明るい彼女は幽霊なんか信じない
遠藤孝祐
明るい彼女は幽霊なんて信じない
「できれば働かないで暮らしたいなあ」
本気の願望は、女の子らしいチョップと共に破壊された。
ユウヒは瞳を尖らせている。
口元はへの字だ。非難めいている。
僕は目を逸らす。
「ユウヤくんは情けない」
「だって、自分が仕事をしている姿なんて、想像がつかないんだ」
「ワタシだってわからないよ。だから、ワクワクする」
「ユウヒは前向きだなあ」
「ユウヤくんが後ろ向きすぎるんだよ」
そうかもしれないと、納得する。
並んで歩いていると、時折白い影がよぎる。電柱の脇で、老婆が血まみれの赤ん坊を抱えている。苦痛の押し込められた金切り声が響く。
おどろおどろしい色彩に、ユウヒは一切気が付かない。
けど、僕にとってはいつものことだ。
空を見上げる。青色が紫色に浸食されている。夜が徐々に蝕んでいく。
暗がりへと踏み出すたび、人気はまばらになる。夜から逃げるように、人々は家へと帰っていく。何も見えなかったとしても、恐ろしい雰囲気を感じているのかもしれない。
ユウヒはキョロキョロと辺りを見回した。わざと街頭から離れ、暗がりへと僕を誘う。光が減じて、表情が曖昧に見える。
わずかに見える笑み。とびきりのチャンスを掴んだような、明るく輝く瞳。
「えい」
ユウヒは背伸びをして、僕にキスをした。
顔が崩れたおじさんが、僕らを見ていやらしく笑う。
ユウヒには見られないように、右手を振って払いのける。今だけは消えてくれ。
ユウヒは弾むように離れる。ステップを踏んでクルリと回る。
その足でどす黒い臓物を踏みつける。左右対称の葉っぱみたいな形。肺だろうか。真っ黒く汚れているから、喫煙者だったのかな。
「へへーん。ユウヤくんの唇をうばってやったぜい」
見えないのに、ユウヒはきっと真っ赤だとわかる。それは僕も同じ。
「ユウヒはいつも楽しそうだね」
「楽しいよ。ユウヤくんはどうなの?」
何かが腕をはいずりまわる。ぬめりとした感触。『お前は誰だ』という詰問をするような男の声。脳髄を揺さぶる。拳を握りしめ、不快を囁く五感に耐える。
ユウヒを見る。少しだけ安心する。
僕は精一杯笑う。
「ユウヒがいるから楽しいよ」
手をつないで夜道を歩く。喉がカラカラに乾いている。緊張か興奮か。それとも恐怖なのか。感情の源泉はわからない。
それでも、大丈夫。
『幽霊なんているわけないよ』
ユウヒはかつて、僕にそう言った。
なんでもないような声で。笑い飛ばすような口調で。明るい表情で。
ユウヒが信じないから、僕はそう信じられる。
血に染まる歩道も、穴の開いた通行人も、目を三つも持つ犬も。みんなみんな、夢か何かだと信じられる。
見通しが悪く、事故の多い交差点に差し掛かる。お互いに手を離す。家に帰るためには、ここで別れなければいけない。
「じゃあ。また明日学校でね」
ユウヒは大きく手を振った。
明日が来ることを、信じて疑っていないようだった。
「ああ。また明日」
ユウヒが信じるから、僕も信じる。
首にひも状の何かが絡まったが、僕は無視をすることにした。
目を覚ます。わずかに硬めのベッド。毎日洗濯されている、シミ一つないシーツには、清潔さに対する執念のようなものを感じる。
のしかかってくる悲痛な女も、金縛り中に首に当てられる手も、現れなくなって久しい。
クリーム色のカーテンで部屋は四つに仕切られている。ライトグリーンの壁紙を見ていると、心が落ち着く。ごそごそと人が動く気配。
とはいえ、いくら寮付きの職場だからといって、タコ部屋のような作りは勘弁して欲しい。
「失礼しまーす」
丁寧で柔らかいトーン。寮母のシライさんが朝の体調確認をしてくれる。
「お加減はいかがですか?」
体温計を脇に挟み、脈を測られる。
僕は「変わりないです」と答える。自然な笑顔を向けられる。シライさんは、瞬時に笑顔を作り出すことが得意だ。
この笑顔にやられて、不毛な恋に落ちている輩が、数多くいると噂されている。
着替えを済ませ、食堂に移動する。朝の時分は憂鬱なのか、死んだような顔をして歩いている人とすれ違う。死んだような顔というからには、生きている。死者に出会い続けるよりは、陰気でも生者に出会う方がいい。
集団で朝食を摂る。薄味の味噌汁をすすりながら、今日は面談日だったと思い出した。
上司の
シライさんに呼ばれ、面談室へ。
積み重なった書類。辞書のような分厚い書物。こちらからは見えない位置に、パソコンの画面が向けられている。唐辛子を塗られているような、ピリッと痺れる空気。
屋久中はパソコンと向き合っていた。
「最近はどうだ?」
気だるげに聞かれて、僕は余計なことを言うまいと心に決める。
「特に変わりないです」
「睡眠は?」
「とれてます。途中で目が覚めることもないです」
「食事は?」
「残すことはありません」
「作業はどうだ?」
作業内容を思い出す。
紙を丸めたり、ちぎってミキサーにかけたり、バラバラに砕いたタイルを組み合わせたり。数カ月周期で、やることは変わる。
働きたくないと思いながらも、実際にはなんらかの仕事をしている。現実とは残酷だ。
「時々疲れることもありますが、問題なくやれています」
「そうか。なら良かったな」
面談はあっさりと終わった。
よしよし。僕はユウヒに報告をしたいと考えたが、その場ではやめておいた。
昼休みとなり、散歩に出たいと希望した。
シライさんが先導し、僕は従う。僕はまだ新人なせいで、ドアを開けるためのカードキーが配布されていない。そのことが不満だった。
頑丈な扉を抜ける。せわしなく動き回る従業員たち。役割ごとに分かれた複数の部屋を通り過ぎる。
何かに責められているのか、神経質そうな青年が「うわああああ」と声を上げる。疲れ切った顔をした女性が彼を慰めている。母親なのかなと思った。
廊下でツナギさんとすれ違ったので挨拶をする。給料が入金されたことや、今後どうしたいのかなどの相談に乗ってくれる。マネージャーなのか、経理の人なのか、実は僕もよく知らない。
中庭に出る。木漏れ日を浴びて、少しだけ元気になる。ガラス越しではない、本当の光。
ふと、建物を振り返る。
四方は堅牢な建物に囲まれている。見上げると、鉄格子が窓枠にはまっている。まるで監獄のよう。
前を向いて進む。木々で囲まれた人工的なスペース。ベンチに座るユウヒを見つけた。
駆け寄る。
笑顔が迎えてくれた。
僕も笑顔を見せた。せめて泣かないように。
「ユウヤくん。遅いよ」
「ごめんごめん」
「でも、来てくれて良かった」
ユウヒは周囲を見渡した。
人込みは遠く、幸い二人きりだった。
ユウヒはいたずらっぽい笑み。何がしたいのかわかってしまう。
「えい」
ユウヒは不意打ちでキスをしようとしたが、それは叶わない。
ユウヒが背伸びをしても、彼女の唇は届かない。
ユウヒは不思議そうな表情をしていた。
僕の身長は随分と伸びた。ユウヒが不意打ちでキスができないくらいに、高く。
だから、僕の方がかがむ。
近づき、触れる。
感触が与えられないことだけが、いつもむなしい。
「びっくりしたよ」
「なにが?」
「ユウヤくんが、いきなり大きくなっちゃったからさ」
本当はいきなりじゃない。
ユウヒの身長は、中学生時代から変わっていない。
あの時と同じように、ちょっと背を伸ばせば届くと思っている。
僕の時間は、わざわいにも動いている。
その違いが、ユウヒにはわからないのだろう。
雑談をする。他愛もない話を。
幸せだって信じられるような、おかしくなるくらいになんでもない話。
会話の流れを切ろうとも、僕はユウヒに聞きたいことがあった。
「ユウヒ。幽霊っていると思う?」
ユウヒは迷信を否定するように笑い飛ばした。
「幽霊なんているわけないよ。ユウヤくんは心配性だなあ」
「そうだよね」
僕は同調する。
ユウヒがそう信じるなら、きっとそうなんだと思う。
ユウヒは幽霊を信じない。
自分が何者なのかについて、全く目を向けない。
だから僕も、そうしようと思う。
「じゃあ。また明日学校でね」
ユウヒは明日を信じている。
相変わらず、あの時のまま。
ユウヒはきっと知らないだろう。
僕が言おうとする言葉に、どれほどの深刻な響きを孕んでいるのかについて。
僕は神にでも悪魔にも祈りながら、心底の願いを口にする。
「ああ。また明日」
僕に何かあれば、ユウヒとずっといられる、なんて甘いことは考えない。
だって明るい彼女は、幽霊なんて信じていないのだから。
屋久中は薬の処方をいじりつつ、悠夜という患者について考えていた。
幻覚妄想状態が著しく、家族への暴力行為から入院に至った。
家族は支援を打ち切り、公的な補助を受けて生活している。
病院での生活を、まるで仕事場だと思っているように見える。
しかし、本当に病気なのかどうか、屋久中は疑っていた。
病状に含まれる、思考能力の低下は感じられない。幻覚妄想状態を疑いようはない。しかし、ありえないことを言う割には理路整然としている。
病状の不安定さもない。むしろ、幻覚が見えることで、安定しているように見える。
中学生の頃に交通事故で亡くなったという、恋人の少女。
見えるはずがない。いるはずがない。だからこそ、悠夜という青年は病気だという他ない。
働くこと、社会に出ていることを拒否している青年。
ふと、屋久中は青年の状況に想いを巡らせた。
病気だと疑われ、公的な扶助を受けて金銭面には安心ができる。
しかし、彼にとってはそれが目的なんだとしたら――。
誰よりも冷静で、誰よりも合理的な選択。
彼は本当に、病気なんだろうか。
病気じゃないとしたら、見えているものは、一体なんなのだろうか。
屋久中は首を振った。
仕事はまだ続く。外来患者を診なければならない。
屋久中は思考を打ち切る。
それでも、よぎる。
暗がりに見えた人影。間に合わないブレーキ。何かを壊した衝撃。
骨が軋み砕ける音。
これはきっと、悪い夢だ。
診察室のドアが開く。
まだうら若き少女。
頭から血を流し、手足はひしゃげている。
夕日に染まる血飛沫の色。
ゴキリと砕ける音を聞いたが、これはきっと幻聴なのだろう。
明るい彼女は幽霊なんか信じない 遠藤孝祐 @konsukepsw
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