第2話 ソーニャは今日も鳴く、凪ぐ夕に、泣く孤独
ソーニャの声はいくらか哀愁を誘う。
子猫が鳴くような弱々しさもなく、羊が鳴くような震える響きもない。夏の夕暮れ時、打ち水したあとの、土が水を吸う音に似ている。
それでいて、どこかさもしさがある。人への媚のせいなのか、あるいは中途半端な生き物として生まれてしまったことへの後ろめたさのせいなのか、彼にはまだわからない。
実際、どちらでも良いのかもしれない。いくら言葉を尽くしたところで彼の思いはソーニャに伝わらないし、ソーニャの鳴き声の意味を読み解く事だって不可能なのだ。
それほどまでに、彼と彼女を隔てる壁は分厚い。
日の光を嫌う性質があるため、ソーニャは日中ほとんど外に出ない。
夕暮れ時になると庭に出て、前足をバケツに浸したり、楓の根元に大きな穴を掘ったりしている。秋になれば一面が、紅い葉の錦で埋まる。風流を感じたければ、結構この庭だけで事足りる。
空気中に残る昼の暑さを嫌ってか、掘った穴にすっぽり身を隠すと、瞳が薄暗がりに光った。
猫の眼球の網膜の裏には輝板という層状の細胞があり、それが反射板の役割りをして、夜には光って見える。彼女の瞳も同じ仕組みだろうと彼は思った。
彼は縁側に座って彼女を観察するものの、彼女の方もまた、彼を穴のなかから観察していた。
しばらくして、母が彼を呼んだ。晩ご飯の時間だ。
ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワ。K氏はその名を、ドストエフスキーの『罪と罰』の登場人物から拝借した、と言った。
彼がソーニャについて調べてみると、Wikipediaには以下のようにあった。
『ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワ (ソーニャ、ソーネチカ)
マルメラードフの娘。家族を飢餓から救うため、売春婦となった。ラスコーリニコフが犯罪を告白する最初の人物である。』
この説明では、ソーニャのことはまるでわからない。ヒントになりそうなのは、マルメラードフとラスコーリニコフの二人。続けて彼は、その二人について調べた。すると、以下のようにあった。
『セミョーン・ザハールイチ・マルメラードフ
居酒屋でラスコーリニコフと知り合う、飲んだくれの九等官の退職官吏。ソーニャの父。
仕事を貰ってもすぐに辞めて家の金を飲み代に使ってしまうという悪癖のため、一家を不幸に陥れる。最期は馬車に轢かれ、ソーニャの腕の中で息を引き取る。』
『ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ(ロージャ)
孤独な主人公。学費滞納のために大学から除籍され、ペテルブルグの粗末なアパートに下宿している。』
どうやらラスコーリニコフが主人公であるものの、なぜか説明が短い。
一方、マルメラードフの説明は、ラスコーリニコフやソーニャに比べて長い。収入をすぐに飲み代に使ううえに馬車に轢かれて死ぬ、この説明だけで十分ろくでなしであることがわかるものの、彼はマルメラードフに同情しないわけではなかった。なにしろ、ソーニャの父親なのだ。
ラスコーリニコフも、ろくでなしであることは変わらない。学費滞納のために大学から除籍されただけではない。Wikipediaの『罪と罰』のあらすじには、次のようにあった。
『それでも自分は一般人とは異なる「選ばれた非凡人」との意識を持っていた。』
とんだ自惚れだ、と彼は思う。マルメラードフのようにろくでもないどころか、自分が特別な存在だと思っているしょうもない下賤の輩ではないか。
そしてマルメラードフに同情した時と同様、すぐに思い直す。
Wikipediaに『ラスコーリニコフが犯罪を告白する最初の人物である』とあるように、ラスコーリニコフは売春婦に身を落としたソーニャを信じた、数少ないもののうちの一人なのだ。酷く自惚れているものの、そこまで悪い人間ではない。
彼の夏休みの自由課題は、あまりに込み入った研究になりそうだった。
そもそもソーニャという名を誰から拝借したかを調べ尽くし、ラスコーリニコフやマルメラードフとの関係を吟味したところで、K氏がそう名付けた理由は明らかになりそうにない。
であれば、直接尋ねてみるか、あるいは父に頼んでみればいい。
彼はノートパソコンを机の上に開いたままにして、一階へと下りた。父は居間のソファーに横になり、テレビを観ていた。
「そりゃおまえ、神秘的なところがあるからだろう。ソーニャは信仰心に篤い、敬虔なキリスト教徒というだけじゃあない。ラスコーリニコフにとって彼女は、高潔なる自己犠牲を払った、いわば神の使いのようなもの、あるいは神そのもののような存在なのだろう。『罪と罰』なら書斎にあるから読んでみるといい」
父はテレビから一度も視線を外さず、締め括った。
「それに、ソーニャの銀色の毛並み、ありゃおまえ、北の寒いところに住む生き物じゃないと、ああはならないからな」
父に頼んだところで、K氏に尋ねてはくれない。彼はそれ以上追求する気にはならなかった。
二階に戻る前に、ソーニャを家のなかに入れておこうと思った。居間を抜けて縁側に出るが、庭に彼女の姿はない。楓の根元の穴には、銀色の長い毛と蝉の抜け殻、それに数羽の雀の死骸があった。
「ねえ、ソーニャ見なかった?」
縁側から、居間にいる両親に尋ねた。
「さっきキャベツ食べたから、しばらく帰らないかもね」
母がおざなりに答えた。
「しばらくって?」
「朝には帰ってくるだろう。あの子は明るいのが嫌いなんだから」
父がおざなりに答えた。
彼はそういうものかと納得した。
それから一週間、ソーニャは家に戻らなかった。
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