影さんはもう暖炉ペチカの部屋に収まりきらないほど大きくなった。

 もうワーリカが食事をあげなくてもよくなった。

 影さんは自由に移動して、自由に食べて、自由に大きくなっているようだった。

 エチェンカが消えたときは、旦那様も奥様もずいぶん悲しんで、しばらく使用人たちに当たり散らしていたけれど。

 お屋敷の人間がひとり、またひとりと消えて、こないだはお医者のヴァレリー先生も消えて、そうしたら旦那様も奥様もめったに部屋の外に出ないようになった。

 暖炉の部屋でなくても影さんには会える。影さんはそこらじゅうにいる。

「もうそろそろいいかしら」

 ワーリカが尋ねると、

「あと、もう少しだよ、私のワーリカ」

 影さんは優しく答えた。


 実のところワーリカは限界だった。

 使用人が何人か減ったわけだから、ワーリカはそのぶん馬車馬のように働いた。

 旦那様や奥様が怒鳴りに来ることはなかったけれど、とにかく一分の休みもなく働いた。


 ――ワーリカ、きちんとおやり。


 ねむくなると母さまの声が聞こえてくる。


 ――ワーリカ、ワーリカや。


 分かっているわ。でも、ねむいのよ。


「ワーリカ!寝てるのかい!この能無し!」


 固いもので殴られてとび上がる。まさにとび上がるほど痛かったのだ。

 奥様が怒りで顔を真っ赤に染めている。

「ワーリカ、はやくこっちに来な!」

 ワーリカは引きずられるようにしてゆりかごの前にやってくる。

 赤ん坊は相変わらず猿のような顔をして力いっぱい泣いている。

「まったく、あたしは疲れてるんだよ、何回も言わすんじゃないよ」

 子守の仕事を言いつけられたワーリカは、ただうっすらと笑いながら赤ん坊を揺する。ゆらゆらと赤ん坊が揺れる。

「ユーラ、ユラ」

 いつの間にかワーリカは歌っている。

「フルベ、ユラユラ」


 遠くで悲鳴が聞こえる。雷みたいにうるさい悲鳴だから、おそらく奥様のものだろう。

「ユーラユラ」

「フルベ、ユラユラ」

 影さんの声が重なった。


 ばちん、と音がしてそれきりだった。

 赤ん坊は泣かない。

 もう悲鳴も聞こえない。

 ただ、二人で歌っている。


「これでもう大丈夫?」

 なぜ自分が笑顔なのかも分からないままワーリカは尋ねる。

「ああ、もうどこでも行けるよ、私のワーリカ」


 本当はワーリカも分かっていた。

 父親はワーリカのことを私のワーリカ、なんて呼ばない。おい、とか、それ、とか言うだけだ。

 怖くて素敵な話も、父親がぶつぶつと語るのを横で聞いていたにすぎないのだから。

 影さんはワーリカの父親では有り得ない。


 ――ヒトフタミ、ヨ、イツム


 ワーリカは影さんと歌う。


 ――ナナヤ、コ、コノタリ


 ワーリカはやっと、笑顔で、眠ることができる。



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