あんたちゃんと読んで考えて言ってる?――粗雑な肉食肯定論を討ち滅ぼす

 タイトル通り。今回はレステルの議論の中核について解剖を試み、その内容の雑さに突っ込みを入れながら、土台を潰していくことを目指している。読み返せば読み返すほどに、この本の粗さが際立っていることに気づくし、一つ一つを細かく批判していくと膨大な量となってしまうので、あくまでも重要な点を指摘していこうと思う。


 さて、レステルの議論の雑さと酷さは、おおよそ3つのポイントに集中させることができるだろう。


 ①肉食を肯定する根拠の脆弱さ

 ②ラディカルに読めば異常な議論となり、穏当に読めば論の鋭利さを失って自家撞着に陥ること

 ③自分が批判する対象に関する文献を読んだ形跡がみられず、主語を大きくして印象批判に及んでること


 この3つはそれぞれレステルの議論を殆ど無価値に等しくしてしまうほどに致命的で、なぜこの本が学術的な論文集としてではなく、あくまで「エッセイ」としてしか出せなかったのかを物語っている。仮にこのような怠慢としか言いようがない議論を展開する本が学術本として認められるのであれば、アカデミズムなど死んだも同然である。

 

 それでは1つ目から具体的に指摘していこう。


 ①肉食を肯定する根拠の脆弱さ


 レステルは自身の肉食を肯定する倫理的根拠として、狩猟採集民族であるアルゴンキン族の生活様式を引いて依存契約の倫理を提唱する。

 

 「アルゴンキン族の狩りと肉食の態度には、何より肉食者としてのヴィジョンを見てとることができる。彼らの社会において個々の活動は、贈与と返礼のシステム、すなわちやや手の込んだ依存のシステムのなかでおこなわれる。食うために動物を殺すという事実により、狩猟者は他の種の成員と契約を結ぶことになる」(p.94)


「ヒトと動物の依存関係は、それほど特別なものではない。すべての動物が相互に依存し合わずにはいないのだ。そこに生の本質をなす原則がある。この認識は二重の利点を持っている。この認識は他の生き物に負っているすべてを思い起こさせ、採取していい限界、特に量的限界を設定する。必要以上に捕獲することは論外だ。すなわちどのような捕食もシステムを危険に陥れてはならない。食うとはしたがって依存契約を結ぶことのみならず、自らもそのシステムの内にあると認めることだ。動物を食うことは、動物性の地平においてヒトが例外的身分を享受しているとの確信を拒絶することだ」(p.98)


 さて、そもそもここでいう「契約」とはどういう意味なのだろうか。レステルは本文中において「契約」について特に指定することなく使用している。しかし、我々が社会通念上において「契約」という表現を使用する場合、それは双方が互いに合意という意思表示をすることで達成される法律行為のことを意味する。例えば、Aさんが《君のドルチェ&ガッバーナの その香水のせいだよ 》という歌詞に影響されてドルチェ&ガッバーナの香水を手に入れようとしたとして、「ドルチェ&ガッバーナの香水が欲しいんです。売ってください」とお店の人にお金を渡して購入するのは紛うことなき契約行為である。或いは、SMプレイがしたいBさんが、SMクラブで自分の身体を女王さまことCさんにいじめ抜かれたとしても、双方共に合意の上で及んでいるならば正当な契約と見做されるべきである。

 しかし、次のような場合はどうだろう。

 先ほど出てきたAさんがお店の人から無理やりドルチェ&ガッバーナの香水を強奪したら?

 BさんとCさんが結婚したとして、突如サディストに目覚めたBさんが、特にCさんの合意もなく殴打するなどの暴力行為を行ったら?その激しさでCさんが死んでしまったら?

 これらは契約でもなんでもない。前者は窃盗で、後者はDVによる殺人行為だ。他者危害禁止を標準とした文明社会において、契約という表現を、このような状況において当てはめるのは不適切であり、明らかに間違っている。

 仮にレステルの契約をそのままヒトに該当させてみればいい。「動物性の地平においてヒトが例外的身分を享受しているとの確信を拒絶」しなければならないのだとすれば、我々はそもそも今の文明社会を捨てるべきではないか?私は文明社会で生きてる人が例外的身分を享受しているとは露ほどにも思ってはいないが、レステルの議論をそのまま通すのであれば、何も「食う」ことに限定して狩猟採集民を模倣すべきとはならないはずだ。例えば、伝統的小規模社会では部族間抗争が苛烈である場合が多い。J.ダイアモンドは戦争関連の死亡率についてのそれぞれの社会の最高値を比較している。すると、20世紀の現代国家の最高値であるドイツとロシアの値すらも、伝統的小規模社会の平均値の3分の1に過ぎない事がわかった。ダニ族の平均値との比較では、その6分の1に過ぎず、全体的な比較では、現代国家社会の平均値は伝統的社会の十分の一ほどとなる。この理由についてダイアモンドは以下のように述べる。

 

「まず第一に,現代国家は平和な状態が例外的に戦争状態に切り替わるものだが,部族戦争はほぼ常態化しているものであることが考えられる.たとえば,二〇世紀のドイツが戦争状態にあった期間は一九一四から一九一八年の四年間と,一九三九から一九四五年の六年間だけであり,計一〇年に過ぎない.そして,この一〇年以外の九〇年間の戦死者数はゼロに等しいのである.これに対してダニ族のあいだでは,昔から毎月のようにどこかで戦争があった.第二の理由として,国家戦争の戦死者が,主として一八歳から四〇歳の男性兵士にかぎられていることが考えられる.しかも,その年齢幅のなかでも職業軍人だけが戦場におもむく場合がほとんどで、ふたつの世界大戦のように大規模な徴兵がおこなわれるのは例外的である.さらに,第二次世界大戦で無差別絨毯爆撃が登場するまでは,都市が壊滅的に破壊され,多数の一般市民が犠牲になることもなかった.対称的に,伝統的社会での戦争は敵味方集団の人間す

べてが攻撃の対象とされる.つまり,男性,女性,壮年者,年寄り,子ども,そして赤ん坊までもが攻撃されるのである.第三の理由として考えられるのが,捕虜の取り扱いの違いである.国家戦争では,降伏したり捕虜になったりした兵士が殺害されることはあまりない.しかし,伝統的戦争では一般に,捕虜は全員殺されてしまう.最後に,もうひとつ考えられる理由に,大量虐殺の生起の有無がある.大量虐殺は,国家戦争では,ほとんどといってよいほどみられないが,伝統的社会ではときどき起こり,一方の陣営の大半が殲滅されてしまったり,全人口が虐殺されてしまったりする.この格好の例が,一九三〇年代後半,一九五二年,一九六二年六月,一九六二年九月,一九六六年六月四日に,ダニ族の部族間で生起した大量虐殺である.これとは対照的に現在の国家戦争の戦勝国は一般に,敗戦国の国民を全滅させたりしない.生かしておいてむしろ利用するのである」J.ダイアモンド,2017,『昨日までの世界(上)』(倉骨彰訳),日経ビジネス人文庫,pp.304-305



 レステルの狩猟採集民族の社会から倫理を見出すロジックは、粗雑でご都合主義そのものだ。なぜ一部の、それも特定の狩猟採集民族の一つの生活様式部分だけを見倣って、他の部分は受容しようとは言わないのか理解に苦しむ。ロマン主義的に動物を「食う」ことだけを肯定してみせるが、普遍化可能性から言って、そのロジックは他に適用することもできるし、そして自説を肯定したいならそうしなければならない義務があるはずだ。


 そしてこうしたレステルのご都合主義ぶりは最初に挙げた②の問題を生み出す。


 ②ラディカルに読めば異常な議論となり、穏当に読めば論の鋭利さを失って自家撞着に陥ること


 先ほどのレステルの議論はラディカルに読み解こうとすればするほどに異常な議論へと発展する。例えば彼が肉食を肯定するロジックとして提出している依存契約倫理にしても、様々な場合に当てはめて解釈することは可能だ。例えば、法廷に来た被害者の母親に対して「お前の息子は、オレがここから(口を指差し)食って、糞に変えてやったよ。もう蠅の餌になっちまったろう」と言い放ったアンドレイ・チカチーロなんてどうだろうか。多くの児童を強姦の上殺害したロシアの食屍鬼と悪名高いアンドレイ・チカチーロは、まさに依存契約を児童の間で結んでいただけなのだと抗弁することもできるだろう。はたまた、まさに自分に内縁の妻やその家族を依存させることで一家を皆殺しにした松永太も、被害者と相互に依存契約を結んでいただけなのだと主張するだろうか。

 擁護者は「いや、これはあくまでも人と動物との関係性についてだけを限定的にみてるだけなのだ。穏当に読み込めば、彼はそこまでおかしなことを言っていない」と反論するかもしれない。しかし、そうなれば、レステルの議論は一挙に鋭利さを失い、自身の導出した議論の中で矛盾が生じてしまう。何故なら、レステルは『肉食の哲学』のなかで複数回に渡り「ベジタリアンは人を動物と分離して生物間のヒエラルキーを構築しようとしている」と何度も繰り返し批判しているからだ。もし仮に彼のロジックに従うならば、ヒトが今のような文明社会を構築していることそのものが「生物間のヒエラルキー」を構築しているという話になるだろう。

 ここで他の彼の言及に注目しよう。彼は本文の中で「動物に食われることも許容しよう」といった言及をしている(pp.114-115)。その中でスー族の獣葬(動物に遺体を食べさせる葬儀)を持ち上げ、反対に(余計なお世話としか言いようがないが)火葬を反倫理的として批判している。しかし、このロジックに照らすなら獣葬に限定する必要性などないはずだ。例えば日本でも三毛別羆事件、福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件などが代表的であるように、人が文字通り他の動物に獣害を受ける事例はあるだろう。こうした獣害を全面的に肯定せよと読むならば、レステルの議論は極めて異常ではあるにせよ、論理としては一貫している。しかし、彼はそのような議論を展開することがない。わざわざ穏当な例として獣葬をあげているのは、そもそも論として人がそのような害を受けることを前提にしていないからだろう。つまり穏当に読み込むなら、彼の議論はベジタリアンを批判するつもりで言い放った理論がそのまま自分にブーメランとして跳ね返ってくることとなるわけだ。これは彼が特に深く考えることもなく、思いつくままに駄文を書き連ねていることに起因する問題だろう。

 そして、彼の議論の問題点はまさにそういう部分にある。例えば、彼は別の箇所でこんなことを言っている。


 「合法的にふるまうことはかならずしも優しくふるまうことではなく、あらゆる暴力が本質的に合法的でないわけではない。暴力は子どもに対するふるまいとして規範的方法ではないが、暴力という手段を禁じられたり、あらゆる暴力から根本的に守られている子どもが適切に発達し、バランスのとれた創造的な人間になるだろうか。他の動物に対する暴力を欠いた生はたぶんより倫理的かもしれないが(そしてさらに、そのことをまさに議論したいのだが)、真に生きるに値する生を成すものに比べ、何か本質的なものを欠いている」(p.79)


 結論から言ってしまえば、これは子どもへの暴力を肯定する文章に見える。そして暴力こそが子どもの適切な発達に寄与し、バランスのとれた人間に育てるというような内容の文章に読める。いや、もっと思いきったことを言ってしまえば、暴力こそが真に生きるに値する生を支えているのだ、とまで読める。実際のところ、暴力から子どもが守られるべきなのは数多くの資料から言うまでもないことだ。今はもう亡くなられてしまったが、岡本茂樹の本に出てくる刑務所の中の囚人の多くは、幼少期に愛情を受けられず、暴力に晒されてきた人間が多い。そして体罰は脳を萎縮させ、情操の発達に大きなダメージを与えることなども研究から明らかになってきている。このレステルの文章は、脳幹論という全く根拠の欠けた体罰肯定論を主張している戸塚宏と変わらなく思える。

 しかし、当人はこのように嘯くかもしれない。「これはそのような暴力を肯定しているのではない。適切で健全なものだけに限定しているのだ。だからそのような過激な読み方は間違っている」と。だが、そのように穏当な読み方をするのであれば、必然的に次のような問いを出さなければならない。「どこまでが適切で、どこまでが不適切なのか」ということだ。レステルは本文中において、そのような線引をする議論を一切していない。何がどう適切で健全なのか、自分の直感によるアドホックな議論をするだけで、合理的な根拠を一度も提出していないのだ。そして、具体的なことも何もはっきりと提案していない。ただただ、自分の気分を良くするための倫理学を提唱しているだけだとしか言いようがない。

 道徳的動物日記におけるデビット・ライス氏の言葉をここで拝借しよう。


 「ポストモダン思想は「他者」や「脆弱さ」などの曖昧な概念を持ち出すことで、私たちがなんとなく抱いている「理由もなく動物に苦痛を与えることは非倫理的だ」という気持ちをなんとなく肯定してくれる。ただし、その「他者」とか「脆弱さ」とかいう概念が指し示すところを考えていった結果私たちはどのように行動するべきであるのか、私たちはどのような義務を背負っているのか、ということについては深入りせずにはっきりさせない。一方で、「苦痛を基準にすることは暴力的だ」「権利とか道徳的原理といった概念は悪である」ということははっきりと主張するので、「肉食は動物に苦痛を与えて殺害するので非倫理的であり、私たちは菜食主義者になるべきだ」という主張に対して私たちが抱いている反感…あるいは、菜食主義者たちに対して私たちが抱いている反感…も肯定してくれる。要するに、私たちは動物のために何かをしようとしないままでも善人のままでいられるし、むしろ動物のために何かをしようとする連中の方が悪人なのだと非難することもできる。ポストモダン思想がウケるのは、一見した時の斬新さとか深遠さとは裏腹に、私たちを快適な領域(comford zone)から押し出さずに安楽な気持ちのままでいさせてくれる思想だからである」

 動物倫理とポストモダン思想

 http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2017/01/10/222412

 

 ③自分が批判する対象に関する文献を読んだ形跡がみられず、主語を大きくして印象批判に及んでること


 この記事も終盤に差し迫ってきた。最後にレステルの議論で最も許しがたいことについて言及して終わりにしたい。

 レステルの批判は常に「ベジタリアン」か「ビーガン」に向けられている。ここで重要なのは、彼が「ベジタリアン」や「ビーガン」の議論をとりあげる際、それは誰の理論なのかをはっきりさせようとしないことだ。

 現代の動物倫理学者は有名どころではピーター・シンガー、トム・レーガン、ゲイリー・フランシオン、そして最近ではキムリッカ&ドナルドソンがいる。ピーター・シンガーは功利主義者で解放論の牽引者だが、それ以外は大まかに言えば権利論者の代表格だと考えてもらえばいい。これだけいる中で、彼の本の中で出てきたのはピーター・シンガーとフェミニズムからベジタリアニズムを提唱しているキャロル・アダムズの名前くらいだ。しかも、シンガーの議論を引用して批判するのではなく、「ベジタリアンはこのように考えている(はず)」といった形式で批判していくことが散見された。このように主語をぼかして批判するのは何故なのか。恐らく、殆どのそうした研究者の本の内容に目を通していないからだろう。事実として、彼は現在のR.ドーキンスまでを追っていたなら絶対に間違えないだろうことを本文中において書いている。そのことは一番最初の記事で指摘したことだからここでは繰り返さない。とにかく、まず何よりも許しがたいのは、自分が批判する対象についてろくに学習もせずに適当な印象批判をぶって悦に浸っていることだ。せめて彼らの代表作を一作でも読んでその内容を批判するというのなら理解できる。一切そういうことに触れず、ただ「ベジタリアン」「ビーガン」と一括に主語をデカくして批判するのは、ツイッターのアルファアカウント並の愚行であり、研究者としての資格に疑義を呈されるレベルの暴挙としか言いようがない。

 

 何度も繰り返して言っておこう。このように論敵に対して必要最低限度の思いやりや礼節が欠如し、雑で酷い議論を展開しているレステルの議論が持て囃されるのであれば、アカデミズムはまさに死ぬべきである。


 

 


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ドミニク・レステル『肉食の哲学』の許されざること @Votoms

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