モザイク
柊圭介
わすれない
たった五文字が言えなかった。
病院からの帰り道。僕の腕をとって歩く君は、優しくからかうようにそっとこう言った。
「わたしのことだけは、わすれちゃダメよ」
僕は答えなかった。ただ君から目を逸らして、黄昏の空を見上げ、曖昧に笑うことしかできなかった。
「わすれない。君だけは絶対にわすれるはずがない」
本当は、そう言いたかったんだけどね。
自信がなかったんだよ。もう、すでに、目の前にある君の姿が、モザイクになり始めているのを知っていたから。
記憶は、モザイクになり、破片になり、こぼれ落ちてゆく。
僕の頭の中から、剥がれるように、欠けていく。
──これがあなたのカップ。これがあなたの靴下。これはあなたの歯ブラシ。
──見て、これ結婚式の写真よ。
──こっちがおしょうゆで、こっちがソースね。
君に与えられるオブジェも、差し出された光景も、「しょうゆ」と書かれた液体も、僕にはもう、意味をなさなくなったのだよ。
つかの間に蘇る幸せな記憶に狼狽し、精いっぱい繋ぎとめておきたくて、床に散らばった写真とやらを引っ掻き回す。
おどけて笑っているふたり。
手を握っているふたり。
肩を寄せるふたり。
この瞬間たちは、いったい誰のものですか。
目の前にいるあなたは、写真と同じ顔をしている。
写真と同じ顔で僕を見つめている。
でも僕は、あなたを知りません。
小さな破片になった最後のモザイクは、暗がりの中にはらりと落ちたよ。
そして僕は今、何かをなくしました。
何か、とっても、
大切なものをなくしました。
モザイク 柊圭介 @labelleforet
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