ドミニク・レステル『肉食の哲学』の許されざること

@Votoms

事実認識の誤り――R.ドーキンスは何を語ってるのか

 最近、倫理的菜食主義に関するアンチ本が出た。ドミニク・レステル『肉食の哲学』という本だ。ドミニク・レステルという人はフランスの哲学者であるらしい。

 フランスの哲学者と聞いただけで私は嫌悪感がわいた事を覚えている。というのも、私はフランス現代思想のようなものが苦手だからだ。

 しかし、倫理的菜食主義に対して批判的な議論がなされている以上、応戦しないわけにはいかない。何よりアンチだからといっても建設的な議論なり真理が含まれている可能性は捨てきれないのだから、好き嫌いで判断するわけにはいかない。だから懐の痛みを覚えながらも購読したのだった。

 

 しかし、あまりにも内容が凄惨なことになっていたので、読み終えて心底後悔したのも事実である。今回はその中でも一番酷いと思った点について記述しておきたい。

 

 レステルは種差別の概念に反対する際にR.ドーキンスについて以下のように言及している。

 

 「動物を殺して食うのは、動物に悪をなしていることになるのか?ヒト以外の捕食動物に殺され、食われる方がましだというのだろうか?その動物にとっていちばん重要なのは、生きるならより長く、よりよく生きることなのか、それとも別のことなのか?たとえば、リチャード・ドーキンズのような社会生物学者は、このテーマに関してベジタリアンとは異なる意見を持ってるかもしれない。進化について厳格に解釈するドーキンズは、あらゆる動物にとっての利益はむしろ、何よりも最大限に繁殖することだと考えるだろう。そしてこの視野に立てば、バランスのとれた倫理的ふるまいとは、牛を食わないことではなく、その前に十分に繁殖させることだろう」(前掲著p.53)

 

 一応わからない人のために解説しておくと、R.ドーキンスという人は著名な進化生物学・動物行動学者のことだ。代表作『利己的な遺伝子』で一つの金字塔を立て、『神は妄想である』において戦闘的無神論を唱え、科学的啓蒙をとにかく頑張ってる人だと覚えてもらえばいい。

 さて、そんなドーキンスに関する彼の認識は極めて杜撰なものと言わざるを得ない。P.シンガーとの対談において、彼は自分が肉食していることについて正当化できないと率直に語っている(参考記事:http://therealarg.blogspot.com/2018/09/Dawkins-and-Singer.html なお、ドーキンスは現在ほぼベジタリアンであるとのこと)。

 

 そもそもドーキンスは『利己的な遺伝子』において次のように語っている。


「自種のメンバーが他種のメンバーに比べて、倫理上特別な配慮を受けてしかるべきだとする感覚は、古く根強い。…(中略)…胎児は私たちの種に属するがゆえに、もろもろの権利・特権が与えられる。リチャード・ライダーの言う「種差別」の倫理が、「人種差別」の倫理よりいくらかでも確実な論理的立場に立てるのかどうか、私にはわからない。私にわかるのは、それには進化生物学的に厳密な根拠がないということだ」(前掲著p.52)


 ここでドーキンスは自種であるからといって特別な配慮を受けるべきだという感覚につき、進化生物学的に厳密な根拠がないと述べている。そして最近翻訳された『魂に息づく科学:ドーキンスの反ポピュリズム宣言』においては彼と同様に啓蒙主義を標榜している※マイケル・シャーマーとスティーブン・ピンカーの議論に賛同して次のようにも語っている。

 

 「これからの数十年、数百年の道徳の弧はどこへ向かうのか?2017年には冷静に受け止められているが、たぶん数百年先には、いまの私たちが奴隷制度あるいはベルゼンやブーヘンワルトの強制収容所行きの鉄道を考えるときと同じ、強い嫌悪をもってみられるだろうものを、あなたは何か思いつけるのではないだろうか?少なくともひとつ候補を思いつくのに、あまり想像力は必要ないと思う。通気用の板の隙間から途方に暮れた不安そうな目がのぞいている、有蓋トラックの後ろについて車を運転しているときなど、思い出したくもないのにベルゼン行きの鉄道の貨車が脳裏に浮かんではこないだろうか?」(前掲著p.87)

 

 「通気用の板の隙間から途方に暮れた不安そうな目」という比喩が表しているのは、常識的に考えれば畜産動物だ。2017年に出されている記事では、「トラックで運ばれている牛をみると、アウシュヴィッツを想起する」といったことも本人は語っている(参考記事:https://www.thetimes.co.uk/article/when-i-see-cattle-lorries-i-think-of-the-railway-wagons-to-auschwitz-m3t0hntmk)

 そして何より彼は次のようにも言っているのだ。

 

 「(前略)…私がみたのは、動物と話をして、(動物好きの母とドリトル先生の影響だったと思うが)人類が動物に押し付ける不正に対抗して、動物たちを結集させる夢だった。ドリトル先生が私に教えてくれたのは、いわゆる「種差別」というものがある、ということだった。種差別とは、人間はただ人間だからという理由で、ほかのあらゆる動物より上の特別な扱いに値するのだという無意識の思い込みだ」(前掲著p.126)


 もう十分お分かりだろう。ドーキンスは思慮分別ある科学者、進化生物学者として、「遺伝子の拡散こそが個体の「利益」だから、最大限に繁殖させればいい」などといった無茶苦茶な主張をしてないのだ。そもそも、このように「利己的遺伝子論」を倫理的立場として架橋するようなやり方を、ドーキンスは慎重に否定してきたはずだったのではないか。だから彼は今までの著作においても、「利己的な遺伝子への反逆」について度々触れている。にもかかわらず、レステルはあまりにも安易な思い込みで勝手にドーキンス像を都合よくつくりあげた。しかも、恐らくドーキンス自身の本すらも読んだことがない事が伺える(これはレステルが批判している倫理的菜食主義者についても同じ事が言える。恐らく、彼はシンガー、レーガン、フランシオン、キムリッカ&ドナルドソンといった多くの動物倫理学者の本を読まずに雰囲気だけで批判していることがわかる。これについては今回の問題ではないので、次回以降触れようと思う)。

 

 そして最もびっくりしたのは、この部分について何ら編集の方で注釈がついていないということだ。本来、あまりにも誤ってるような記述が入っているのであれば、それを解説なりで訂正するのが最低限度の学問に携わる人間の義務なのではないか。この本の構成に携わった人間は、そういう最低限度の良識すらも欠如しているのかと心底怒りを感じる。


 さて、この本は既にアンチ・ヴィーガン本としてのバイブルの位置を掴みつつあるようで、ダ・ヴィンチニュースでは既に好意的な書評が書かれている(参考:https://ddnavi.com/serial/653445/a/)。

 ここで個人的に看過ならない話があったので、次回以降はそれについて触れていきたい。テーマは「培養肉と新自由主義」だ。


 ※マイケル・シャーマーとスティーブン・ピンカーの議論についてはデビット・ライス氏による道徳的動物日記の記事を参照して貰えるとありがたい。

無神論と動物倫理 ・ 「ある種差別主義者の告白」 by マイケル・シャーマー

http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2016/01/11/200238

「私たちは道徳的に賢くなっているのか?:IQの上昇、暴力の減少、経済的リベラリズムの関係」 by マイケル・シャーマー

http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2016/04/18/131223

スティーブン・ピンカーによる「動物の権利運動」論

http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2015/06/06/105518

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