西郷隆盛
『
すでに多くの筆に尽くされ、議論も百出しているところであろうが、この『草莽』のレベルにおいては幕末と言う現象は、はっきりと『革命』であった。
この時点で二百七十年の歴史を誇るいわゆるご公儀、江戸幕府を頂点とする問答無用のヒエラルキー社会に大きな亀裂が入り、意志と意欲を持った武士たちが全国的な意見力と発信力を持つようになったのである。これこそ本邦で初めてかも知れない言論革命であり、現代に先だった情報革命であった。
それは戦国以来抑えつけられてきた支配を受ける側に甘んじていた武士たちの、蓄積したエネルギーを一気に開放するエポックだったのだ。
これは薩摩、長州をはじめとしたいわゆる西南雄藩がすべて関ヶ原合戦の敗者として、徳川将軍家の軍門に降ったと言う経緯の
この西郷隆盛の家も、無論、下級武士である。当時の鹿児島藩(これが正式名称、本来は薩摩藩の名称はない)では
鹿児島は公称六十四万石の大領ではあったが、火山灰が降り積もったいわゆるシラス台地のお陰で、実際の石高は、その半分に満たなかったと言う。米価社会は、薩摩武士たちが生きるには苛酷すぎる社会であった。財政も崩壊し、西郷の生まれた頃には、莫大な借財が藩体制そのものを圧迫していたのだ。
前項『斉彬』の父、
煙草や砂糖と言った専売品の売買における返済計画を楯に調所広郷は、今で言う超長期ローンを組んだのである。その返済期限はなんと約二百年。厄介な借財の莫大さがうかがい知れる。
不均衡な経済の仕組みは、下級層につけを回した。西郷が立ったのは、その苛酷な社会で横行する不正の糾弾であった。
市役所の民政課で事務職をしていたような人の意見書が、なぜ行政の首長たる斉彬の目に触れるようになったかは、西郷本人の談では「よく分からん」と言うまことに頼りないものだが、安政元年(1855年)三月には斉彬は西郷を『庭方』と言う気軽に会見が可能な身分に取り立てており、その信頼が並々ではなかったことは確かであったと言えよう。
史実にも斉彬は西郷に、明らかに身分を越えた『特別待遇』を与えたのである。これについては安政三年の八月に、西郷が自分の上司である郡方奉行、相良角兵衛の意見書へ斉彬の求めで自分の意見を述べた上書が遺っていることでも明白である。当時の階級絶対社会では有り得ないことが起こったのだ。
日本一と言っても過言ではない斉彬の先見性については本稿で述べるまでもないが、民政に精しい西郷の存在は、斉彬の『弱点』を補っていたとも言える。江戸住まいの長い斉彬の革新的な洋化政策については、地元薩摩の根強い反対を呼んでいた。(実は、その父、斉興自身がその黒幕だったのだが)ともすれば『よそ者扱い』の斉彬にとって、西郷は自分と同じ、しがらみない目で、お膝元に気を配ってくれる有用な人材だったのである。
西郷にとっての『幕末』は、斉彬と言う名君からやってきた。これはある意味では万人に一人の『奇蹟』と表現しても過言ではない。高杉晋作にせよ、坂本龍馬にせよ、『幕末』には死の危険を覚悟して、脱藩するなり、地下活動をするなりして無理やり飛び込んだのだから。
だがだからと言って、西郷が楽をしていたのではない。初めから時代の最先端に引き上げられた西郷は、全身全霊で斉彬に尽くしたのである。
証拠に斉彬から降って来るあらゆる仕事を西郷はこなした。参勤交代に同行し、京都では連絡役を務めたところまでは普通の武士の領分だが、あの
西郷と言う人の不思議さは、徹頭徹尾、『受身の人』であったと言うことだ。幕末に限らず、熱狂的なブームと言うのは、多くは積極的に巻き込まれる人と言うものがまず目立つし、先頭に立つのが常なのだが、西郷の場合は先鋭的な主君から、ぽんと与えられた運命によって時代の急先鋒に至った。
ただこれを棚から牡丹餅と言う人は、西郷と言う人の凄みを分かっていない。この人の巨大さは、このあとの運命の急降下ですらをあるがまま受け入れたことだ。
自分を別世界に導いた斉彬が急死し、西郷は失脚。と言うよりは陽の当たる藩士人生の終焉と言っていい
どん底の中でも、西郷は
自殺を肯定するつもりはもちろんない。しかし「綺麗ごめんさア」(往生際を悪くしない)と言われる薩摩武士の理想とされる気質を理解するのに、西郷が自殺を択ぶ判断の早さは、特筆すべきものだった。
一貫して西郷は「求められて動く男」であった。しかもその行動が、言われたからやる、と言うようなおざなりなものや付け焼刃なものではなく、全身全霊でやる、時には死をも
島津久光に取り入った大久保利通によって、再び時代の主流に復帰した西郷は、復活した。復活したことによって、大きく響く西郷と言う鐘を時代を動かす多くの男たちが、叩き鳴らすことが出来たのである。それを坂本龍馬なり、勝海舟なりと挙げるのは容易いが、こうした意志ある人々でも承けたのが西郷以外であったのなら、成し得た結果は如何であろう。
しかし「求められて動く」西郷は、新時代には方途を失くした。国家単位の巨大な利権が鼻先を動く世界に、大きな失望を感じたのだろう。こうした人は非常に珍しい。
そう言えば西郷が熱狂的に支持される一方、
彼らが強欲ゆえ無私の西郷が鼻についた、と言うような浅はかな洞察をするつもりはないが、薩長の藩閥政治の明治の世に抑えがたい反発意識と上昇志向を持つ彼らにしてみれば、何の苦学苦労の末でもなく、でんとその最上位に近い椅子に座りながら、利権を貪ることを放り出してしまった西郷が不可解の極みだったに違いない。
降って湧いた西南戦争(明治十年)も、西郷が政治的野心を持って起こしたものではない。当時、薩摩で開発が進んでいたスナイドル銃の兵器工場の接収をめぐっての政府方と西郷方の若党たちの『小競り合い』(弾丸略奪事件)が軍事行動になってしまっただけであり、落としどころの無い暴動の延長線上であった。
多くの革命家は『不満』から行動を起こすが、西郷だけは生まれつき違った。自分に不満はなく、だからこその『求められるまま』なのである。欠点を言うなら、西郷は常になし崩し的行動をする人だった。だがそれが優柔不断の
このエッセイの姦人は、あくどいほどの
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