未来への焦点

真花

第1話

 嘘つきには三種類あって、およそ見た目で判別出来るらしい。

「椿山荘のバーには百種類のマティーニがあるんだ」

 二回目のデートでイタリアンを食べつつ沈みゆく太陽を見ていたら、彼が私になのか夕陽になのか分からないくらいの曖昧さで呟いた。まだ彼がどんな生き物なのか分かっていないから逡巡したけれども私は、その言葉を拾うことにした。

「面白いですね」

「興味ある?」

「お酒は、実は大好きなんです」

「じゃあ、この後行こうよ」

 婚活なんて始めればすぐに結果が出ると思っていたのに難航して、結婚したい意志と裏腹に一年が経過したところで彼を紹介された。

「行きましょう。流石に百杯は飲めないですけど」

 椿山荘にホテルもあることは承知している。だけど流石に二回目でセックスまで要求されないと思う。もし、これが野良の出会いなら十分あり得るけど、仮にもシステムを介した付き合いなのだ。だけど、セックスの具合の良し悪しは夫婦になるなら確認が必要な要素だ。だから、もし結婚の有力候補にするのなら、やった方がいい。でも、まだその段階ではない。

「私はお酒は弱いから、頑張って一杯だな」

「あら、せっかく行くのに」

「だからこそ価値の高い一杯かも知れないよ」

 コースではなかったのでデザートは頼まずに、タクシーを呼ぶ。

 恋によるデートの緊張と、婚活によるデートの緊張は色合いが違って、どちらも「ちゃんとした女」であろうとするのだけど素の自分を織り混ぜる部分が違う。とは言え、両方ともいずれ自分が多く素を出しながらも不利にはならないようにと言う点では一致していて、そこに至るまでの道筋が異なるだけだ。

 もう暮れた中をタクシーが走る。

 彼は沈黙が平気なようで、狭い車内に二人と運転手だけなのに何も喋らないまま、流れる光を目で追っている。そう言うのは悪くないと思う。いろんな男と過ごしたけど、黙ることの出来る男は少ない。黙ったと思ったら携帯を弄っていると言うのは別だ。何もしないと言う沈黙。始終寡黙なだけの男とも違う。喋るときには喋る。黙るときには「黙る」が出来る。

 椿山荘が結婚式にも使われるのは知っている。まさかそう言う意図ではないだろう。ぐるっとカーブの車止め、ボーイに会釈してバーに向かう。彼は私をエスコートする程ではない程度に配慮しながら先導する。

「よく、来るんですか?」

「いや。この前大先輩の退官記念パーティーをここで企画したんだ。そのときくらいだよ」

「そのときに、マティーニのことを知ったんですね」

「そう。メニュー見てびっくりするよ」

 バーの調度品はアンティークの気配を纏っているのに現役で、私達はテーブルを前に横並びに座った。

 渡されたメニューには本当に百種類のマティーニが載っている。

「すごいですね」

「パーティーのときに二次会をここでしたんだ。そのときに訊いたら、カメリアマティーニってのが一番美味しいらしい。実際飲んだら、美味しかったよ」

「じゃあ、最初はそれにするわ」

「私もそうしよう」

 注文をしたら、景色をもう一度見る。その私を彼は見ている。

「歴史を感じるわ。素敵なバー」

「気に入って貰えて何より」

 彼は一呼吸置いて、続ける。

「ところで田代さんは医療事務をされているんですよね」

「はい。ギリギリ医療の中に入る仕事です」

「人をたくさん見る」

「通過して行くと言った方が合っているかも知れませんけど、会う人は多いです」

「その中に嘘つきの人が居たとして、見分ける方法があるって知ってる?」

 嘘つき? どうしてそれが出て来るんだ?

「何となく、あーこの人信用ならないな、ってのは感覚ではありますけど、方法って程じゃないです」

 彼は、ニッ、と笑う。私は知っている、と言うジェスチャーに感じるが、ボディランゲージの精度が高まる程に時間を共有している訳じゃない。

「知っているんですか?」

「人間には三種類の嘘つきがいるんだ」

「三種類?」

 多いと思った訳ではない。分類があることが不思議だった。

「あ、これは精神医学的にエビデンスがあるとかじゃなくって、私の個人的な考えだから」

 こう言うところに正確さを求めると言うのが、好感が持てる。人によってはウザいと思う場所だけど、私はそう言うのが好きだ。

「分かりました」

「一つ目が、利益のために人に嘘をつく人。こう言う人は顔が硬い。面の皮が厚いって奴だね。色も黒っぽくなる。テレビを見ているとたくさん出て来る。政治家にも多い。いるでしょ? そう言う患者さん」

「いますね。患者さん以外でも、思い当たる人はいます」

 彼は嬉しそうな顔をする。マティーニが届く。

「話の途中だけど」

 乾杯をして、彼は優しく口づけをするようにグラスに唇を当てる。それを見ながら私はグビリと飲んだ。

「美味しい……!」

 口からベルガモットの香りと一緒に美味への喜びが漏れる。

「気に入って貰えてよかった」

「二つ目はどんな嘘つきなんですか?」

「自分のこころを守るために、自分に嘘をついている人。目が顔に比して少し遠い印象を受ける。うつろって程ではないのだけれども、目が遠いんだ。新しく何かが流行ったときに、テレビで『私それやってます』って出て来る人は大概この相をしているから、本当にやっていたとしてもこころにとって素敵なことをやってはいないのだと思う。若しくは、やらせか」

「テレビ、結構好きですか?」

「ええ。テレビっ子」

「私はテレビ、殆ど見ないんです」

「まあ、私も録画してまでは見ないから、エセテレビっ子レベルだとは思うけど。……見ないんだ?」

「見ないですね。選挙の日と紅白くらいですかね、長時間は」

 彼がグラスを口に持ってゆく。

「まぁ、テレビじゃなくてもたくさん会うけど、三つ目程じゃない」

「精神科に通院する方って、そう言う状態の方が多いんですか?」

「意外とそうでもないよ。もちろん、それをすることが生きる困難の根本になっている患者さんはいる」

「自分に嘘をつくことで結局自分が苦しむって、不思議ですね」

「それをしなくてはならなくなった理由もあるけど、『誤った適応』ってのは存在するんだ。それが精神科的に問題になるかは、本人が苦しむか、周囲が困るか、それが要件だけど」

 精神科医のイメージは、隣国のスラムの子供よりも朧だった。働いている病院に精神科がないからと言うのも理由の一つではあるけど、それ以上に興味がなかった。むしろまっさらな状態で彼と出会えたことはよかったのかも知れない。

「樋口さん、三つ目はどんな嘘なんですか?」

 私の言葉を受け取ったと同時にまた彼はマティーニを口に当てる。そっとグラスを置いて、微笑む。

「三つ目は、役割を守るための嘘。自分と他者との両方につく。これをしている人は、首が、首と肩が硬くなる」

 咄嗟に自分の首に意識が向く。私はとても自然体とは言えない状態で今ここにいる。それはそうだ。結婚をする相手を探して、品定めをして、されて、いや、もしかして。

「私の首、硬いですか?」

「私も同じくらい、硬い。ねぇ、田代さん、私達は確かに結婚相談所に紹介された、言わば結婚相手探しとしてのフォーマルな関係だよね。カタログのようにプロフィールを最初からお互いに知って、実際に会って知ったことに比して情報が多過ぎる」

 私が思っていたことと全く同じことを言うから、頷きながら少し笑った。彼も応じて笑う。彼が続ける。

「結婚相手探しとしての役割が、二人を縛っているように思う。もし夫婦になれば夫婦の、親になれば親の役割があるのは分かっている。だけど、そこに向かうまでは一旦、個人に戻ってみたらどうかと思うんだ。……つまり、私と結婚を考える付き合いをしてくれませんか? それでダメなら別れるのは必然だけど、急に羽織った役割を脱ぎ捨てるのは難しくても、やってみませんか?」

「もっと、人と人として、と言うことですね?」

 彼はゆっくり頷く。

「そうです。どうでしょうか」

 彼の首が殊更硬くなっているのが分かる。これは嘘が大きくなったのではなくて、緊張しているのだ。飲めない酒なんて飲まなくたっていいのにここに連れて来たのは、この話をするためだったのだ。

「そのために嘘の話をしたんですか?」

「嘘がテーマですけど、内容に嘘はないです」

「語尾がですますに変わっていますよ」

「真剣に、口説いているんです」

 私は彼の言葉を聞きながら周囲の全てを捉えようと感覚を開く。

「私、まだあなたのこと何にも知らないわ。きっとあなたも同じ筈。それなのに私でいいんですか? 引く手数多なんじゃないんですか?」

「田代さん。あなたがいいんです。確かに引く手は数多あります。選び放題です。でも、ええい、言ってしまえ、私はあなたに惹かれているのです。現在における他の可能性を全部捨ててでも、あなたとのお付き合いがしたい。それも、役割の内側のものではないものをです」

「ラブコールですね」

「熱烈に」

 緊張した面持ちの彼の顔を、目をじっと見る。じっとじっと見る。彼は負けじと見返して来る。

 彼の言葉と、真剣な表情には嘘なんて全く感じない。利益のためでも、こころを守るためでも、役割のためでも、どの嘘もその顔には張り付いていない。ああ、まんまと彼の話に乗せられている。そう思ったら、笑ってしまった。

「いいですよ。こちらこそ、お願いします」

 彼も破顔する。二人して笑って、あはは、って笑って。

「よかった。人生最大の賭けだった」

「大袈裟よ」

「だって人は代えが効かないんだよ」

「私も惹かれているの、感じていたでしょ?」

「まぁ、それは、あるけど」

「でもまさか二回目のデートでこんな風になるなんてね」

「恋は時間を超越する。そう思う」

「恋なの?」

「そう言う要素が、私には少なからずあるよ」

「恋かぁ」

 私は両腕を前にグーンと伸ばす。伸ばしながらもう一度「恋かぁ」と呟く。そう言う側面があるのかな。確かにいいなとは思っていたけど、まだそう言う段階にはなかったように思う。条件は十二分に吟味してる。だから頭で考える範囲ではハズレではないことは最初から決まっている。

 彼がグラスを持つ。私も呼応して飲む。それを置いて、意を決する。

「私は、恋って感じじゃない。でも、真剣に結婚を考えたいと思ってる」

「うん。恋は結婚に必須のものではないと思う。急がずにお互いを知ってゆこう」

 お互いに一杯だけで、帰る。タクシーに別々に乗って、帰る。


 と言っても私は駅までだ。自宅までタクシーで帰る程の経済力はない。中央線で東京都の田舎と言われるところまで揺られて、駅の駐輪場に自転車を取りにゆく。

「紀美子!」

 呼び止められて立ち止まる。聴き慣れていた声。捨てた声。

「紀美子、俺の話を聞いてくれ」

「もう関わらないでって言ったでしょ!」

 二十代後半になり、結婚を真剣に考えた結果、私は当時恋人だった隆行と別れた。

「俺、ちゃんと就職したよ。もし、今日話をしてそれでもダメならスッパリ諦める。だから、話を聞いてくれ」

「本当に最後に出来るの?」

「俺はいい加減な男だけど、お前とした約束を破ったことはない」

 確かにそうだった。三年間の付き合いの中で彼が約束を破ったことはない。責任感が強いと言うか、他がゆるゆるなのにそう言うところだけは信頼の置ける男だった。

「分かったわ。道で話すの?」

「ファミレスに行こう」

 落差の先にある今の方が自分の現実に合っているのは分かっている。でも、樋口さんとの日々を得たらあっちが現実になる。何としても隆行を私の人生から退場させないといけない。

 まだ深夜でもないファミレスには人が居て、きっと私達の小さな修羅場は周囲の人のオツマミになる。

「で、何、話って」

「単刀直入に言って、俺とやり直してくれ」

「嫌よ。じゃ、終わり。もう連絡しないでね」

 立ち上がる私を制する隆行。

「理由くらい聞いてくれよ」

 私はしょうがないと言う態度を前面に押し出しながら座る。

「何よ」

「俺さ、就職したんだ」

「就職はする方が普通よ。それで?」

「不動産の仲介業なんだけど、頑張って結果を出したらそれだけ給料も増えるんだよ。資格も取っていけばさ、独立だって夢じゃない。俺、真面目に働いてるよ。まだ一件も契約取れてないけど、先輩には見所があるって言われてるんだ」

「それで?」

「ギャンブルはやめた。仕事が面白いんだ。パチスロするよりも、営業してる方が面白いんだ」

「それはよかったわね」

「だから金も段々溜まって来てる。紀美子ももう三十になるだろ、俺も二十八、結婚を考えながら付き合うための土台が出来たと思うんだ」

 どっちがいいのだろう。もう私は結婚を前提にして付き合っている人がいると伝えた方がいいのか、それとも言わない方がいいのか。前者の方が納得はするような気がするけど、自分の情報を隆行に渡すのがちょっと嫌な感じはする。まさか刺したりはしないとは思うけど、樋口さんと隆行の直接対決なんて胃に穴が開きそう。

「土台って言うのは早計じゃないかしら」

「ねえ、紀美子、こんな話を知ってる?」

「どんな話よ?」

「世の中には三種類の正直が居るって話」

「知らないわ」

 嘘つきなら知ってるけど。

「一つ目が、自分に正直な人間。自分が一番大事だから、他の人を蔑ろにしたりしながら自分の利益だけを追求する。前の俺はこれだったんじゃないかと思う。自分の好きなことだけをやって生きてた」

「そうね。それはそれの魅力があったけど、だからと言って生涯を共にする程のものじゃないわね」

 隆行は、う、と顔をしかめる。

「二つ目が、他人に正直な人間。逆に自分を抑制しちゃうからストレスばっかり。自分のこころを抑え込んじゃうんだね。そう言う人、いるよね」

「いるわね。他の人に利用されちゃう人ね」

「三つ目が、役割に正直な人間。俺、定職について初めて、仕事の責任ってのを感じるようになったんだ。役割を全うするって、すごいやり甲斐があるんだ。価値観の中心が仕事になるって言うのかな。何で今までそうして来なかったのか不思議なくらい。だからね、俺は成長したんだよ。役割に正直な人間になったんだ。これなら、夫婦とか親とかの役割をすることも出来ると思う」

 ついさっきそれを一旦脱ごうと言う話をして来たところだ。私は就職してからずっと役割の中に居て、それが当たり前になっている。結婚相談所を介した出会いの中でも役割を演じてしまっていた。それを脱ごうと言ってくれた樋口さん。初めて役割を得てそれに酔っている隆行。

 私は大きなため息をく。

 話にならない。

 比較にならない。

 こんな幼い男と男女の関係で何年も居た自分が信じられない。いや、樋口さんが今日言ってくれなかったらもしかしたら感動していたのか。幼いなりの成長に、胸を打たれていたのか。でも、私の人生に起きた出来事の順番は変えられない。私は樋口さんとを知ってから、隆行の弁を聞いている。この残酷な順序こそが運命なのではないか。

「紀美子、聞いてるの?」

「聞いてるわよ」

「で、どう思う? 俺とやり直したくなったろ?」

「隆行が頑張っているのはよく分かったわ。でも、私は結婚を前提にお付き合いしている人がいるの。だから、隆行とはやり直せない。永遠に。私のことは忘れて新しい出会いを求めて」

 隆行の顔が強張る。「マジか、……マジか」と口の中で呟く。

「もういい? ごめんね。私の人生も前に進んでいるのよ。もう連絡しないでって意味、分かったでしょう?」

「それでも」

 いい加減にして欲しい。

「それでも、考え直してくれないか」

「嫌よ。諦めて」

 隆行は、くっ、と顔をしかめさせて、ガタン! と大きな音をさせながら立ち上がる。私を見下ろす。私は睨み返す。

 隆行は頭をテーブルに打ち付ける勢いで下げる。

「この通りだ!」

「何をしてもダメよ。私はもう決めているの」

「じゃあその男に会わせてくれ」

「何でよ! 意味が分からない」

「そうしたら納得するから」

「さっきは話したら納得するって言ってたでしょ! らしくないわよ、言葉をたがえるなんて」

 隆行は座る。

「確かにそうだ。……分かった。俺は今失恋したんだな」

「一年前に失恋しているわ」

 この男のどこがよかったのだろう。自分で理解出来ない。思い出すことも出来ない。

「もう、連絡しない。すまなかった、時間を取らせた」

「うん。じゃあ、元気でね」

 隆行が泣き出したのを置いて、ファミレスを出る。今度こそ自転車に乗る。


 1Kの部屋。この部屋もそう長くはないだろう。ユニットバス。明日は土曜日で休み。ドライヤー。ベッドにごろんと横になって、今日の夜をなぞる。

「隆行に何の恋情も感じなかった」

 一年前に隆行と別れたのは嫌いになったからではない、むしろ好きなまま、結婚相手ではないと言う理論で理性で別れた。後ろ髪を引かれなかった訳ではない。これまで会った男性達を選ばなかったのも、隆行の残滓が自分の中にこびりついていてそれに男性達が勝てなかったから。でも樋口さんは違った。結果から見たらそう言うことなのだろう。

「私は樋口さんに惹かれている」

 隆行が、彼こそがその証明をした。

「皮肉かも知れない。だけど、私が進みたい方向ははっきりした」

 思い付いた。

「関係には三種類あって、一つが自分のための関係。普通の恋がそう。二つ目が相手のための関係。求められて応じた恋愛。三つ目が、二人のための関係。……そう、私と樋口さんは二人のための関係のために、役割を脱ぐの」

 ふわふわした感じ、枕を抱く。

「未来が、ちゃんと私に届きそう」

 見慣れた天井さえキラキラして見える。

 万能感に近い感覚の中で、立ち上がって窓の外を見る。

 そこには夜がいつものように奥まで広がっていた。

 その向こうに明日があることが見えるような気がした。

 置いて行くもの、共に行くもの。

「私は今、何よりも私」

 紀美子はカーテンを閉めて、横になる。未来への焦点の今日が終わる。



(了)

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未来への焦点 真花 @kawapsyc

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