ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワという名前はいささか長すぎる
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第1話 ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワという名はいささか長すぎる
彼女がはじめて我が家を訪れた日を、彼は忘れてはいない。
緋色の風呂敷包みのなかから、鹿のように黒々と濡れた瞳をのぞかせていた。
毛は長く、暗いところでは金色に見えたが、翌日、太陽のもとで見ると、鈍く輝く銀色だとわかった。
脚は短く、地面を引きずるように不格好に歩く。実際は毛が長いせいでそう見えるだけで、案外それで苦労はないらしい。
しいて言えば、長すぎる子供のズボンの裾のように地面に擦るため、せっかくの綺麗な毛の銀色が、どうにも汚らしく見える。
仕事から戻った父の腕からその生き物を受け取ると、彼女はしばらく腕のなかであばれた。さっきまで大人しく眠っていたのが嘘のようだった。それでもなんとか押さえ込むうち、疲れてしまったのか、ヒューヒューと寝息を立て始めた。その寝顔は美しかった。
基本的には雑食だから余った食べ物を与えておけば問題ない、とK氏はいったそうだが、実際は選り好みをするらしく、味の濃いものや辛いものを嫌った。
「動物なんだからそういうもんは食わんだろう」
彼の父が知ったような口を効いたが、父も彼と同様、動物を飼うのは初めてだった。
「これなんてどうかしら」
台所から母が顔を出すと、円錐からちょこちょことトゲが突き出した奇妙な形をした薄黄緑の物体を、ポイっとその動物に向かって投げた。彼女は特に吟味するでもなく、薄黄緑の物体を口にした。
「あら、わからないものね」
母が台所へ戻ると、彼と父は顔を見合わせ笑った。
彼女の好物が、キャベツの芯だとわかった。
散歩に連れて行く必要はないらしい。大きな耳が周囲の雑音をひろいすぎてしまうために、街中ではむしろストレスになる、とK氏が言ったそうだ。
視力も優れているため、多くのことが見えすぎる。家という閉鎖的な空間である程度インプットする情報を制限したくらいの方が、彼女にとっては負担が少ないだろうということであった。
優しさゆえに彼女を部屋に閉じ込めるというのもわからないでもなかったが、彼はいくらか気が引けた。さながら御伽噺のお姫様だが、そのつぶらな瞳も、艶やかな体毛も、動物とあっては味気ない。
それでも、目の前の美しい動物に、十年という長いながい人生のなかでいまだ体験したことのないなにかがあるのではないかと、彼はひそかに期待していた。
夏休みの間、その動物と長い時間を過ごした。自由課題であった宿題のテーマを動物観察にすると、はじめて見た晩から彼は決めていたのだ。
どうやらまだ子供らしい。どこまで大きくなるかは、父もK氏も知らない。
なにかの雑種らしく、元々は猫に近いなにかと犬に似たなにかと、そこにいくらかうさぎとねずみが混ざっているとのことだったが、顔をよく見ると、どこか羊らしい気がする。
いや、あるいは山羊だろうか。
少なくとも哺乳類であることは間違いないとK氏は断言したが、尻尾の先端には、かたい鱗状の皮膚が覗き見え、角度によって虹色の輝きを放っていた。
彼はそれを爬虫類的だと思ったが、そうはっきりと口にしては、父やK氏、そして彼女に対しても、なんとなく悪いような気がした。
雌であることはすぐにわかった。
彼と父は最初の夜、ふたりでその両脚をひろげてたしかめた。雄と確認できる生殖器がそこにはなかったのだから、これは雌なのだろう。
二人はそう結論づけた。
それも今となっては、明白な事実だとは言い切れない気がする。彼は、またしても罪悪感を抱いた。
結果としてあの行為は、彼女をひどく辱しめ、貶める気がしてならなかった。
特徴を一つずつ、ノートに丁寧に記録した。
四つ足で立った体高は彼の膝下ほどで、もらって一週間が経過すると、膝上ほどになった。
毎日記録をとっていなければ、気付きもしない。実際、彼が父にそのことを報告したが、最初からそれくらいの大きさだっただろうと言われた。
散歩に連れて行けない分、時々は日の光にあててやらないと可哀想だと思い、彼はその動物を、額ほどの小さな庭に出してやった。
「チュー、チュー」
嫌がっていることがすぐにわかった。日の光を嫌う性質があるらしい。
『日の光を嫌う性質、あり。ただし、水の中では気にしない』
そう、たらいに水を張ってやると、嬉々としてその中を泳いだのだ。太陽はまだ高かったにもかかわらず。
彼は、その詳細もノートに記録した。
彼にとって彼女はいつしか掛け替えのない存在となっていた。そのくせ、まだ名前がないことに、その段になって気づいた。
「ところでこの動物、なにか名前はあるの?」
彼は父に尋ねた。
「さあ。Kに今度会ったら訊いておこう」
「うん」
かくして彼は、その名を知ることになる。
彼女の名前は、ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワ。
愛称はソーニャ。
長すぎる。覚えられるわけがない。
ならば最初から愛称で名付ければ良いではないかと思いながらも、彼はなにも言わなかった。
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