ラムネ

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ラムネ



 自動ドアを抜けるとエアコンで冷えた肌に生温い風が触れた。吸い込んだ空気には湿気と熱が溶け合っていて、カラカラに乾いていた体の中を少しだけ満たしてくれた。ほんの少し体を動かしただけで、参考書とプリントの詰め込まれたリュックの重さがズシリと肩にかかる。

 ——第一志望を変えたいです。

 そう切り出した私に先生は「どうして?」と言った。

 志望校を決めた時は理由なんて聞かれなかった。今度もあっさり終わるだろうと思っていた私は、返ってきた言葉にうまく答えることができなかった。

 ——行きたい理由がなくなった。

 それ以外に答えなんてない。兄が通っていた大学。兄が住んでいる街。理由なんてそれだけだったのだから。

 足元に伸びていた自分の影がゆっくりと消えていき、顔を上げると今出てきたばかりの建物のガラスに空が映っていた。塾の名前に重なった夕日は青みがかった雲の向こうで柔らかな色を放っている。

 ——え、あら、そうなの。彼女? そう、一緒に。

 昨夜聞こえた母の弾んだ声が耳の奥で甦る。

 電話の向こうの兄の声は聞こえなかったが、母のその相槌だけで会話の中身は容易に想像できた。

 就職を機に実家を離れた兄が彼女を連れて帰ってくる。

 その意味がわからないほど私はもう子供ではなかった。

「……」

 俯きため息をついた私の耳にカラコロと楽しげな音が届く。意識を前に持っていくと、浴衣姿の女性がこちらへと歩いてくるのが見えた。周りを見渡すといつもより人が多い。

振り返れば、通りの向こうにひときわ大きな人の流れと並んだ屋台の光が見えた。

「夏祭り……」

 口の中で呟いた声は、すれ違った下駄の音と重なった。


   *


 初めての夏祭りで兄にラムネを買ってもらった。

 見慣れない形の瓶は少し重くて、薄く青みを帯びたガラスがとてもキレイで、飲み物としてというよりはその姿形に私はとても惹かれた。手の中から伝わってくる冷たさが気持ちよくて、気づくとぎゅっと両手に力を入れていた。

「開ける?」

 ラムネに手を塞がれた私に兄が優しく聞いてくれた。

 私は屈んで視線を合わせてくれた兄の顔から自分の手の中へと視線を動かす。硬い口にはめ込まれた青いキャップ。真ん中の丸いビー玉がどこからか光を受けてキラキラと輝いている。

「ううん、いい」

 私は首を横に振る。

 兄は一瞬不思議そうな表情をしたが、すぐに「そっか。じゃあおうちに帰ったら開けよう」と言って笑った。温かくて大きな手で頭を撫でられ、私は宝物になったラムネをさっきよりも強く握った。

 空は夜の色をしていて、道路に沿って並んだ屋台からは美味しそうな匂いがしている。すれ違う人たちがみんな楽しそうに笑っていて、昼間の蒸し暑さを乗り越えた空気は涼しくて気持ちがいい。初めて袖を通した浴衣の上を泳ぐ金魚も、歩くたびに音がする下駄も、何もかもがいつもとは違ってワクワクした。

「花火、観るの?」

 通りすがりの人たちの会話が耳に入り、私は隣を歩く兄を見上げて聞いた。

 兄は少し困ったように笑ってから「花火はまた今度。もうおうちに帰らないと」と言った。

「そっか……」

 水滴で濡れた手の中を見つめたまま顔を俯ける。ガラス越しにサンダルを履いた兄の大きな足が見える。

「花火は観せてあげられないけど」

 途切れた言葉に顔を上げた私の目の前、兄が後ろを向いてゆっくりとしゃがんだ。少し汗ばんで色の変わった黒いTシャツが私の視界の真ん中で止まる。

 ぼーっと眺めていると、兄が肩越しに振り返る。

「おうちまで乗っていいよ」

「!」

 私はラムネの瓶を両手に抱えたまま兄の広い背中に駆け寄った。


   *


 気づくと私は夏祭りの会場になっている神社の参道に立っていた。

保坂ほさか?」

 名前を呼ばれて振り返ると、同じクラスのみさきくんが立っていた。

 同じクラスと言っても教室の中で話したことはあまりない。挨拶を何回か交わしたことがあるかどうか、くらいだ。

 彼の手の中にはすでに大きな綿あめの袋とりんご飴が握られていて、指には水風船が二つもぶら下がっている。

「保坂も来たんだ」

 岬くんは意外そうに笑うと「じゃあちょっと付き合って」と出会ってから一度も返事をしていない私を視線だけで引っ張った。

 ——付き合うって、何に? どこに?

 そう聞く前に岬くんは人混みの中を進んでいく。

 いつもは広く感じる道路も両側に屋台が並ぶとその幅は半分以下になり、その間を行き来する人の流れに自分の歩くスペースを確保するのは難しい。普段の私ならこの状況を遠目に見て引き返していただろう。

「やっぱ人多いなぁ。あの角のところ抜けたらすぐだから」

 岬くんはさりげなく私を振り返り、その度に小さく笑う。

 言葉にはしないのに「ちゃんとついて来てる?」そう聞かれている気がして、私は「うん」とだけ小さく返事をして岬くんの黒いサンダルに視線を落とした。

 岬くんは角の屋台の中で待っていた子供に持っていた綿あめとりんご飴を渡すと、今度はその隣の屋台の裏にいた子供たちに水風船を渡した。

 頼まれたものを買ってきてあげたのかな? 単純にそう思った私に、岬くんは向かいの出店を指差して「あっちにかき氷も頼まれてるんだ」と言うと、今抜けてきたばかりの人混みの中に再び飛び込んでいく。

「え」

 何かを尋ねる間もなく、私は背中を追いかけるしかなかった。


 屋台の明るい光から少しだけ離れて、通りを行き交う人たちを眺める。腰掛けているパイプ椅子は決して座り心地がいいとは言えなかったけど、歩き続けた足の疲れは抜けていく。

「ほい、これは俺からのお礼」

 ポタッとスニーカーの上に落ちてきた水滴に顔を上げると、目の前にラムネが差し出されていた。

 透明の瓶を受け取ると、「いやぁ、マジ助かったわ」と笑いながら岬くんは白いテーブルの上にパックの束を置いた。ふわりとソースのいい匂いがして視線を向けると、たこ焼きとお好み焼きが並んでいた。

「あ、これも食べて」

 ベビーカステラの入った紙袋の口を私に向ける。ふわりと甘い香りが鼻に届き、思わず手が伸びた。指先から伝わる柔らかな感触ごと口の中に放り込むと、丸いカステラは温かくてふわふわしていた。

「すごい量だね」

 口の中の水分を持っていかれたな、と思いながら私は塊を飲み込む。隣に座ってたこ焼きに爪楊枝を刺していた岬くんが顔を上げ、「な、すごいよな」と笑った。

 たこ焼きを口に入れ「あつっ」と叫びながらもどうにか飲み込んだ岬くんが話し出す。

「うちも飲食店やってるんだ。俺が小さい頃はお祭りにも出してて。でも俺は留守番でさ。外からは楽しそうな音が聞こえるのに出ちゃダメって。一緒に行くってダダこねたら、今度は屋台の中から出るなって。一人で回れるような歳でもなかったから、まぁ当然といえば当然なんだけど。でもやっぱ悔しいし悲しいじゃん?」

 岬くんはかつての自分のようにお祭りに来ているのに遊びにいけない子供達に欲しいものを聞いて届ける、という御用聞きのようなことをしていた。

 テーブルの上に載っているたくさんの食べ物はその子供たちの親がくれたお礼の品だ。

「本当は一緒に回ってあげたいけど、さすがの俺もちっちゃい子何人も連れては歩けなくて」

「それで御用聞きになったの?」

 思わず笑ってしまった私に岬くんは「そう。なんか知らない間に有名になっちゃって。年々注文先が増えてるよ」と困った顔をした。

「だから今日保坂に会えてラッキーだったわ」

 ためらうことなくまっすぐ向けられた視線に私はなんと言えばいいのかわからなくて手の中の瓶を見つめる。

「お、そうだ。冷たいうちに飲まないと」

 岬くんは自分用にと買っていたラムネの瓶へと手を伸ばし、ピリピリと頭のビニールを剥がした。出てきたプラスチックの玉押しを飲み口に置き、片手で押し込む。カラン、とビー玉の落ちる涼やかな音が、シュワシュワと楽しげで少し怖い音に飲み込まれる。

「え」

 思わず顔を上げた私に「え?」と驚いた表情が返ってくる。

 岬くんは白い玉押しを持った手をラムネの口から離していた。

「なんで離してるの?」

「なんでって?」

「だって、こぼれちゃう」

「え、そういうものじゃないの?」

 パチパチと炭酸の弾ける音と白い泡が瓶の表面を伝って流れていく。

 白いテーブルの上には甘い香りの水たまりができていた。

 足元に置いていたリュックの中から私は急いでハンカチを取り出す。

 水色のハンカチは水分を含むとすぐに濃い青色に変わった。

「言われなかった? 途中で手を離したらダメだって」

「そうなの? こうやってこぼれたそばから飲むものだと思ってた」

 そう言って岬くんは薄く青いガラスをペロリと舐めた。


   *


 家に帰ってから約束どおり兄と二人でラムネを開けた。

 小さなプラスチックをビー玉の上にセットした兄が「ここに手を置いて」と私を促す。

「これなぁに?」

「これで開けるんだよ」

 両手を瓶の口に持っていった私の手を包み込むように、大きな兄の手が重ねられた。

 優しくかけられた力を受けて、私は自分でもグッと手のひらを押し出した。

 ぽこん、と手の中で押し込まれる感覚。

 カラン、とビー玉がガラスに当たる音。

 シュワシュワと音を立てて泡が上ってくる。

 なんだか怖くなって思わず手を引っ込めそうになった。

 そんな私を後ろから手を回していた兄の体が支え、優しい声で言った。

「手を離さないで」

「でも怖い」

「大丈夫。一緒に押さえててあげるから」

「……うん」

「大丈夫。そうしたら溢れることはないから」

 兄の言葉通り、しばらくするとこちらへと向かってきていた泡は勢いをなくして静かになった。

「はい、飲んでいいよ」

 真っ白なタオルで私の手を拭いてから、兄はその青い口を私に向ける。

 コロンとビー玉の転がる音とパチパチと小さく炭酸の弾ける音が重なって、私はドキドキしながら口をつけた。


   *


 傾けられた瓶から日焼けした大きな手へと水滴が流れていく。

 ゴクリと鳴らされた喉に、カランと音を立てて転がるビー玉に、私はガラスの向こう側を見つめる。

 ——溢れてくる泡を閉じ込めることしか教わらなかった。

 こぼしてはいけないと、キレイなままでいなくてはいけないと、そう思ってきた。

「飲まないの?」

 向けられた視線が私の手の中に落ちていく。

 手のひらから伝わってくる温度は飲み頃を過ぎようとしている。

「ラムネ嫌いだった?」

「ううん」

 不思議そうな表情をした岬くんがふわりと瓶を抜き取った。

「開けてやるよ」

「え、待って」

 思わず出てしまった声に、前のめりになった上半身に、自分でも驚いた。

「ふ、ふは、なんだよ。自分で開けたくなった?」

 岬くんはそう言って笑うと「ほい」とラムネの瓶を私に返してくれた。

「保坂もさ、手、離してみたら」

「え」

「大丈夫だって、手が濡れようがテーブルが汚れようが、そんなのたいしたことじゃないから」

「でも」

「あ、勿体ない? じゃあ、こぼれたそばから飲み込んじゃえ」

「……」

「どした? 腹痛い?」

「……っ」

 ずっと押し込めてきたのに。

 手を離さないように気をつけてきたのに。

 こんななんでもないような瞬間に、どうして溢れてくるのだ。


 ——兄のことが好きだった。


 それは言ってはいけない言葉で、伝えてはならない気持ちだった。

 自覚したその瞬間、胸の中でビー玉の落ちる音がしたのを覚えている。

 体の奥からせり上がってくる想いはシュワシュワと弾けて私の中に痛みを残した。

 私は自分の口に手を当てるしかなかった。

 この手を離さなければ、そのうちこの気持ちはなくなるのだから。

 溢れそうになるのは一瞬で、消えてしまえば戻ることはない。

 それまで我慢すればいい。

 そう思ってきたのに。

 押さえ続けた口からは小さく嗚咽が漏れ、熱の集まった両目からは涙がこぼれた。一度外に出てしまったら、もう元には戻せない。溢れたものを戻す方法もそれを止める方法も私は教わってはいなかった。

「泣きたい時は泣いた方がいいよ」

 小さな岬くんの声が私の胸の奥に優しく響いた。


 ——私はようやく手を離した。


「……ごめん」

 鼻をすすりながらこぼした私の言葉に、口についたお好み焼きのソースを指で拭っていた岬くんが柔らかく笑った。

「別にいいよ。俺ら受験生だからさ、色々ストレスたまるもんな」

「……」

「え、違うの?」

「そう、そうみたい」

「だよな。もう塾も学校もどこに行っても勉強しなさいって空気で、ちっとも休まらないよなぁ」

 カランと手の中で揺れるビー玉の向こう、あの日観ることのできなかった花火が上がっていた。

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