第3話 トウソウの果てに見つけた、新しい世界へ

 家に戻ったソーニャは、傷だらけだった。

 銀色の毛は泥に汚れ、シャボンと水で流してやった。拭いてやる間もなく、すぐに傷口から血が流れ出し、表面を赤黒あかぐろく濡らした。

 いなくなってから一週間が経った晩のことだった。


「母さん、包帯ある?」

「先に消毒してあげなさい」

 彼が消毒液で湿した脱脂綿だっしめんで傷口を拭いてやると、ソーニャはブルブルと小刻こきざみに震えた。喜ぶときに似たような動作をすることもあったが、チューチューとねずみのように鳴いている。

 それは、苦痛や不快を感じたときに出す声だった。

「母さん、こいつ病気になったんじゃないかな。なにか様子が変だよ」

「ああ、死ぬかもしれないねえ。明日病院に連れて行ってあげなさい」

 母がこともなげに死という言葉を使ったことに驚いたものの、彼は治療の手を止めるわけにはいかなかった。

 三ヶ所あった胸と腹の傷を消毒して、包帯でぐるぐる巻きにしてから、家のなかの冷房の一番効いている居間のソファーに寝かせ、毛布をかぶせた。しばらくすると、ヒューヒューと寝息を立て始めた。


 ソーニャがはじめて家に来た晩のことを思い出した。

 緋色の風呂敷からのぞく黒い瞳。その印象の強さは今も変わらない。

 家を出る前よりずっと痩せていたが、野性味を取り戻したからか、いくらか精悍な顔立ちになっていた。毛布からはみ出したうろこのある尻尾は、その表面が以前よりも遥かに硬くなり、亀の甲羅にも似ていた。

 彼は居間にノートパソコンを持ってくると、ソーニャの横に腰掛けた。彼女の様子を見守りながらも、観察を怠らない。


 彼は亀について調べた。


 亀の肩甲骨は、肋骨の内側にある。甲羅を形成するのは皮膚からなる骨、すなわち皮骨というものから成ると考えられていたが、亀の甲羅の大部分は、成長過程で扇状おうぎじょうに伸びた肋骨ろっこつらしい。

 ソーニャの尻尾の鱗は、どうやら亀のものとは違う。

 細かく表面を覆った虹色に光る皮膚は、魚類のようにハイドロキシアパタイトを主成分とした真皮の内部に発達した皮骨ひこつか、あるいは一部のアシナシイモリなどに残る鱗の一種(これは魚類と同じものらしい)か、はたまた爬虫類はちゅうるいのようにケラチンからなる表皮起源の鱗なのか、調べてみる価値はありそうだった。

 触れてみると尻尾だけはひんやり冷たい。ねずみの尻尾と爬虫類の尻尾のちょうど中間くらいに位置するのではないかと、彼は思う。


 ソーニャは常に、どこともいえない微妙な位置に属していた。

 人間からは遠い。動物であることは確かだが、分類はしにくい。それゆれ、不思議な悲哀ひあいを有している。憂いのある艶やかな瞳で見つめられると、どうにも胸が鳴り、その銀の毛並みの表面を撫でてやりたくなった。

 ——どうしてだろう。

 彼にとって最大の謎のひとつだった。


 その感情の名前を、彼はまだ知らない。


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