空に走る ~ 始皇帝暗殺を記述せよ

杉浦ヒナタ

第1話 歴史は竹簡の上にある

『宦官 趙高ちょうこうおよび皇子  胡亥こがい、始皇帝陛下を弑逆す』

 紀元前210年。秦帝国の都 咸陽の壁面に貼りだされたその報に、集まった民衆は目を疑った。


 人々が見上げているのは朝廷内の出来事を内外に知らせるための官報である。

 官報の制度は遠く春秋戦国時代より行われてきたものだが、盟主ともいえる周王朝の衰退とともに行われなくなっていた。

 だが秦帝国による中華統一を経て、始皇帝が制度復活の準備を推進してきた事業であった。


 そして官報が最初に報じたのは、皮肉にもその始皇帝の横死であった。


 ☆


「ええい。散れ、見るな!」

 衛兵が剣を振り回し、集まった民衆を追い散らしている。数人が剣で負傷し、逃げ惑う中、転倒して踏みつけにされる者も続出した。

 その様子を城壁の上から見下ろすのは趙高と胡亥。そして宰相の李斯りしである。彼らは揃って憔悴の表情を浮かべている。


「何ということであろう。だから官報など廃止しろと言ったのだ」

 李斯は趙高を睨みつけた。

「あれは陛下の御意向でございます。文句があるなら棺の中に言って下さいませ」

 趙高は物腰だけは丁寧に、しかし低くドスの効いた声でうそぶくと、舐めるような視線を李斯に這わせる。背筋に冷たいものを感じた李斯はぞくっと身体を震わせた。


「この官報を書いた史官を捕らえねばなりませぬな」

「そうだ。このままでは、おれは破滅だ。何とかしろ趙高」

 かん高い声で喚き散らすのは始皇帝の末子、胡亥である。趙高はその愚鈍な顔を厭わしいもののように見た。

(愚かな方が操りやすいと見てこの男を擁立したが、それにしても限度がある)


 だが、まずは史官からだ。たしか、太史たいし 詞という男だ。趙高はたるみ切った頬をゆがめた。


 ☆


 宮廷において歴史を記録する者を史官という。その長は太史と呼ばれ、彼らの多くはそれを姓としていた。

 太史 詞は若くしてその地位に就いた俊英として知られる。彼は各地に一族のものを配し、帝国中の情報を収集していた。

 そのため、始皇帝の崩御に関し最も早く疑念を抱いたのも彼だった。


「まさか。そんな事が」

 集まった情報を整理していた彼は、低く呻いた。


「皇子胡亥と趙高が共謀して陛下を。宰相までが、その謀議に加わるとは……」

 これが真実なら、帝国の瓦解すら起こりかねない大醜聞である。

 筆を持つ詞の手が震えた。

「これを官報に書かなくてはならないのか」


 その時、部屋の外で彼を呼ぶ声がした。

「兄上、葵さまがお見えです」

 妹のえいに続いて顔を見せたのは、幼い頃からの友人、楊葵だった。まとまりの悪い髪をかきあげ、精悍な顔でにやりと笑う。


 楊葵は机の上に広げられた竹簡を見て足を止めた。

「すまん。仕事中だったか、詞。……どうした、顔色が悪いようだが」

「ああ。ちょっと書きあぐねていてね。大丈夫だ、座ってくれ」

 太史 詞は楊葵に椅子を勧める。


「これだろう、お前が探していたのは。やっと骨董市で見つけたぞ」

 そう言って楊葵が差し出したのは一本の小刀だった。書刀しょとうと呼ばれ、竹簡を削るためのものだった。全体に美しい装飾が施されている。

「おお、これは見事なものだ。感謝するぞ、葵」

 詞はいつもの怜悧な顔に、子供のような笑みを浮かべた。


「こんなものが嬉しいとはな。普通の物とどこか違うのか」

 同じく史官だが、楊葵にはそこまでの拘りはなかった。道具はあくまでも道具でしかないと思うのだ。


「それは違うとも。ふひとにとっては、まず道具だからな」

玩物喪志がんぶつそうしという言葉もあるが……って、聞いていないな」

 詞はいそいそと竹簡を削り始めていた。だがすぐに手を止め、書刀を机に置いた。彼はそれを見詰めていたが、やがて哀し気に呟いた。

「だが、これを使う事はもう無いかもしれない」



「なんだか元気が無かったな、詞は」

「そうですね……あ、ちょっと」

 部屋を出た楊葵は振り返ると、詠を強く抱きしめた。


「だめです、葵さま……うっ」

 楊葵は詠の唇を奪うと、舌を差し入れる。詠は慌てて彼を突き放した。唇をおさえ、周囲を見回す。

「何をなさるんです。ここは人目が……」

 くすっと笑った楊葵は詠の頬を撫でた。


「ならば、君の部屋なら大丈夫なのかい」

 楊葵の言葉に、詠は真っ赤な顔で頷いた。


 ☆


 詠が楊葵の家を訪れたのは翌日の夕刻だった。


 泣きはらした顔で、悄然と立つ彼女を葵は招き入れた。

「どうしたんだ、詠どの。それに、その書刀は」

 彼女は一巻の竹簡と、彼が昨日、太史 詞に渡した書刀を手にしていた。


「兄は先程、処刑されました」

 血を吐くように詠は告げた。そして手にした竹簡と書刀を葵に手渡す。

「これは兄の形見と思って下さい」

 そのまま詠は背を向け、部屋を出て行く。


「待ってくれ、詠どの。どういう事だ、詞が処刑されたというのは」

 彼女は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。

「兄は太史としての務めを全うしました。ただ、それだけです。ああ……その竹簡は明日の夜まで、見ないで下さいね」

 そして微かに笑みをみせた。



 楊葵は太史 詞が長に就いていたやくしょに駆け込んだ。

「衙官の楊葵だ。太史が処刑されたというのは本当なのか」

 史官ではない粗暴な雰囲気を持った連中がその中を占拠していた。ひとりが楊葵の前に立ちはだかり、胸倉を掴んだ。

「貴様、右衙の史官か。ならば左衙の事に口出ししない方が身のためだぞ」


 男に突き飛ばされ、楊葵は街路まで転がった。

「心配するな。明日になれば官報が出る。それを読むのだな」

「剣で歴史を記すことはできないぞ。野蛮人ども」


 男は残忍な表情で、うずくまる楊葵を見下ろした。

「生意気な。……史官ごときが」

 男の足先が楊葵の腹部に食い込んだ。顔面、胸部と容赦なく蹴りが入る。血と吐瀉物にまみれ、楊葵は意識を失った。


 ☆


 雨が降っている。

 頬を打つ水滴に楊葵はかすかに目をひらいた。周囲は薄っすら明るい。いつの間にか夜が明けてしまったらしい。

 起き上がろうとして気付いた。右手の指が何本も折れている。肘も曲がらない。昨夜の男に利き腕を徹底的に痛めつけられた結果だった。


 ずぶ濡れになりながら、楊葵は歩き続けた。彼はやがて、人だかりの出来た城壁の前に出た。官報が掲示される場所である。

「よいか。世を誑かす言説を行った者は、こうなるのだ!」

 壁の前で、兵士が大声をあげている。 


 楊葵は左手で人波をかき分けて、最前列まで出た。

 剣を掲げた男の足元には、ひとりの女性が倒れていた。その周囲には真っ赤な血が流れている。

「詠どの……」


 背後の壁に掲げられた官報には、見慣れた彼女の文字でこう書かれていた。


『宦官 趙高および皇子 胡亥、始皇帝陛下を弑逆す』


 ☆


 どうやって役宅まで戻ったのか楊葵には記憶がなかった。親友と恋人を相次いで失った彼は、死人のような顔で寝台に倒れ伏した。


 血と泥のこびりついたままの楊葵はふと顔をあげた。雨があがり、月の光が差し込んでいる。それは机の上に置かれた竹簡を照らしていた。

 楊葵は緩慢な動きで起き上がると、それを手にとった。激痛がはしり右手は動かない。やっと左手でそれを拡げる。


『我が友、楊葵。歴史は竹簡の上のみに在るのかという議論をしたな。君は、歴史とは文字ではない、と言った。だが、私は太史だ。文字として残すのが私に与えられた役目なのだ。私は趙高と皇子の罪を書き記さなければならない』

 楊葵はそこで、官報に記された言葉の意味を知った。


『だがおそらく私は殺され、官報は破却される。そして君は妹の性格をよく知っていると思う。あれも太史の血を受け継ぐ者だ。重ねて君を悲しませることになるのは辛い。だが、歴史を記すことは、我らの宿業なのだと分かってくれ。

 君を義弟おとうとと呼びたかったが、叶わないのが心残りだ』


 ☆


 夜明け前。楊葵は城壁の前に立った。


 そこには既に大勢の人間が集まっていた。

 兵士の姿も見えるが、多くは楊葵と同じ史官だった。彼らは掲示板の前に立ち、身をもって兵士を遮っていた。

「あなた達は……」


 年老いた史官が歯の抜けた口を大きく開けて笑った。

「なに。お前さんが来なければ、わしが書こうと思ってな。そうしたら、この通りじゃ。みな同じ思いなのさ」

「わたしたちは史官ですからね」

 苦笑いを浮かべ、若い史官が墨をつけた筆を差し出した。

「あ。あなた右手が……」

 史官は気まずそうに筆を下す。


 楊葵はひとつ頷くと、懐から詞の形見の書刀を取り出す。折れた指先を深く傷つけ、流れ出る血で文字を書き付けた。


 『宦官 趙高および皇子 胡亥、始皇帝陛下を弑逆す』と。


 日が昇り城壁に光が差してきた。


 楊葵は昨日、詠が倒れていた場所にうずくまった。

「詞……、詠」

 落ちた涙が地面に染みをつくる。

 だがその染みは、急に降り出したにわか雨によって覆われた。


 楊葵は空を仰ぐ。明るく雲のない空から、柔らかに雨は降り続いた。


 ☆


 この官報はついに消される事はなく、やがて来る秦帝国滅亡への端緒となったという。



 ―― 了 ――

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