佐久間象山
さて幕末の姦人、二人目はもう一人の早すぎた天才、
文化8年(1811年)に生まれ、ときの八代藩主・
先の島津斉彬が貴人のトップランナーであるとするならば、この象山は一般武士、いわば
この男が江戸は
長州藩倒幕の狼煙を上げる松下村塾を開いた
すなわち幕末維新を盛り立てる
例えばこんな話がある。象山が塾を開いて二年後の嘉永三年(1853年)、浦賀に来航したペリー艦隊は、武力を以てその威容を見せつけた。蒸気船に大口径の艦砲、そして連発の効く小銃は、刀と火縄銃の日本人の度肝を抜いた。
それでも島津斉彬はじめ賢候と言われる開明藩主たちは、その新技術を解明し、大枚をはたいても手に入れようとした。しかしながら、象山の考えはそこに留まらなかった。来航の翌年、象山は「甲寅初春の偶作」として漢詩を詠んだ。その一部に、こうある。
微臣別有伐策謀 私に一つ、アメリカを
安得風船下聖東 いっそ風船で
象山は黒船来航時から、なんとアメリカ本土攻撃の一案を出していたのである。「風船」とは、象山自身が研究中の『気球』のことであった。ちなみにここから約百年後の太平洋戦争において、アメリカ本土攻撃の苦肉の策として考え出されたのが、奇しくもこのとき象山が詠んだ『気球船』の爆弾投下計画であったと言ったら、皆さんはどのように思われるだろうか。
無論昭和19年から翌年にかけて実施された『ふ号作戦』通称『風船爆弾』は象山の案ではないが、百年も前の刀を差している時代すでにこのアイディアに達していた象山の発想力には誰もが舌を巻かざるを得ないだろう。
無論、象山は当時の洋学者の発想の到達点としてそれを述べたに過ぎないわけで、実施を考えていたわけではない。ただもちろん幕府方にしかるべきスポンサーがいて、依頼を受けたとしたら、そうした発想も可能だ、と言う意味で言ったと思われる。
しかし、象山自身はそのアイディアを気に入っていたようで、この話は長州の吉田松陰や肥後の攘夷浪士、
突飛な発想を軽々しく言うせいか、同時代人の評価はやや辛い。例えば勝海舟などは「何でも知っている」人間だと述懐しながらも「
取り分け
象山が増上慢の卑怯者であると言う痛烈なそしりを受けることとなったのは、愛弟子であった吉田松陰が嘉永7年(1858年)3月、下田港で密航を企て捕縛され国禁を犯した事件において密航をそそのかしたとして象山が連座した一件である。
象山は徹底して関係を否認、その態度は幕吏に「往生際の悪い男」の悪印象を持たれることと相成った。縄目の恥辱を受けた上でも、堂々たる態度で供述し、自分のしたことについて何も申し開きをしなかった吉田松陰とのちょうど悪対照となってしまったのである。
象山は『
当の松陰が「象山先生の志の高さを、幕吏は理解しない」と高らかに師を擁護したのも逆に作用した。かくして「必死で慕う弟子を庇わない師匠」の烙印を押された象山は江戸の洋学塾を引き離され、松代蟄居を申付けられるばかりか、「吉田松陰を見殺しにした男」として、攘夷派の志士たちからも逆恨みを買うことになる。
かくして元治元年(1864年)7月、京都木屋町の路上で、乗馬して通行中の象山は辻から出てきた男に斬殺され、53年の生涯を終えるのである。斬殺したのは、肥後浪人で『人斬り』と名高い
彦斎の先達には、同年かの池田屋事件で殺害されるまで、肥後攘夷派の中心人物であった宮部鼎三がいる。宮部は松陰と同時期に象山に師事しており、先述したように当初は「いかにして西欧の発達した武力から、我が国を守るか」と言うことについて、興味を寄せていた人物であった。さらには彼らは松陰を『人柱』にされた長州派浪士たちともしきりに、共同歩調をとっていた。
もしアメリカと戦うこととなれば「日本刀を持って抵抗する」美学の松陰と、「気球船で上陸作戦を決行する」と言う理想の象山、二人を見ていた男だ。当時、我が国がどちらを時代に択んだか、河上彦斎と言う暗殺者は、それを象徴していると考えても、あながち間違いではないかも知れない。
真田松代藩は象山死後、佐久間家を改易処分にした。象山の遺体検分に「後ろ疵13か所」があり士道不心得だと言うのだが、それは果たして真実か。
事件直後の遺体を検分した検視証(
「法螺吹き」「卑怯者」のそしりを受けた象山だが、老中阿部正弘の目に留まった『海防八策』を見ても分かる通り、海外の脅威に現実的な具体策を講じて立ち向かった人であった。この八か条は悪戯に幕府の欧化を進めよう、と言う軽薄なものではなく、軍制改革、軍需産業の興業、国防計画の充実の具体的な提案書である。
前出、島津斉彬をはじめとする地方の先鋭藩主たちのほとんどが、この象山の提案したすべてを私財を投じて行っていることからしても、その視野は決して上っ滑りしたものではなかった。
ただ、考えてみて欲しい。斉彬のように大資本と人材の山を持つ大名諸侯たちがようやく、理解する話である。例え開明的な思想を持っていたとしても、一般の身分の武士たちはどこまで、象山の話を具体的に想像しえたか否か。
事実、象山は、自らの身分に比して、話が大きすぎたのだけが災いした。よく判らない話をする途方もない『
しかしながらただ独り、象山の
「余人を斬る、木偶人を斬るがごとく」(人など
と、うそぶいていた彦斎は初めて総毛の逆立つ想いがしたと言う。
「(暗殺をした象山が)是が絶大の豪傑」であったと感じた彦斎は、自分の暗殺剣の死を悟らされた。
「今より断然この不祥的の所行を改めて、まさに象山を以てその手を収めんのみ」
(象山暗殺以後は、私は絶対に人を斬ることをやめよう)
その血肉に直接触れえた最期の男こそが誰よりも、象山と言う男の偉大さを何よりも理解させられた。理屈抜きに動物的な感覚として、人斬り彦斎は象山を殺したことに恐怖を感じたのだろう。時代あえて、かくなる皮肉の姦人を生まんや。
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