桜並木の君と

月兎

本編

「桜が綺麗ですね」

「……え、今更ですか」

「いえいえ、『桜が綺麗ですね』にも意味がこもっているんですよ、知ってました?」


 黒いティーシャツを着た、私よりも年齢が少し高そうな……二十代くらいの男の人(名前は有村遥さんと言うらしい)といろいろあって桜並木を共に歩いて数十分。そろそろその桜並木が終わる頃だった。

 いたずらっぽく笑いながら、有村さんは問いかけてきた。


「いえ、知りません……」


 少し困惑しながら答える。

 私が知っていることは、昔夏目漱石っていうなんかすごい人が、『アイラブユー』を『月が綺麗ですね』と訳したとかなんとかっていう話だけで、『桜が綺麗』なんて聞いたことがない。

 まあ、普通の人はそうだよね、と少ししょんぼりした様子を見せられた。

 私は慌ててこう付け足した。


「あ、でも、『月が綺麗ですね』はどういう意味かは知ってます」

「うん、なんかそれ一般常識になりつつあるもんね」


 漱石さんすごいよね……でも僕は太宰派かなぁ、と、有村さんの口からは教科書で聞いたことあるような名前がさらさら出てきている。

 太宰、といえば羅生門、漱石さん、といえばこころ。どっちもあんまり覚えてないし、私ははっきり言って興味なかったけれど。でも、どっちも作家さんだったはずだから、有村さんは本を読むのが好きなのかな、と自分なりに考察らしきものをしてみる。


「あそうそう、『桜が綺麗ですね』の意味はね」


 ごほん、とわざとらしい咳払いをされる。

 私もごくり、とわざとらしく唾を飲んでみる。

 これだけで空気がどこか張り詰めたものになる。二人の間に流れた一瞬の沈黙を、春の暖かい風が連れ去っていく。



「私たちはまたここで逢おう」



 とくん、と心臓が跳ねた気がした。

 有村さんはにこりと私に微笑んだ。それから、前を向いて少し残念そうに告げた。


「もうすぐ先で終わるね、桜並木」


 さっ、さっと軽く音を立てて有村さんが先を歩く。

 思わず立ち止まってしまった。有村さんが履いている古びたスニーカーが目に入る。


『桜が綺麗』に包まれた言葉が、桜以上に綺麗で。


 有村さんは立ち止まった私に気づいたのか、足を止めてくるりとこちらを振り返り、近づいてきた。

 有村さんの顔が僅かに赤く染っているように見える。けれど、私の顔もきっと、有村さんよりも赤く染っている。軽く頬に手を当ててみる。予想通り、普段よりも暖かかった。


「どうしたの? 春日さん」

「あっ、いえ、その……」


 視線があちらこちらへいく。

 返答を考えている。これは告白と取っていいのか、それともただの知識をひけらかされただけなのか、もっと私の想像のつかないような意図があるのか。

 さっきよりも長い沈黙が流れた。風も吹かない、車も通らない、子供の声も聞こえない、遠くから鳥の声が聞こえるだけの空間に、二人きり取り残された感覚。

 それでも何も思い浮かばない。「なんでもないです」とだけ言えばいいとも考えたけど、そうじゃない。私はこの人に何かを伝えたい、その気持ちだけある。言葉にできない。

 んー、と悩むような声が正面から聞こえた。

 有村さんも何かを探しているみたいに見えた。

 しばらくまた二人揃って考えて、私はやっぱり何も思い浮かばなかった。でも、有村さんは何かを掴んだらしい。


「大丈夫だよ、そんなに重く捉えなくて。僕がただ言いたくなっただけなんだ」


 なんか、ごめんね、と笑った。

 その笑顔は、どこか悲しげに私の目には映った。

 どうしてだか、今理解した。有村さんは嘘をついている。きっと嘘の内容は、ただ言いたくなっただけ、というところ。

 それが分かれば、私が伝えなきゃいけないことは。


「来年、また会いましょう、この桜並木で!」


 はっとした顔をされた。それからしばらく見つめられて、有村さんは下を向いて、左腕の辺りを掴んで、あるときぱっと顔を上げた。

 その顔は、暖かな笑顔だった。


「直接伝えたくないから、言葉を言葉に包むんだよ、小説家ってもんは」


 さ、そろそろ春日さんは帰ったら、と優しく声をかけられた。

 腕時計を見る。お昼の十二時を回ったくらいだった。

 時間がわかるとどうしてだかお腹がすいてきた。そうですね、と答えて、有村さんのところへ近づく。


 桜並木が終わりを告げた。

 道路と歩道の間に木は無くなって、景色が広がったようにも感じたけど。それがあまりにも唐突で、どこか寂しさを覚えた。

 例えるなら……人の命? みたいなね。


「僕はこっちの方なんだ、家」


 人差し指で左側を示した。私が行くべき道は真っ直ぐだから、ここで有村さんとはお別れ。


「そうなんですね」


 実はバス停の近くに家があったりしないかな、とか期待したけれど、全く違う方向だった。少し残念。

 それでも、また来年会えるのならば、寂しくは感じない。

 大丈夫。来年は明日のようにちゃんとくるし、来年もここに来る。きっと、有村さんも。


「じゃあ、またね」

「はい、また」


 手を振られた。振り返した。

 進むべき道へ進んでいく。


 暖かい風と共に、桜の花びらが舞った。

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桜並木の君と 月兎 @tkusg-A

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