新自由主義と培養肉

 さて、予告通りやっていこう。

 ダ・ヴィンチニュースでささき・ののか氏の書いていたことが全く腑に落ちなかったので、とりあえずそれを紹介しておこう。以下引用する。


 


 「「動物を自身のなかに迎え入れ、動物を自身とし、自分も動物であることを真に引き受ける方法だ」という著者の視点に立てば、人工肉も「悪」となる。なぜなら、人工肉とは「細胞の寄せ集め」であり、「かつて生きていた動物」ではないからだ。

 さらに、人工肉を賞賛することは、ヒトの食の運命を自然ではなく、スタートアップ企業と、その延長線上にある多国籍企業、さらには資本主義に明け渡すことだとして強く批判している」

 「動物を殺して食べるのは可哀想だからやめるべき」なのか? 肉食を人間の義務とする“倫理的な”理由【読書日記25冊目】

 https://ddnavi.com/serial/653445/a/


 一応、レステル大先生の前提を確認しておくと、彼はベジタリアニズムについて「動物と人間との間を分離している差別主義」であり、※1肉食こそ「残酷さを引き受けることで自分が動物であるということを引き受けているのだ」として倫理的な肉食主義を主張している。

 彼の認識を一応確認したところで本題に移りたい。今回は新自由主義と培養肉の関係性についての話だ。ささき氏が引用してきたのは『肉食の哲学』のあとがきにあたる部分からだろう。フランス人哲学者が喋るveganよりのテディベアを徹底的にやりこめるという非常にくだらない箇所だ。※2要するに彼はveganをおとぎの国を信じてる夢見がちな子どもくらいに思ってるというわけだが、そこの箇所で資本主義批判のついでに人工肉企業を批判しているわけだ。少し長いが、全体を引用する。


「多くの文化において、肉食とは動物への犠牲的行為であり、動物を自身のなかに迎え入れ、動物を自身とし、自分も動物であることを真に引き受ける方法だ。人工肉は肉ではない。肉とはかつて生きていた動物なんだ。人工肉は研究所で生産された細胞の寄せ集めに過ぎない。細胞工学の単なる産物だ。ビーガンは「何が悪い?」と言うのだろうが、ぼくの答えは、これはヒトの食の運命をスタートアップ企業と多国籍企業の手に委ねる思惑だということになる。スタートアップも多国籍企業も同じことだ。あらゆるスタートアップの使命は多国籍企業に(高値で!)買われてることだからね。多国籍企業の有害な側面、とりわけ環境と政治面での弊害がますますわかってきている今、彼らの権力を強化することには首をかしげるよ。多国籍の食肉産業と闘いながら彼らの擁護をするなんて、まったく一貫性を欠いている!」(pp.144-145)


 一見すると、レステルは培養肉を全面的に否定しているように見えるが、しかしこのおっさんは2000年の培養肉実験に関して本文の方ではこんなことも書いているのだ。


 「この実験で目指されていたのは「犠牲なき肉」の発明なのだ!オロン・キャッツ、イオナ・ザール、ガイ・ベン・アリーが書いているように、ここでは次のようなことを問うことができるだろう。「半―生物の到来でわれわれの社会では他者への配慮が進むのか、あるいは生の物象化が進むのか」。ある動物のクローン化は、それを食うことを可能にするだろう。この試みはベジタリアンには馬鹿げたものに映るに違いないが、本質的な課題と全面に扱われている問題はかならずしも一致しないということを、かなりの説得力をもって示している」(p.69)


 この文面はどこをどう読んでも「ビーガンやベジタリアンは人工肉なんて発想なんてできないよね」とバカにしているようにしか読めないわけだが、これがあとがきの部分になると唐突に「ビーガンは培養肉は是とするかもしれないけど」という話に変わるのだ。いや、お前の一貫性はどうなってんねんと言いたくなる。


 さて、レステル大先生の一貫性の欠如っぷりをみてもらったところで、ここから重要な批判に移っていきたい。ここからはリバタリアニズムを支持している自分なりの見解も含むため、あらゆるveganに該当する話ではないかもしれない。ただ、一つの視点として参考にしてもらえれば幸いである。

 まず「お前の多国籍企業批判って何か根拠あんの?」と問い質すこともできる。例えば彼は頭から多国籍企業が環境に悪いと信じ込んでいるが、レヴィット&ダブナー『超ヤバい経済学』によれば「ロカヴォ運動」、つまりは地元の食品を積極的に食べる地産地消運動は寧ろ環境に悪いと指摘されている。小さな農場よりは大規模農場のほうが遥かに効率性重視だからだ(前掲著p.212)。

 そして、あとがきの部分で鬼の首をとったかのごとくveganの矛盾を指摘したつもりになってるレステル大先生だが、はっきり言ってこれはナンセンスなものだ。あくまで資本主義と闘うというつもりのveganはさておいて、動物倫理を理由としたveganが目的にしているのはあくまで動物への危害を否定することにある。例えば、※3リバタリアニズムで知られるR.ノージック先生はアニマルライツを肯定していたわけではないが、ある種の反転可能性から倫理的な意味で菜食主義者であった。そしてリバタリアンから言わせれば、多国籍企業が権力を持つという場合、それはあくまでも政府との癒着が引き起こす縁故資本主義の場合以外指すことはない。普通に利潤が出て儲けている場合、それはその企業がそれだけ多くの市民を満足させたという話にしかならないわけだ。もし、※4新オーストリア学派の形成に寄与したミーゼスやシカゴ学派の英雄フリードマンならレステルの安直な資本主義批判を鼻で笑っていたことだろう。そもそもレステルは「過剰な資本主義」を批判しているが、じゃあ「健全な資本主義」とは何なのかを全く明らかにしない。例えば、※5昔ながらの保守派が「今の女は家庭料理もろくにつくろうとしない。惣菜や冷凍食品ばっかりだ。これも過剰な資本主義のせいだ」などとも言えてしまうし、レステルの議論を根源まで突き詰めるなら、それこそ自給自足による生活こそが※6「動物を自身のなかに迎え入れ、動物を自身とし、自分も動物であることを真に引き受ける方法」ということになるだろう。自由資本主義があらゆる問題を解決できる万能の小槌ではないことは認めるが、自由資本主義がどこまで適切なのかについて明らかにもせずに「過剰」と言ってしまうレステルの議論は稚拙で雑である。別に社会主義を標榜するわけでもなく、ただただ自分の頭のなかでつくりあげた空想の「新自由主義」を目の敵にして批判していく仕草は、いったいこの人は何を根拠に誰を対象にそんなことを言ってるのか焦点が全く合っていないと言わざるを得ない。

 かつてヘンリー・フォードが自動車の流通を実現することによって馬車を駆逐し多くの馬を解放したように、はたまた多くの家事用品の発明が女性を当時の負担が大きい家事労働から解放したように、自由資本主義は多くの人の生活環境を改善することに寄与してきた。にもかかわらず、ろくな論拠もなく適当な雑語りで時計の針を巻き戻す「健全な資本主義」を熱望しているのは滑稽としか言いようがあるまい。


 さて、レステル先生のふわっとした「雰囲気的新自由主義批判」に嘲笑と冷笑を浴びせたので、今度はもっとveganに関連したテーマでやっていこう。次回は「あんたちゃんと読んで考えて言ってる?」だ。


※1 この時点で頭がくらくらするほど何を言ってるのかわからない。

※2 そもそもこういう印象批判しかできない彼の中身の薄っぺらさに驚愕する。

※3 ノージックは主著『アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界』の中で味覚の利益が動物に対する危害を正当化することはない、といった議論をしている。ほか、安藤馨&大屋雄裕『法哲学と法哲学の対話』も参考にした。

※4 経済リバタリアニズムには大きく分けると2つの潮流がある。詳しくは割愛するが気になる方は以下の記事を参照されたい。

自由と市場の経済学 マーク・スカウソン著 小さな政府唱える2学派の対立

https://www.nikkei.com/article/DGXDZO67252510S4A220C1MZC001/

※5「いや、そもそもお前がつくれよ」という話だが。

※6 ちなみにレステルはveganに対して「自給自足してないから一貫していない」と批判しているのだが、この批判が成功しているかどうかは読者の良識にお任せしたい。

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