終章

エピローグ

 あの日を経ても、僕の日課は変わらなかった。


 朝起きて、重い目蓋で階段を降りる。

 叔母さんが作り置きしてくれたピザトーストをオーブンレンジに突っ込みひねりを回す。その間に自室の布団を畳み、空気の入れ換えを行う。

 顔を洗い、湧かした湯にティーバックを浸す。

 朝食中は興味のないニュースになるとチャンネルを回し、ぼーっと眺めた。眠気を覚ましながらトーストを口に運び、最後は紅茶を飲み干す。


 変わったことといえば、悪夢に悩まされることがなくなったこと。それと、箇条のメールが頻繁に送られてくること。

 

 朝の貴重な時間のうち、数十分を仏壇の前で過ごすのは相変わらずだ。





 ああ、そういえば。もうひとつ変わったことがあった。


 僕は目を閉じて、今朝見た夢の内容を反芻した。

 夢のくせに妙にはっきりと記憶に残っていて、こうするだけで思い出せる。しのぎの夢を――。






 その世界は、まるで水の中から見ているようにボヤけていた。


 レンズ越しの浮遊感に何の疑問も持たず、目前に広がる曖昧な景色に目を細める。


 澄んだ水色を背景に、様々な色がまばらに広がっていた。


 それが味の違った鮮やかさをほこる花々であると気づくのに、そう時間はかからない。風に吹かれ宙を舞う花弁を認識すれば、ここはいつもの丘であることが理解できる。


 ピントを合わせるように景色をはっきりさせる。現実感のない世界をより受け入れる。

 風の音が聞こえてくれば、足下にざわめく花の感触もくすぐったい。



 気づけば、鮮やかな色の中に、彼女が立っていた。

 丘の上に背を向けて立ち、動かない。でも、僕がおぼつかない足取りで近づくと、決まって振り返ってくれる。


 相変わらずそよ風は頬を撫で、鮮やかな花々は世界を彩り、雲ひとつない空は輪郭を透かす。


 長い髪が揺れる。

 肌が光を反射する。

 宝石のような瞳が優しく僕を射抜く。


 そして、白く細い指を持ち上げると、目を細めて微笑む。

 何を言うこともなく。

 ただ、ここに居ることを知らせるように。




 携帯が激しく揺れ、現実に連れ戻される。

 いつもどおりいくらかの時間が過ぎていたが、まだ余裕はある。だというのに、わざわざ電話をかけてまで急かす相手は一人しかいない。


「もしもし」

「なぁあにやってるんですか先輩ぃ! 私ずっと外で待ってるんですけど!?」

「インターホンを押せばいいのに……」

「はやく来てくださいよ! 道行く人に不審がられてます!」


 再会したしのぎの死を見届けてから数日。

 恋人同士となった箇条のストーカー傾向は日に日に強くなっている気がする。あれだけ心配させてしまった手前、仕方ないとは思うのだけど。

 僕はため息を吐いて立ち上がった。


 時間だ。


「……行ってくるよ。しのぎ」




◇◇◇




 通話が切れたのを確認すると、私は身だしなみを整えはじめた。

 服のホコリをはらい、前髪の位置を調整し、表情筋をほぐすつもりで頬を引っ張る。念願の関係になったのだ、些細なところでも努力はかかさない。


 ……スカートから覗く足には包帯が巻かれていた。高白自然公園から駅まで、それなりにある距離を、私は走って移動したのだ。豆はできるし転ぶしで激痛が襲った上、次の日は当然筋肉痛。

 その分、今日はようやく徒歩通学ができるようになったため、気分はウキウキであった。恋人同士になってから初めての『一緒の通学』だ。

 ついでに言うと、ポニーテールもやめた。

 しのぎさんの髪の長さから考えて、先輩はあっちのほうが好みだと踏んだのだ。真似をしている、と言われればぐぅの根も出ない。しかし、彼女はきっと怒らないだろう。

 そう思う理由が、私にはあった。


 先輩が戻ってきてから一度だけ、夢に御宇佐美しのぎが現われたことがある。

 今でも覚えている。

 色鮮やかな花々が増えた、透明感のある、まるで別世界のような丘――高白自然公園。

 交わされた言葉は皆無だった。

 他の誰も、何もない、風が気持ちいい世界で、ただ向き合う。それが彼女との最初で最後のちゃんとした対面。ちょっぴり生意気な、けれど、どこまでも綺麗な顔で微笑んでいる光景が、脳裏に刻まれている。

 信頼、挑発、感謝――それら全てを内包した御宇佐美しのぎの空気は、とても不思議で、なおかつ魅力的だった。



 ガチャ、と自宅から出てくる気配を感じ取り、私は顔を上げた。


「おはようございます、先輩っ」

「……髪、ソレにしたんだ」

「へへ、似合います? どうなんです? 惚れ直す?」

「かわいいけど態度がムカつく」

「辛辣!? もっと素直になってよ先輩のケチ!」


 言い合いしつつ、先輩の手を強引に握り、一緒に歩き出す。

 『もう逃がさない』と誓ったゆえの、前向きな行動だ。

 手を繋いで、共に過去を背負う。これからを生きていく。居なくなった先輩のお姉さんも、おそらくそれを望んでいる。


 夢の中で交わされた言葉はなかったけれど。最後に頭を下げた彼女の意思を、私は汲み取ろう。




「――あれ」



 先輩と歩き出した、そのとき。

 視界の隅にふわりと揺れた髪を見た気がして、振り返る。


「なに、どうしたの」

「い、いえ、なんでも……」


 そこには誰もいない。

 ノイズに包まれた影はもちろん、あの日見たワンピース姿の彼女も。



 けれど、また歩き出した私の耳には、五月の風に乗って確かに聞こえた。



 『弟をよろしく』――と。







 ――Fin.

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再会するノイジー 九日晴一 @Kokonoka_hrkz

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