しあわせの歌を口ずさむ 後編

 祖母が、さっきまで口ずさんでいたあの歌をまた口ずさむ。

「今日ね。彼女の部屋で、この曲が流れたの?」

「なんて歌?」

「私も実はタイトルを知らないの……ううん。知りたくないの」

「どうして?」

「この歌、お祖父ちゃんが私と彼女に教えてくれたの。すこしだけ秘密を残して。ねぇ知りたい?」


 それから祖母はゆっくりと運転するぼくの横で、回想するように語ってくれた。それはたのしかった日々、先ほどまでとは色調の違うしあわせだった頃の記憶。あの日に戻りたいという未練がましさは感じられない。ただ胸に秘めていた愛おしさを淡々と小出しにして、さっぱりとしている。


 語られる日々のかすかなにおいさえ知らないぼくの脳裡にもくっきりと情景が浮かぶほど、なめらかな口調だった。


 女学生時代の同級生だった祖母と彼女は行動を共にすることが多く、祖母にとっては口に出すのは恥ずかしいけれど、唯一無二の親友という表現が一番正しく思えるような相手だったらしい。就職先も同じになり、月末になると手渡しの給料袋を携えて、まずはふたりで映画を観に行くのが日課なっていたそうだ。そこで偶然関わり合うようになったのが、その映画館に仕事をさぼって通い詰めていた祖父で、確かに祖父ならやりかねない。それぐらいの映画好きだった。祖母の話を聞きながら、昔、祖父に『エデンの東』について延々と語られ、観たこともないのにもうすでに何度も観たような感覚に陥ってしまった、ぼく自身の懐かしい記憶までよみがえってしまった。


「お似合いだった。仲睦まじいふたりの姿に疎外感を覚えたこともあるわ」


 こんなことを言っていても当時のふたりの関係は良好だったのだろう。祖母の表情を見ていれば、一目瞭然だった。


 祖父が、ふたり一緒に下宿先に誘ってくれたことが一度だけあったらしく、その日、今一番大好きな歌なんだ、と祖父が歌って聴かせてくれたのが、祖母の口ずさんでいたこの曲だったそうだ。


「これ、なんて曲? 多分私か彼女のどっちかがそう聞いたと思うんだけど、多分聞いたのは彼女だった、と思う」祖母はすこし寂しそうだった。「私は彼女よりも躊躇の多い人間だったから」


 また口ずさみはじめた祖母の歌声は祖母特有のすこし掠れた声を残しながらも、明瞭に、そして愛情がこもっていた。


「しあわせの歌」


「しあわせの歌?」


「うん。そう、しあわせの歌。お祖父ちゃん、そう言って笑ったの。本当のタイトルは教えてくれなかったけど、知らないままお祖父ちゃんのところへ行こうと思っているから、私にとってのこの曲のタイトルは永遠に『しあわせの歌』。どう綺麗な歌でしょ」


「なんか、らしいね」


「恥ずかしがり屋な癖に、気障だからね。ふふっ。お祖父ちゃんに向こうで会えたら、本当のタイトル教えてもらおうかな」


「それはまだ早すぎるよ」という言葉に、そうね、と祖母が頷く。


「今日さ。彼女とじっくり話し合ったの。出会ってから、今までのこと。実は去年、『私、もう永くない、と思う。だから来年からもう来なくていい』って言われたの。私が、どう思ったか分かる?」


「どう、って?」


「あぁもうこのひとと会わなくていいんだ。嬉しくて仕方なかった。ずっと私を苦しめてきたこの人と、ようやく会わなくてすむ。そんな風にしか思えなかった。最低な考えだと思う」


「そう考えるよ。誰だって。気にしなくても――」


「ううん」祖母は首を横に振って、その言葉をさえぎる。「そう言ってくれたとしても、やっぱり自分自身が許せないの。こんなにひどい自己嫌悪があるんだって、すごく自分が嫌いになった。昔はあんなに仲が良かったのに……一緒に暮らしたこともあるくらい。なのに完全に関係が切れることを喜んでいる自分がいるなんて。やっぱり悔しいし、嫌だった。だから今日、しっかり話そうって覚悟を決めたの」


「そうだったんだ……」


「今日、遅かったでしょ。戻ってくるの。嬉しかったこと、悲しかったこと、嫌だったこと、苦しかったこと……。今言った正直な気持ちも全部伝えた。途中、子どもみたいになって口喧嘩もした。言葉を突き合せれば解決するって思えるほど若くもないのに、ね。もちろんあの事故の話もした。学生の時から知っている仲だからこそ、子どもみたいな喧嘩で解決できるかもって思ったのかもしれないね。馬鹿みたいでしょ」そしたらね、と言った後、祖母がひとつ息を吐いた。「……音楽が聴こえてきたの。いいえ、彼女の部屋に入った時から音楽は聴こえていたの。彼女が昔から愛用しているラジカセから、色々な曲が小さめの音量で流れていた。ただそれまでは気にも留めていなかったの」


「うん……」


「あ、しあわせの歌……って口喧嘩中に言う言葉じゃないよね。自分でもなんで声に出しちゃったんだろう、って思うけど……。当然彼女に『急に何言ってるの!』ってすごい怒鳴られちゃった。でも彼女も、しあわせの歌っていう言葉、覚えてたみたい。『……そっか昔、みんなでそう呼んでたね』って。お互い落ち着いちゃってね。天国のお祖父ちゃんが……あぁお祖父ちゃんじゃあ天国行けないか」と祖父に想いを馳せたのか、祖母は、くすりと笑った。「まぁ天国に行こうが地獄に行こうが、大好きなお祖父ちゃんだったことは変わらないけどね……。うん草葉の陰から私たちの喧嘩を見ていたお祖父ちゃんが私たちの喧嘩を止めてくれたのかもしれないね。ふたりでそのまま聴き入っちゃってね。彼女は当然録音しているぐらいだから、本当のタイトルは知っていると思うんだけど、私にそれを教えようとはしなかった」


 祖母が歌うその曲はどこまでも優しく、祖父が〈しあわせの歌〉と言った意味がよく分かるような曲調だった。きっと祖父はこの曲が大好きで、そして彼女と祖母へのそれぞれの想いがあったからこそ、ぼくはこの曲を知らなかったのだろう。


「『しあわせの歌だね』って彼女が言ってくれて、『うん。しあわせの歌』って私が返したんだ。別に何ひとつしあわせを感じられるような状況じゃなかったのに、ね。曲が終わるとラジカセを止めて彼女が私に聞いたの?」


「何を?」


「『ねぇなんで顔の傷直さなかった、と思う?』って、……私がうまく言葉にできなくて黙ってたら、『内緒』って言われて、うん……」


「内緒、か……」


「お互い口論していることがばかばかしくなったんだろうね。それからはふたりで苦笑いを浮かべながら、ぽつぽつと昔話をしたんだけど……ちょっとだけあの頃に戻ったみたいだった。もちろん良い記憶ばっかりじゃなくてつらい記憶も多くて、今更あの頃に戻りたいなんてひとつも思わないんだけど……。でもやっぱり記憶を過去に戻すなら、彼女とじゃないと駄目なんだって、他の人では駄目なんだって、すごい実感した」ぼくは頷くことしかできなかった。「帰る時、『ねぇ、ありがとう。そしてごめん』って言われたんだ。ありがとうもごめんも、あの事故の後、初めて聞いた言葉だった。それで最後に言ったんだ。『寂しかったんだ』って」


 繋ぎとめる方法が彼女にはそれしか思い付かなかったのではないか。


 他人の本心を読み取るなんてできるはずがない。それも会ったことのない人の本心なんて。だからこれは想像しただけだ。合っている保証はない。だけどこの想像は外れていない気がする。


 そして祖母は、ふたたび歌い始める。その優しい曲と歌声に耳をそばだてながら、ぼくは実家を目指した。両親はぼくが祖母を送り迎えしていることなんて知らない。別に知られたところでいいじゃないか、と今までは思っていたけれど、今は絶対に知られたくない気分だった。家が見えてくる頃には、その歌声は止み、祖母は目を瞑っていた。


「もう着くよ」と声を掛けると、祖母が目を開け、ちいさく微笑んだ。「ありがとう。また来年も連れて行ってね」


 その翌年もぼくは祖母とともに彼女の家へと向かった。その帰り道でも祖母は〈しあわせの歌〉を口ずさんでいた。最近彼女の体調が良さそう、と祖母が嬉しそうに笑うくらいには、ふたりの関係は良くなっているようだった。でもぼくと祖母がその町を訪れたのは、それが最後だった。


 次の年の冬を待たずして、彼女が、そして続くように祖母が死んだ。もう〈しあわせの歌〉を知っているのは、ぼくだけになった。


 祖父母と彼女という三人だけの物語に、ほんのすこしだけぼくが関わった物語はこれで終わりだ。


 実はこの後、祖母の墓参りの時に出会った女性と、ぼくは結婚することになるんだけど……、それはこの物語の続きのようで、だけどぼくだけの独立した物語のような気もするから多くは語らないことにする。


 毎年、小雪がちらつき始めるころになると、ぼくは祖母と会ったこともない祖母の親友のことを思い出す。誰にも言うことのないぼくだけが胸に抱える、ぼくの人生にとってはちいさいけれど、とても大切な想い出だ。




     ※




 かしゃん、という大きな音に驚き、ぼくの意識は回想から現実へと戻される。「あぁもう!」と妻が溜息を吐いている。どうやら洗い物の終わったお椀を落としてしまったようだ。プラスチック製だったので割れている様子はなく、危なくないことにまずほっとする。


 だいぶ物思いにふけってしまっていたみたいだ。


 机の上のノートパソコンは閉じられている。


 ぼくは立ち上がると、お椀を片手に「むぅ」と難しい、けれど愛嬌のある表情を浮かべている妻に近付き、その身体を抱きしめた。


「いきなり、どうしたの?」

 と妻が驚いたように言った。


「あぁ、いや、急にこうしたいな、って」


「何それ」

 と妻がくすりと笑った。


「さっきの歌、なんだけどね」

「あぁ、さっきの洋楽? ちょっと古そうな」

「古そうな、は余計。うん。その歌。タイトルは知らないんだけど、ぼくに〈しあわせの歌〉って、ある人が教えてくれたんだ」


 こんなこと言われても困るかな……。

 だけど共有してもらいたくなったんだ。もうぼくしか知らない。これからはぼくたちだけが知っている。


 ――。


 紆余曲折はきっとある。ひどい亀裂が入ることだってあるかもしれない。だけど人間関係、本当にうまく行きたいと思うひととは、絶対にうまくいく。


 不確か。あまりにも不確かで、脆そうな想いだけど……。


 あのふたりのことを思い出すと、どうしても信じたくなるんだ。


 振り返った妻は、きょとんとした表情を浮かべている。きっとぼくが、思いの外、真剣そうな顔をしていたからだろう。

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しあわせの歌を口ずさむ サトウ・レン @ryose

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