の前にあらかた荷物は持ち帰っていた。無計画な友人たちは、今日になって大量の荷物を持ち帰る羽目になっていたが、彼は特にそれを手伝うでも馬鹿にするでもなく、恒例行事だと思っただけだった。
誰もいない居間のテレビは、ほとんど誰も見ない。去年の暮れに父が世を去り、母が働きに出るようになってからは、一緒に食事をすることはなくなった。不思議とテレビを見ることもなくなった。
教員だった父はそれなりに博学で、古い人間の割にはテレビというものに信頼を置いていた。教養を得るにはテレビだって悪くはない、としばしば口にした。確かに、公営放送の歴史や科学のプログラムは学びの助けとなる。それでも、本を読む方が効率が良い。
通知表を居間のテーブルに置くと、なんとはなしに父の書斎に足を踏み入れた。最後に入ってから、もう二年以上経っていた。
書斎は父が死んだ時のままなのだろう。母が時々は掃除くらいしているのか、埃っぽかったり、カビ臭かったりということはなく、かえってそれが、父が死んだことを彼に実感させた。
父が生きていた頃は、もくもくと立つ紫煙と、たゆたう埃ばかりが宙を埋めていた。整然と並ぶ本の上にも、埃は積もっていない。その中の一冊が目に留まる。手に取った。ドストエフスキーの『罪と罰』だ。
小学生の頃に読んだ小説だった。記憶によれば、父が勧めてくれたのだ。それにしても父も、自分の息子とはいえ、難しい本を勧めるものだ。
彼はパラパラとページをめくりながら、よくもまあこんなに細かな字がぎっしりと詰まった小説を小学生が読めたものだと思った。
あの頃はなにかに夢中になると、他のことの一切に注意がむかなくなった。今となってはなにに夢中になっていたのかも思い出せない程度のことなのが不思議だった。
中には所々、線が引かれているようだった。中巻を開いてみると、こちらも所々線が引かれ、下巻も同じだった。
カーテンを開けた。
雲の子を散らしたように、埃がふわぁあっと拡がった。夏休みは始まったばかりだというのに、奇妙に空気がからりと乾いている。
ファインダーから覗き込んだように、窓にぽっかりと青空があいている。
——くすくすくす。
少女の笑い声が聞こえた。彼は確かに、少女の笑い声らしいと思ったが、すぐに考え直した。記憶の深い底からあがる微かな泡沫のようにはかない感触だった。呼吸がとまる。水族館の中のような青い光が書斎を一瞬にして埋めると、黒く潤んだ瞳で、誰かが彼を睨め付けている気がした。
——ヒュー、ヒュー。
寝息の後に、チューチューとねずみのような声が聞こえた。彼は反射的にカーテンを閉じた。
蹂躙するかのような眩しい太陽の意味を詮議したところで、暗い記憶が詳らかになるものでもないだろうと、彼は夏の空を厭うた。
窓の外を飛ぶ雀の翼はあまりに小さく、頼りなく見えた。どうしてあんなに小さな翼で飛べるものだろうか。風が強い日には、空に一口で飲み込まれてしまう。弱いというのはそれだけで罪なことで、それなりの罰が与えられる。
もう少しで届きそうなところに手を伸ばして、それが本当に触れたいものなのかと躊躇った刹那、遠ざかる。
——届かない。
「駄目だと思った時には、一度諦めてしまうのもいい」
そう言ったのは父だった。
世の中には人知の至らぬことなど無数とある、不可能な領域への挑戦は無意味なのだから、別の方向へと意識を向けて、可能な領域をしばし散策してみればいい。しからば可能不可能の領域に変化が生じるものなのだから、あきらめが結果として道を開くということもある。たいていの場合、あきらめによって道は閉ざされるが、あきらめにだってちょっとしたこつがある。大切なものを見誤らないことだ。見誤りさえしなければ、やがてなるようになる。
いつもは理知的な父も、その時ばかりは雰囲気頼りの頓珍漢な論理を披露した。
そもそも父が息子に諭すこととして「あきらめ」というのがふさわしいものだろうかと、当時は疑問に思ったものだが、高校生にもなれば、父のいわんとしたことの一割くらいは、彼にも理解できた。
あきらめろ、という意味ではなく、あきらめないために一時的にあきらめることで逆説的にあきらめないことが可能だと言いたかったのだ。
——僕の勝手な解釈だけど。
三冊の文庫本を手に、二階に戻った。
読むでもなく学習机の上に置くと、また麦茶を注いでから、扇風機を自分に向けた。ベッドの側面を背もたれにして寄り掛かった。バッグが開いたままだったので、閉じようとして気がついた。空っぽだったはずのなかにまだ、教科書が一冊、取り残されていた。
——国語。
国語教師の息子なのに、一番苦手な教科が国語とは、と父はよく言ったものだった。
彼は国語が嫌いなわけではなかった。五教科九科目の分類では、数学と理科についで好きだった。
高校に入ってからも、十段階評価の六か七、別に悪い成績ではなかったが、他の教科と比べると、いくらか見劣りした。
教科書を開くと、必ずある作品に飛ぶようにできていた。
宮沢賢治の詩『永訣の朝』だ。
教科書をもらった日、新しい教科書のインクのにおいが嬉しくて、何度かページをめくった時に開いたのがそのページだった。
読んでみた。春のこと。ここいらでは四月に雪が降ることなどない。とうに桜も散っていたくらいだ。なのに、水分を含んだ重たいみぞれがぽたぽたと胸の内に降るような冷たさを感じた。そしてそれはだんだんと溶け、底に溜まった汚い澱を濯ぎ、ついには冴えた冬の朝のような清々しさだけが残った。
その日のうちに、『永訣の朝』について調べ、宮沢賢治が妹のことを書いた詩だと知った。
妹などもったことのない彼にも、宮沢賢治と同じように、大切ななにかがあったはずだ。曖昧な感触。なにも失わずして、その夕日がとろりと垂れたような温もりを、感じられるわけがなかった。
当時は父もまだ生きていた。それよりももっと以前、ちょうど『罪と罰』を読んだころだったはずだ。
——ああ、ソーニャ。
マドレーヌの香りに、唐突に記憶を想起するのとは少し違っていて、感情よりも遥かに具体的な断片が、はらはらと舞い降りてきた。
黒い瞳。銀色の毛並み。夏休みの間に腰のあたりほどの体高になった。猫とも犬とも、羊とも山羊とも言えないその妙な生物は、虹色に光る鱗で覆われた、硬い尻尾を持っている。
「可愛くないやつだ」
そう言ったのは母だったろうか、父だったろうかと彼は思う。
「K氏に押しつけられたのだから仕方がない」
そう言ったのはきっと、父だった。
ジャズのように軽やな歩みを見て、その小気味良さに愉快になったのも父だったはずだ。好物がキャベツの芯だと気がついたのは母だった。
今でも生えている庭の楓の下に穴を掘って、そこから彼を見つめていた。彼のほうでも、縁側から暗い中で光る瞳を見つめていた。二人の距離はいつも遠かった。遠いからこそ近づこうと試みたのは彼だった。
夜の空に輝く星に焦がれるように、いつしか彼女に憧憬を抱いた。嬉しいという言葉で語れるほどに、彼女との時間は単純で、それ以外になにものをも必要としなかった。
「ソーニャ」
遠い記憶に向かって語りかけるものの、そんな声が彼女に届くわけがない。夏が終わると同時に、まるでそれは一瞬の夕立に見た虹のように、またたくまに薄れて消えてしまった。
「ソーニャ」
運命や宿命という言葉で片付けてしまうには惜しい。彫刻にして世界に彫りつけてやりたいと思うが、彼にそんな技量はない。すると、どうすればいいだろうか。
「駄目だと思った時には、一度諦めてしまうのもいい」という父の言葉を思い出した。彼の祈りは、いつか翼になる。憎しみにも似た彼のソーニャへの愛は、失われてなどいない。
「万事これでかまわないのだ」
自分に言い聞かせるようにそう言って、押入れの戸を引いた。どこかに、過去の夏休みの自由課題が隠されているはずだ。
「ただいま」という母の声が聞こえた。彼は父が死んで以来、はじめて「おかえり」と口にした。
ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワという名前はいささか長すぎる testtest @testtest
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