第4話 ソーニャの犯した罪と名を負う罰という許し
ソーニャが家の戻るまでの間に彼がしていたことと言えば、もっぱらインターネットでドストエフスキーの『罪と罰』に関して調べることと、作品を実際に読むことだった。
「小学生には難しいかもしれないわね」といった母は、『罪と罰』を読んだ事がない。父は多読だが、母は気まぐれに大衆文学を手に取る程度だった。
彼はいい加減なことは言わないでくれと母にあきれながらも、思ったことを口にはしない。面倒なことにかかずらうことはしないと心に決めていた。
「うん、そうかもしれないね」と母の熱量に合わせて、彼もいい加減な返事をした。
『罪と罰』を読み進めるにつれ、奇妙な感慨が湧いた。
ソーニャの身の上に起こったことは、彼女がその責めを負うべき罪ではなかったにもかかわらず、罰は全て負うことになる。馬車に轢かれて死ぬマルメラードフも、流刑になるラスコーリニコフも、真の意味で罰を受けたとは言い難い。
——不公平だ。
罪と罰をあまねく均等に割り振られるわけではない、罪も罰も人知や人力の及び得る領域にない。振りかざされる横暴な不条理に対し、人々は大地の片隅で怯え、身を縮こまらせ、ただ震えている。もし神というものがこの世にあるのならば、何故そのような試練を人に与え賜うたのだろうか、と彼は問う。
まだ小学生だが、しかし世の不条理を知るには、成熟した大人である必要などない。子供であることで一層その真実を明晰に見通せることもある。大人以上に自分の無力を感じる彼は、艱難に喘ぎながらも健気に生きるソーニャを思い、なおさらおのれの卑小さを知る。キャベツの芯ひとつとっても、独力で用意してやれない。
銀色の毛並み、潤んだ黒い瞳、ヒューヒューと鳴らす寝息。ひょろりとした細い尾は、時々カラフルな光を放つ。そんな彼女してやれることなんてひとつもない彼にはその事実こそ、彼に苦痛を与える罰なのだった。
——でも。
彼にはわかる。その苦痛には、かすかに快楽が潜んでいる。
ソーニャにとってラスコーリニコフやマルメラードフの存在は、神から授けられた一種の恩寵、彼女が神に近づくための手段だったのではないか。罪に対して与えられる罰ではなく、不条理に課される故なき罰だからこそ、彼女はそこに神からの特別な恩赦を得たのではないか。
ソーニャの篤い信仰心は疑うべくもない。だが、そこには神との経済的な取引を履行するかのような俗世的な契約の存在が感じられる。つまり、ラスコーリニコフやマルメラードフに対するソーニャの献身は、彼女の高潔さからというより、極限に至る彼女の凡庸さから生じた行為なのかもしれない。
——だとしたら、やはりソーニャは罰せられるに値する罪を、あらかじめ犯しているのではないか?
彼はここで、鶏と卵のジレンマに陥っていることに気づいた。ラスコーリニコフがソーニャに対して自分と似ていると述べた意味が、ようやく理解された。罪と罰とが反転している、というより、その場で延々と循環している。そこには苦痛と同時に快楽があり、苦痛のために快楽を求め、快楽のために苦痛を求め、逃れることのできない歪んだ思考の牢獄を編み出している。ラスコーリニコフやマルメラードフだけではないのだ。ソーニャも同じ穴のむじななのだ。
彼はノートに記した「ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワの名の由来」というページの最後に、循環問題という言葉を付した。
ソーニャはいなくなる前と戻って来てからとで、様子が違っていた。
キャベツの芯しか食べなかったのに、柔らかい葉や、ほかの野菜も口にするようになった。放浪の果てに食糧に困って選ぶ余裕などなかったのだろう、生のほうれん草に小松菜、レタス、白菜。根菜は好まぬらしく、よく煮た場合にのみ口にしたが、時によっては吐き出してしまう。胡桃やアーモンドなどの木の実は好んで食べるようだ。なぜかピーナッツは食べない。果物は林檎、石榴、葡萄、梨、無花果などを食べる。肉には見向きもしない。魚も食べない。
K氏の話では雑食ということだったが、どう見ても草食だ。
検証するため、彼は一度、彼女の歯を入念に調べた。
犬歯は大きく鋭かった。これは肉食動物の特徴のひとつとして数えられるだろう。だが、奥歯は平たく、草食動物のように草の繊維を細かくすりつぶすのに都合の良いように見えた。となると雑食であるというK氏の言葉も、あながち嘘ではないかもしれないと、彼は思った。動物の性質としてソーニャが雑食か否かという以上に、なにか他の理由が、彼女を食肉から遠ざけているのかもしれない。
かくして、彼の観察は続く。
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