第十六話 死の乾杯
佐山はこのところ、ひんぱんにこの薬学研究所の建物を訪れていた。玄関受付で滝口の名を出すと、内線電話を取り上げた守衛は「どうぞ、お二階に」とすぐに佐山を通してくれた。これもいつものパターンだ。
白衣を着た滝口は、実験用具を並べたデスクの前で、愛想よく迎えてくれた。
「お邪魔じゃなかったかい」
「いや。この時間は息抜きができるんだ。君と雑談するのが楽しみでね」
二人とも三十代のなかば。大学時代からの親友である。滝口は薬学の研究員になり、佐山は輸入雑貨業の経営者になった。
ここは滝口の専用実験室で、ほかに人はいない。佐山の目は壁ぎわにある戸棚のほうに向いてしまう。ガラス戸の内側には、ずらりと薬瓶が並んでいる。
半年ぐらい前、その戸棚から実験に使う薬瓶を取り出しながら、滝口がこう言ったことがある。
「この隅に置いてあるのが、近ごろ有名になったヒ素系の毒物さ。体内に入ると、五分後には変調をきたして、まずは命はないね」
「へえ、その白い粉がねえ」
そのときは、もの珍しげにこわごわとそれを見つめただけだった。しかし現在の佐山は、別の目でガラス戸の中を見ている。
(あの薬がぜひほしい。なんとか、ここから盗み出せないものか)
そう思い立ってからは、毒薬を盗む目的で、何度もここに来るようになった。しかし、なかなか機会がない。
ドアがノックされて、これも白衣を着た若い女性が顔をのぞかせた。
「あの、大村博士がお呼びですが」
それを聞くと、滝口は気の毒そうに佐山に言った。
「悪いが、ちょっと、上司のところに行ってくる。十分もしたらもどってくるから」
ついに機会が来た。滝口の姿が消えると、佐山はデスクの引き出しをそっと開けた。そこに薬品保管棚の合鍵が入っているのを知っていた。佐山は慎重に、しかし素早く行動して、毒薬を盗み出すのに成功した。
子どものいない佐山は、三つ年下の妻の百合子との二人暮らしだ。今日は誕生日なので、料理の並んだ食卓には、ワインのセットが置いてある。妻はまだキッチンにいる。佐山は、ワインの瓶の口を開けると、盗み出してきた白い粉末を、そっと流し込んだ。
「さ、乾杯しましょうね。お誕生日おめでとう」
向き合って二人が席に着くと、百合子は明るい声で言った。ワインの瓶を取り上げて、それぞれのグラスに注ぐ。「ありがとう」と答えた佐山は、グラスを手にする。同じように腕をのばした百合子と、目の高さでグラスを合わせた。
白い粉の溶けた赤ワインが、佐山ののどを流れてゆく。おれの命はあと五分なんだ。そして、なにも知らない百合子の命も同じだ。佐山は緊張でからだが震えた。
時間がない。五分以内に、おれの想いを百合子に伝えなくては。佐山は、早口でしゃべりはじめた。
「百合子。急いで言うから聞いてくれ。この不況で、おれの事業はもう立ち行かなくなった。だからおれは、自殺を決心したんだ。そこで、滝口の研究室から毒薬を盗み出した。ところが、いよいよ死ぬときになって、考えが少し変わった。
君をこの世に残しておくと、滝口に取られてしまう。君たち二人が最近、こっそり逢っているのも、実は知っているんだ。だから、君も道づれにしようと思って、ワインの中に毒を入れたんだよ。これも君を愛しているからなんだ」
思いがけないことが起きた。百合子がにっこりと笑ったのだ。そして、ゆっくりとした口調で答えた。
「あなたが研究所に通ってくるのは、毒を盗み出したいからじゃないかって、滝口さん、とっくに見抜いていたのよ。だから、あなたが来るときは、瓶のレッテルはヒ素でも、中身はただの白い胃薬の瓶と交換しておくのだって。なんとか、あなたに立ち直ってほしいから、私、滝口さんと会って相談していたの。そしてね、こう決まったわ。一度、あなたに自殺を決行させる。人間はそのような心の極限を体験すると、考え方がすっかり変わるのよ。それからは、死んだ気になって、全力で人生を立て直せるようになるんだって。
私もあなたを愛してるわ。そして滝口さんも、親友として、あなたが活力を回復するのを願ってるのよ」
女の万華鏡 大谷羊太郎 @otaniyotaro
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