新撰組

 今回は人物ではなく組織を取り上げる。新撰組しんせんぐみである。


 本エッセイでは『徳川慶喜』をゴール地点として、幕末と言う時代の現象をとらえることに紙数を費やしてきたが、前回草莽、と言う段階で取り上げた『西郷隆盛』に続くテーマとして、この『新撰組』を取り上げようと思う。


 すわ新撰組と言うと、「佐幕派の急先鋒」、薩摩派とは不倶戴天の敵、こうなると長州派も桂や高杉あたりを取り上げなくては格好がつかないのでは、と言う声も聞こえてきそうだが、こちらは政治信条関係なく、『幕末』と言ういわば現象理解の事例として新撰組を紐解くことがこのエッセイの主題に沿うので、そのことを前提とご理解頂いた上で小論を展開したい。


 幕末を一言で言うと、これは『剣士』の時代である。


 勤王佐幕、藩閥、身分立場の別、関係ない。黒船来航以来に沸騰した幕末、と言う現象、これを全国津々浦々、日本一国の問題に押し上げるのに、『剣士』と言う存在は必要だった。現代風の言い方をすれば、無数の『剣士』たちと言うアカウントが情報拡散したからこそ、幕末スレッドは『大炎上』したのである。


 時代の必然が要求した、必要不可欠の『触媒しょくばい』だったと言えよう。


 桂小五郎も坂本龍馬も、彼らが剣術を学んで、江戸を中心とした時代の最先端から地方へ情報を共有・拡散しなければ、黒船来航以来の『尊王攘夷』から『倒幕』に至る一大政治ムーブメントは、成り立つことはなかっただろう。


 そもそも剣術がなければ、他国の藩士同士が何かをテーマにして話し合うことなど、まずありえなかったのだ。


 江戸時代、幕府が課した身分の区分けは、士農工商の別に留まらなかった。どの藩も脱藩は死罪、それ以外に他国へ出られる手段は限られている、と言うことで、本来ならば同じ身分の武士たち同士も、藩が違えば、交わりを結ぶ、と言うことはほぼあり得なかったのが、江戸と言う時代だったのである。


 地方武士たちが藩外へ出る、と言うのは今日で言えば、海外留学に近かった。その最先端は『医学』であったが、どの人間も好き勝手に医学を学べると言うのではない。


 例えば当時最先端の蘭学を学ぶ、と言うならば、藩から許可を得るのにもそれなりの高いハードルや、のちの厳しい要求をクリアしなければならなかったのだ。


 その点、『剣術修行』と言うのは、蘭学ほどではなかった。もちろん旅費や滞在先の段取りなどはすべて自弁ではあるが、行動の自由は医家よりも効いたのだ。


 蘭学を学びたいとなれば本場長崎を除けば、あとは大坂の適塾てきじゅくをはじめごく限られていたが、剣術道場ならば、どの地方都市にも有名どころが必ず一つはある。


 そのメッカである江戸には千葉・桃井・斎藤と言う三大道場があり、OBたちの顔も広く、受け入れ先の体制も充実していたのだ。


 例えば龍馬の朋友、武市瑞山たけちずいざん(半平太)は三大道場のうち桃井道場に太いパイプがあった。のちに幕末三大人斬りと称された岡田以蔵おかだいぞうを引き入れたのも、この桃井道場への『剣術留学』がきっかけであった。


 彼らは藩の垣根を越えて剣術による『交流』を温めつつ、おおいに政治活動をしたのである。この瑞山がのちに『土佐勤王党』を組織し、藩政・吉田東洋よしだとうようと藩論を争い、未曽有の暗殺テロ事件を起こしたと言う結果からも活動のあらましは知れよう。


 瑞山に限らず、彼らが『剣士』でなかったら、のちの維新志士たちの活動も大幅に制限されたに違いない。


 ある意味で幕末、と言う現象は、『剣士』と言う超法規的なエージェントたちの地下活動の上に形成されたと言って、過言ではないのである。


 いわば幕末きっての姦人かんじんたるや、紛れもなく、この『剣士』たちなのである。



 剣術は国も言葉も違う武士たちの交流ツールであったと同時に、政治的表現の手段にもなった。


天誅てんちゅう』の名目で、市中に捨て札とともにさらされる斬殺体が彼らの引き起こした事件を象徴するのをみても分かる通り、その実態は一方的な『暗殺剣』である。


 雨風や雪で剣が満足に振るえないとき、屋内で自由に動き回れないときを狙い、幕末の志士たちはテロ事件を起こす。


 本質は刀を抜き合って、いざ尋常に勝負の『斬り合い』ではない。正真正銘、不意討ちの『テロリズム』である。


 薩摩の中村半次郎(のちの桐野利秋きりのとしあき)は、歩きながら停まらずに人が斬れる剣を工夫したと言うが、幕末の人斬りたちが常に想定しているのはふいの遭遇戦だ。


 一方的な斬殺、又はそうされることを避ける技術と勘を磨くことこそが、彼らの唯一の生き残り方程式だった。


 新撰組と言う組織が、その彼らと全く同じ文脈から派生していると言うことについては、もっと着目されてもいいと思う。


 彼らが参勤交代を名目に地下活動を繰り広げる志士たちのテロリズムに対抗できたのも、ほぼ同じ穴のむじなであったからに尽きる。


 毒を以て毒を制す、と言う言葉が、新撰組の面々を思うとき、一番にわたしの脳裏へ浮かぶ言葉だ。


 近藤勇こんどういさみをはじめとする多摩の天然理心流系列の剣士たちが、その組織のすべてを作ったのだが、最初の彼らは、ある意味では有象無象の攘夷浪士たちと変わらなかった。


 芹沢鴨せりざわかもを首魁とする水戸天狗党みとてんぐとうの残党たちが組織の性格を決定していたからである。


 この集団は、先に紹介した薩摩の島津斉彬と並ぶ幕末の先駆者、水戸の徳川斉昭とくがわなりあきを私的に支持するいわば半グレ団体のような連中だった。


 数々の先鋭事業に自ら手を付けた天才・斉彬と比べると、この徳川斉昭は、徳川本家に物申せるそのスキャンダラスな立ち位置が好きだっただけの人物であり、やったことはある意味では有益な実業と言うより、迷惑な空騒ぎに過ぎないことが多かった。(実子・徳川慶喜もその被害者と思うが、別稿に譲る)


 天狗党はその斉昭を熱狂的に支持する尊王攘夷派のはしりのような存在であったが、桜田門外の変はじめ、激烈なテロや決起活動へ大きく傾いていく。


 芹沢鴨はそこに所属し、現在の茨城県行方市いばらきけんなめかたしにあった文武館で政治活動をしていたが、佐原村さわらむら(千葉県)で押し借り(攘夷活動金を名目にした強盗)を行ったことが発覚し、罪を受けている。


 このように政治的主張と言う表看板を振りかざし、ゆすりたかりや脅迫と言った違法行為をする芹沢の本質は新撰組時代も変わっておらず、近藤らによって暗殺される主原因になる。


 この暗殺は近藤の独断ではなく、会津藩の肝いりであったことがのちに分かっている。悪質な政治ゴロから、京都守護職・会津藩の外郭団体としての治安維持組織へ新撰組が成長を遂げるのは、この瞬間であったと言っていい。


 よく警察、と言う言い方をされるが、新撰組の本質は一般の警察と言うよりは、公安警察である。


 現代でも思想犯や国際犯罪組織を取り締まる公安警察は、普通の警察とはまったく性格を異にする。


 その目的はすでに『起きた』事件の犯人捜査ではなく、これから起きる事件の犯人検挙である。


 逮捕は目的とするが、それは処罰のためではなくこれからの捜査に生かすためであり、目的はテロの『抑止』とテロ犯の『殺害』である。


 有名な池田屋事件においても、新撰組は突入を行ったのち、怪我人や死傷者を番所へ引き渡したのであって、犯した罪を裁いたり、刑を科すと言うことはしていない。厳密な意味で彼らは、司法警察機関ではないのである。


 証拠に会津藩は彼らに報奨金を与えて、飼った。まるで私設自警団である。さらには近藤勇、土方歳三以下には士分を与え、小さな大名くらいの武士の身分として遇したが、彼らは彼らで別口にスポンサー集めに奔走した。大坂を代表する富豪、鴻池家こうのういけけが新撰組の大口スポンサーであったことはあまりに有名な話だ。


 最盛期の新撰組はかなり羽振りがよかったに違いない。年三両あれば庶民の暮らしが立つ時代に、ほんの見習いでも月三両の報酬が約束されていたのである。高額報酬に惹かれて、地方から出稼ぎの武士が募集に応じたのもうなずける話だ。


 武士を公務員とするなら、彼らは公務員ではない。外部委託の民間団体である。その自由な立場が、幅広い人材を集め、その全盛期の動員力は町方などはるかしのいでいただろう。ある意味でこれは、空前の成功であった。


 維新志士たちの宿敵として新撰組の雷名が燦然さんぜんと歴史に名前が残る一方で、見廻り組をはじめ、由緒正しい武士たちによる自警組織の実態と活躍にあたるスポットは微々たるものだ。


 だがその絶頂期、彼らの凋落ちょうらくは始まっていたのである。それはいわば『剣士』の時代の終わりであった。


 大政奉還から王政復古に至る慶応四年(一八六八年)は、革命の転機であった。地位と立場の逆転が革命だとするならば、取り締まる立場から一転、朝敵として新撰組は、追われる立場となったのである。


 江戸無血開城を視野に入れていた勝海舟は、新政府軍となった薩長軍の敵意をそらす絶好の手段を思いついた。鳥羽伏見の敗戦で江戸に追われていた新撰組の残党たちを、別の土地に移して囮にすることにしたのである。


 甲陽鎮部隊こうようちんぶたいと名を変えた彼らは、勝沼で新政府軍を迎え撃つことを余儀なくされる。戦いに敗退し、辛くも千葉流山に潜伏した近藤、土方たちをしり目に、江戸では新たな時代が幕開けていたのである。それは明らかに『剣士』のいない時代の始まりだった。


 思えば日本の近代は、無数の『剣士』たちの屍の上に成り立っている。


 新撰組はミニエー銃をはじめとする外来の近代銃火器によって敗れたと思いがちだが、彼らが鳥羽伏見の戦いから一貫して展開した迂回戦法による白兵突撃は、日露戦争の旅順攻略戦に至るまで、近代日本陸軍の常套戦法となった。


 その内実は鉄砲隊に威嚇射撃をさせている間に、潜伏移動した白兵部隊が横槍を入れる、と言う危険極まりない戦法だが、突撃のたびに出るおびただしい死傷者の地獄風景も、彼らの足を止めることは出来なかった。


 新撰組として最後に白兵突撃したのは、誰だろう。土方歳三だろうか。箱館五稜郭、一本木関門を死守していた土方は腹部に銃創を追って死亡したとされる。だがここに気になる話がある。


 日露戦争最大の激戦とされる黒溝台こっこうだいの会戦の折、のちの陸軍大将、立見尚文たつみなおふみがふと小耳に挟んだ噂だ。この立見も桑名雷神隊として、戊辰戦争のとき、新撰組と共闘している。


「新撰組の生き残りが従軍しているという噂は、本当か?」


 一説には、十番隊組長の原田左之助はらださのすけと言う。


 原田は上野彰義隊と運命を共にしたと言うが、この新撰組生き残り兵士の話は日露戦争の伝説として残っている。事実だとするなら彼が、新撰組最後の突撃した『剣士』と言うことになろう。


 自滅が運命さだめなりとて、非業にたおれた『姦人』たちの御霊こそ安らかなれ。



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生得、姦人(しょうとく、かんじん) 橋本ちかげ @Chikage-Hashimoto

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