しあわせの歌を口ずさむ

サトウ・レン

しあわせの歌を口ずさむ 前編

 窓越しに小雪がちらついている。この時期になると決まって思い出すのが、掠れているけれど、祖母らしいやわらかさを残す歌声だった。祖母が亡くなった四年前には、自分に妻がいる未来なんて想像すらできなかった。


「ねぇ、その歌、なんていうの? 洋楽なんて聞くんだ?」

 と、さっきまでパソコンの画面と格闘していた妻がぼくのほうに目を向けていることに驚く。最近は、株だ、ビジネスだ、とぼくにはさっぱり分からない趣味に没頭している。なんか似合わないなぁと妻に対してそんな風に思ったりすることもあるけれど、険悪になっても仕方ないので口には出さない。


 無意識に口ずさんでいたことにすこし恥ずかしくなりつつも、

「あ、いやタイトルは知らないんだけど……」と答えたぼくに、

 妻は「ふーん」と気のない返事をした。


 もともと深い意味があって聞いたのではないのだろう。妻はふたたびパソコンの画面へ、ぼくにはまったく分からないビジネスの世界へと意識を戻していく。


 今度は口に出さないようにしながら、運転席で耳をそばだてていたあのすこし掠れた歌声に、ぼくと祖母の秘密の遠出に、想いを馳せる。




     ※




 市内でひとり暮らすぼくのもとに、初めて祖母が訪ねてきたのは大学を卒業して最初の冬だった。突然のことに驚いていたぼくに向ける祖母の表情は何故か申し訳なさそうだった。


「元気にしてた?」


 すこし舌足らずでゆっくりとしゃべるいつもの祖母らしい口調にほっとする。「元気にしてた?」と言いたいのは、ぼくのほうだった。去年、祖父が死んだ時の落ち込みようは激しく、実家に帰るたびに暗い表情つづきだったので、心配も大きかった。母とあまり折り合いが良くないこともあり、もしかして家出したのでは、という気持ちもないわけではなかった。


「どうしたの、急に?」


「ごめんね。実は送ってほしいところがあるんだ」さらに急な申し出にぼくはただただ困惑していた。何故、ぼくなんだろう。母に頼めないのは分かるけれど、別に父だって免許は持っているし……と正直に思ったままの気持ちを伝えると、「うーん。さすがにお父さんを連れていくわけにはいかないし、お母さんに言ったら怒られそうだし……」

 と、父と母にはこのことを黙っていて欲しいと言われてしまった。


 そしてぼくは理由を教えてもらえないまま、祖母から渡された地図と、住所の書かれたメモを頼りに目的地を目指すことになった。マイペースだなぁ。祖母らしいと思うけれど、せっかちな母なんかは、のんびりとしたこの佇まいが許せないみたいだった。


「あれが祖母さんの魅力なんだけどなぁ」と祖父は母の態度に、よくぼやいていた。


 ぼくが小学校の頃は、よくふたりっきりで出掛けていて、クラスメートから、お前の祖父ちゃんと祖母ちゃん、この前あそこで見たよ、などと言われては、気恥ずかしがっていた想い出がある。祖父母がふたりで外に出掛けている姿というのは、ぼくの周りではあまりなく、めずらしかったのだ。どこへ行っていたのか、と聞くと、大体、映画館、という答えが祖父から返ってきた。


 デートに行ってたの、と楽しそうに笑う祖母の言葉から逃げるように部屋へと戻っていく祖父の気恥ずかしさを隠す背中が好きだった。


 ぼくたちが目指したのは隣県の小さな町で、免許を取ったばかりで運転に不慣れだったこともあり、途中の急勾配な山道が不安で仕方なかった。ようやく辿りついた町は長閑、というか、寂しい感じがした。その町でひと際目立つ大きな一軒家がメモに書かれていた場所だった。


「へぇ、地元の名士が住む、って感じの家だね」

「そうね。なんか、らしいなー」普段ののんびりとした口調のままだけど、その中にわずかな緊張と不安が混じっているような気がした。「実は、私も初めて来るの……」


 ひとりで行きたい、と祖母に言われ、ぼくは車の中でただぼんやりと音楽を聴いていた。古い洋楽が鳴っている。詳しいわけではないけれど、洋楽が好きだった祖父の影響で、何人かのアーティストは知っていて、今流れているのもその中のひとりだった。祖母も祖父の影響で洋楽には詳しく、「お祖父ちゃんのせいで馬鹿みたいに詳しくなっちゃった」という言葉を何度聞いただろうか。


 祖母は思ったよりもすぐに戻ってきた。


 その表情は明らかに険しかった。温和な祖母っぽくない、というよりは、初めて見る祖母がそこにいるような感じがした。


 その帰り道、気まずい空気がずっと車内に漂っていたけれど、理由を聞くことはできなかった。自宅近くまで送ったその別れ際には、いつもの温和な祖母に戻っていた。


 翌年も、翌々年も、同じような時期に、同じように祖母がぼくのもとを訪ねてきた。その年だけ何かが違う、というような特別なことはなく、ただ祖母を両親も知らない場所へ送り迎えするだけ。その日の祖母の表情はいつも険しい。


 すこしだけ変化が現れたのは、祖母との恒例行事ができてから、四年目の冬だった。いまだに途中の道を全然覚えられないぼくと違って、祖母は道順を完璧に把握していて、ほとんど地図を使うことなく、口頭で案内してくれる祖母に頼りっぱなしだった。


 その年は、すこしだけ違った。


 帰り道の祖母の表情が和らいでいた。いやその言い方は正しくないのかもしれない。表情から険しさは取れていたけれど、何か違和感を覚えるような表情だった。今回こそ祖母に聞こうと思いながらも、結局、聞くことはできなかった。触れてはいけない。祖母の表情にはそう思わせる何かがあった。


 五年目の冬、明らかに変わった。


 もう五度目になると見慣れた気もしてくる大邸宅に入ったまま、祖母は一向に戻って来なかった。さすがに焦れてしまって、家の呼び鈴でも鳴らそうかな、と真剣に考え始めた頃、ようやく祖母が家を出てきた。


「ごめん、ごめん」


 そう言って朗らかに笑う祖母の表情はとてもたのしそうだった。帰り道の祖母は驚くほど口数が多く、ときおり嬉しそうに歌を口ずさんでいた。英語の歌詞だけれど、聞き馴染みはない。祖父と祖母が好きな洋楽なら大体知っているけれど、この曲は一度も聞いたことがなかった。


「ねぇ、いつも誰に会いに行ってるの?」


 今日こそは聞ける。帰りに寄った道の駅の駐車場で、ぼくはずっと気になっていた疑問を口にした。


 祖母はすこし悩んだ素振りをした後、

「今はひとりで暮らしている人なんだけど、死んだお祖父ちゃんの昔の恋人なんだ」と言った。

「恋人……なんでそんな人と会うの?」


 最初に口から出たのはそんな言葉だった。ぼくは気配りに長けた人間ではないけれど、さすがにこれは無神経だったかもしれない。


「彼女ね。顔に大きな傷があるの」

「傷……?」

「うん。私のせいで起きた事故が原因で」祖母が財布を開いて、一枚の写真を取り出す。色褪せた一枚の写真に、三人の姿が写っている。その内のふたりは明らかに祖父母だと分かる。もうひとりの女性が、祖母の会いに行っていたひとなのだろうか。三人の中でもひと際目立つ雰囲気の美しい女性……。ただ綺麗だけど、近寄りがたくて、すこし冷たい雰囲気だ。「彼女ね。私たちを恨んでるし、憎んでるの」


 転落事故がきっかけで頬にできた裂傷は、彼女の顔に今でも消えることなく残っている、と祖母は教えてくれた。周囲からは何度も整形手術を勧められているそうだが、頑なに拒んでいるらしい。


 事故や彼女の怪我について、祖母はそれ以上、何も教えてくれなかった。

「私たち、って……」

「うん。もちろん私とお祖父ちゃん」

「祖父ちゃんまで……、なんで?」

「私と結婚したから」

「お祖父ちゃんはその怪我が原因で……そのひとと別れたの?」


 こんなことを聞けば、祖母は傷付くに決まっている。それでも気付けばそんな言葉が口から出ていた。違う、と断言して欲しかったのだろう。


 だけど祖母は、

「違う……と言いたいけど、もしも怪我がなかったら、あの人の最期に寄り添っていたのは彼女なんじゃないか、と思わなかった日はない……わ」と答えた。


 当然の答えだった。祖母の立場だったら、そう答えるしかないに決まっている。結局、ぼくの言葉は、さらに祖母を傷付けただけだった。


「ごめん……」と謝るぼくの気持ちを汲んでくれたのだろう。


 祖母は首を横に振って、

「『彼女とのことは関係ない』ってお祖父ちゃんははっきり言ってくれたし、私はそれを信じてる。私、あの事故の後、ふたりとは会わない時期が続いたから、合わせる顔もなかったし……。だからお祖父ちゃんと再会した時には、お祖父ちゃんも彼女と離れてしまった後だったの」


「本心だった、と思うよ」ぼくは祖父の顔を頭に思い浮かべながら、そう言った。もちろん祖父の本心なんて分からない。だけどそうであって欲しい。ほとんどぼくの願いみたいなものだった。


「うん。私もそう思う」祖母は一度だけにこりとほほ笑んだ後、表情を曇らせた。「だけど彼女に信じてもらえる話じゃない。結婚してすこし経った頃だったかな。私のところに、頻繁に電話とか手紙が来るようになったの。あの事故わざとだったんじゃないか、結婚は私を馬鹿にするためか、って……でもすこし経つと、来なくなったから、もう面倒くさくなったのかなって思ってた」


「思ってた、って?」


「手紙が届いたの。お祖父ちゃんの葬式が終わってすこし経った頃だったかな。長い間会っていなかった彼女の今の住所が書かれた手紙。それまで知らなかったんだけど、お祖父ちゃんは毎年冬になると、彼女のもとへ謝罪に赴いていたらしいの。もう嫌がらせはやめてくれ、って。自分のことはいくらでも罵ってくれていいから、って」


 言い淀みながらもなんとか言葉を紡いでいく祖母を見ていられず、

「聞いたぼくがこんなこと言うのも変だけど、無理に言わなくてもいいよ」と伝えると、

 祖母は首を横に振り、

「大丈夫。言いたいから言わせて」

 と答えた。


「あの人が亡くなったんだから、今度はあなたに引き継いで欲しい。あなたにはその義務があるはずだ。一生、許さない。勝手に終わらせてたまるか、ってね。バス停から徒歩での距離がすごく遠いのもあって、誰かに運転を頼まないといけないな、と思ってたんだけど、さすがにお父さんやお母さんには言えなくてね」そう言って祖母が握らせてくれたのは一枚の封筒だった。「ごめんね。いつも迷惑かけて」


 中にはかなりの額のお金が入っていた。いつもガソリン代程度のお金は貰っていたけれど、さすがにこんな額を貰うわけにもいかない。


「いいよ。こんなに!」

 と返そうとするが、祖母は受け取ろうとせず、「まぁまぁいいから」と封筒を握ったぼくの手ごとポケットに突っ込む。


 確かにこんなことを父や母には頼みにくいだろう。というか正直に言えば、ぼくも嫌だ。恨みを持ち続ける相手に謝り続ける祖母の姿を想像するだけで、胃がきりきりとする。冷たい言い方だけど、無視すればいいのに、と思ってしまう。ぼくはその事故を知らない。だから勝手に言えるのかもしれないけれど……。


 家族、というフィルターがかかっていることは否定しない。


 それでもやはり腑に落ちない感覚を抱いてしまう。理解はできるけれど、納得はしたくない……そんな感覚。祖父母の人となりを知っていない他人だったなら、納得できたのだろうか。


 祖母の、緊張、不安、表情の険しさ……。その疑問はすべて解けた。

 だとすれば……、

 だとすれば何故、今日の祖母の表情はこんなにも晴れやかで、たのしそうなのだろう。

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