第5話 賤ヶ岳の戦い

 5月20日

 日本高等学校野球連盟が夏の全国高等学校野球選手権大会中止を発表。同大会の中止は戦後初。

 靖子が死んでしまった。あんなに優しかった靖子が。薬師寺は怒り狂い、宇都宮駅近くのファミレスで肉を切るナイフで右隣のババァを刺し殺した。薬師寺は腹が減ったので、ババァの肉を横取りしようとした。

「最近の若い子は危機意識が薄いのよ」

 ババァは左隣に座る旦那と思しき、優しそうな男性に言った。

「確かにそれはあるかもな?」

「死んでよかったんじゃない?若い奴が渋谷とかで遊ぶから私達高齢者が困るのよ」

 その瞬間殺してやろうかと思った。

 

 殺害現場のすぐ近くにはセガワールドがあった。学生の頃によくUFOキャッチャーやったな?と、栃木県警刑事部の新人刑事、蘭丸若葉らんまるわかばは懐かしんだ。若葉って名前から女性だとよく間違えられる。

 若葉は井尻京子いじりきょうこってナースを怪しんだ。靖子が殺される2日前から無断欠勤を続けている。靖子の遺体を発見したのは事務長の西浦博之にしうらひろゆきだった。

 靖子のパジャマのズボンの右のポケットには『賤ヶ岳しずがたけ』と黒いボールペンで書かれたメモ用紙が入っていた。ダイイングメッセージだ!と、若葉は直感的に思った。

 

 5月22日

 ニュースで『賤ヶ岳』というダイイングメッセージが残されていたことを知った薬師寺は、滋賀県長浜市に向かった。列車で向かったが透明なので金はかからない。

「賤ヶ岳か、柴田勝家しばたかついえ豊臣秀吉とよとみひでよしが戦った場所ですよね?」

 ソファにふんぞり返った蘭丸って青年が言った。

「どうして君ってそう偉そうなの?」

 皆川郁夫みながわいくおってビールっ腹の中年が言った。皆川はベッドに仰向けに寝て天井を見上げている。薬師寺は窓辺に立ち琵琶湖を眺めていた。無論、薬師寺がいるってことを彼らは知らない。

「敬語使ってるじゃないですか?」

「そうじゃなくてさ……」

 この部屋は蘭丸の部屋だ。宿代が浮くのはありがたいが、足が痛い。今日はソファで寝ることになりそうだ。

 賤ヶ岳は標高421 mの山である。琵琶湖と余呉湖を分ける。

「医療事故で家族を失った人が靖子さんを殺したんじゃ?」と、蘭丸が言うと、「君は『チーム・バチスタ』の見過ぎだ」と皆川は苦笑した。

 つまり、医療事故は起きていない?

「頸動脈を掻き切って殺すなんて尋常じゃない」

 皆川が起き上がる。

「まるで、信長が本能寺で死んだときみたいだ」と、蘭丸。

「信長は自殺だよ。そーいや、蘭丸って信長とは関係あるのか?」

「全然。実家は農家です」

 

 勝家は遠い昔を思い返していた。

 天正10年6月2日(1582年6月21日)、織田信長とその嫡男で当主の織田信忠が重臣明智光秀の謀反によって横死する本能寺の変が起こり、その後まもない山崎の戦いで光秀を討った羽柴秀吉が信長旧臣中で大きな力を持つにいたった。6月27日(7月16日)、当主を失った織田氏の後継者を決定する会議が清洲城で開かれ、信長の三男・織田信孝を推すわしと嫡男信忠の子である三法師(のちの織田秀信)を推す猿との間で激しい対立が生じた。

 結果的には同席した丹羽長秀・池田恒興らが三法師擁立に賛成したため儂も譲らざるをえず、この後継者問題は形の上ではひとまず決着をみた。


 この後双方とも周囲の勢力を自らの協力体制に持ち込もうと盛んに調略を行うが、北陸にいた儂たちの後方にある上杉景勝や、信孝の地盤である美濃の有力部将・稲葉一鉄が、羽柴側になびくなど猿に有利な状況が出来つつあった。一方で儂の方も土佐の長宗我部元親や紀伊の雑賀衆を取り込み、特に雑賀衆は猿の出陣中に和泉岸和田城などに攻撃を仕掛けるなど、後方を脅かしている。


 10月16日、儂は堀秀政に覚書を送り、猿の清洲会議の誓約違反、及び不当な領地再分配、宝寺城の築城を非難している(『南行雑録』)。11月、儂は前田利家・金森長近・不破勝光を使者として猿のもとに派遣し、猿との和睦を交渉させた。これは儂が北陸に領地を持ち、冬には雪で行動が制限されることを理由とした見せかけの交渉であった。猿はこのことを見抜き、逆にこの際に三将を調略しており、さらには高山右近、中川清秀、筒井順慶、三好康長らに人質を入れさせ、畿内の城を固めた。


 12月2日(12月26日)、猿は毛利氏対策として山陰は宮部継潤、山陽は蜂須賀正勝を置いた上で、和睦を反故にして大軍を率いて近江に出兵、長浜城を攻撃した。北陸は既に雪深かったために儂は援軍が出せず、儂の養子でもある城将柴田勝豊は、わずかな日数で猿に降伏した。さらに猿の軍は美濃に進駐、稲葉一鉄などから人質を収めるとともに、12月20日(1583年1月13日)には岐阜城にあった織田信孝を降伏させた。


 翌天正11年(1583年)正月、伊勢の滝川一益が勝家への旗幟を明確にして挙兵し、関盛信・一政父子が不在の隙に亀山城、峯城、関城、国府城、鹿伏兎城を調略、亀山城に滝川益氏、峯城に滝川益重、関城に滝川忠征を置き、自身は長島城で猿を迎え撃った。猿は諸勢力の調略や牽制もあり、一時京都に兵を退いていたが、翌月には大軍を率いこれらへの攻撃を再開、国府城を2月20日(4月11日)に落とし、2月中旬には一益の本拠である長島城を攻撃したが、滝川勢の抵抗は頑強であり、亀山城は3月3日(4月24日)、峯城は4月12日(6月4日)まで持ち堪え、城兵は長島城に合流している。この時、亀山城、峯城の守将・益氏、益重は武勇を評され、益重は後に猿に仕えた。


 一方で越前・北ノ庄城にあった儂は雪のため動くことができずにいたが、これらの情勢に耐え切れずついに2月末、近江に向けて出陣した。


 3月12日(5月3日)、儂は佐久間盛政、前田利家らと共におよそ3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了させた。一益が篭る長島城を包囲していた猿は織田信雄と蒲生氏郷の1万強の軍勢を伊勢に残し、3月19日(5月10日)には5万といわれる兵力を率いて木ノ本に布陣した。双方直ちに攻撃に打って出ることはせず、しばらくは陣地や砦を盛んに構築した(遺構がある程度現在も残る)。また、丹羽長秀も儂の西進に備え海津と敦賀に兵を出したため、戦線は膠着し、3月27日(5月18日)猿は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還し、伊勢と近江の2方面に備えた。猿から弟の秀長に「(自軍の)砦周囲の小屋は前野長康、黒田官兵衛、木村隼人の部隊が手伝って壊すべきこと」と3月30日付けの書状が送られたが、この命令は実行されていない。

 

 4月16日(6月6日)、一度は猿に降伏していた織田信孝が伊勢の一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出した。ここに来て近江、伊勢、美濃の3方面作戦を強いられることになった猿は翌4月17日(6月7日)美濃に進軍するも、揖斐川の氾濫により大垣城に入った。猿の軍勢の多くが近江から離れたのを好機と見た儂は部将・佐久間盛政の意見具申もあり、4月19日(6月9日)、盛政に直ちに大岩山砦を攻撃させた。大岩山砦を守っていたのは中川清秀であったが、耐え切れず陥落、清秀は討死。続いて黒田孝高の部隊が盛政の攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた。盛政はさらに岩崎山に陣取っていた高山右近を攻撃、右近も支えきれずに退却し、木ノ本の羽柴秀長の陣所に逃れた。この成果を得て儂は盛政に撤退の命令を下したが、再三の命令にもかかわらず何故か盛政はこれに従おうとせず、前線に着陣し続けた。


 4月20日(6月10日)、劣勢であると判断した賤ヶ岳砦の守将、桑山重晴も撤退を開始する。これにより盛政が賤ヶ岳砦を占拠するのも時間の問題かと思われた。しかしその頃、時を同じくして船によって琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が「一度坂本に戻るべし」という部下の反対にあうも機は今を置いて他にないと判断し、進路を変更して海津への上陸を敢行した事で戦局は一変。長秀率いる2,000の軍勢は撤退を開始していた桑山重晴の軍勢とちょうど鉢合わせする形となるとそれと合流し、そのまま賤ヶ岳周辺の盛政の軍勢を撃破し賤ヶ岳砦の確保に成功する。


 同日、大垣城にいた猿は大岩山砦等の陣所の落城を知り、直ちに軍を返した。14時に大垣を出た猿の軍は木ノ本までの13里(52キロ)の距離を5時間で移動した(美濃大返し)。 佐久間盛政は、翌日の未明に猿らの大軍に強襲されたが奮闘。盛政隊を直接は崩せないと判断した猿は柴田勝政(盛政の実弟)に攻撃対象を変更、この勝政を盛政が救援するかたちで、両軍は激戦となった。


 ところがこの激戦の最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如として戦線離脱した。これにより後方の守りの陣形が崩れ佐久間隊の兵の士気が下がり、柴田軍全体の士気も一気に下がった。このため利家と対峙していた軍勢が柴田勢への攻撃に加わった。さらに柴田側の不破勝光・金森長近の軍勢も退却したため、佐久間盛政の軍を撃破した猿の軍勢は本隊に殺到した。

 押し寄せる猿の軍を儂の軍が食い止めることは出来なかった。

 しかも、押し寄せる猿の軍に呼応して儂の軍の将である前田利家が戦線を離脱してしまった。

 もはや陣形を維持出来ない儂は、北ノ庄城へ退却した。

 これにより、北ノ庄城の戦いが始まった。

 北ノ庄城は堀隊、加藤隊、前田隊によって完全に包囲されてしまう。さらに猿は賤ヶ岳の戦いで捕えた、佐久間盛政と柴田勝敏を晒し者にして、柴田軍の戦意を奪った。

 4月23日、勝機が完全に去ったことを悟った儂は、広間に家臣を集め、猿へ降伏する事を勧めた。

 多くの臣下が城から出ていく中、一部の旧臣は最後まで儂と行動する事を望んだ。

 儂は残った臣下を本丸天守に集め、ありったけの酒を振る舞い、最後の宴会を開いた。

 そこには家臣のほかに、女房や尼僧など身分を問わず100人あまりの人が同席し、妓女は踊り、お酌をし、楽器を奏で、舞を舞う… その様子は戦勝祝いのようだったと言われている。

 24日寅の刻(午前4時)に羽柴軍は本城に取り掛かり正午には乗り入りことごとく首をはねた。天主には200人あまりが立て籠もり、狭いので総員なら手負い死人が出るので、選んだ兵で刀剣、槍だけで天主内に切り入らせた。儂も武辺の者だが7度まで切り闘ったが防げなかった。天主の最上の九重目に登り上がり、総員に言葉をかけ、儂が「修理の腹の切り様を見て後学にせよ」と声高く言うと、心ある侍は涙をこぼし鎧の袖を濡らし、皆が静まりかえる中、儂は愛する妻のお市を一刺しで殺し、80人とともに切腹した。寅の下刻(午後5時)だった。


 侍臣の中村聞荷斎(文荷斎)は勝家から呼ばれた。勝家は十字切りで切腹し(最も正式の切腹の作法)、中村に介錯させた。これに殉死するもの80余人。中村はかねてから用意した火薬に火をつけ、天主とともに勝家の一類はことごとく亡くなった。

 辞世は「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公 (やまほととぎす)」。

 

 佐久間盛政は逃亡するものの黒田孝高の手勢に捕らえられた。のちに斬首され、首は京の六条河原でさらされた。また、儂の後ろ盾を失った美濃方面の織田信孝は秀吉に与した兄・織田信雄に岐阜城を包囲されて降伏、信孝は尾張国内海(愛知県南知多町)に移され、4月29日(6月19日)信雄の使者より切腹を命じられて自害した。残る伊勢方面の滝川一益はさらに1か月篭城し続けたが、ついには開城、剃髪のうえ出家し、丹羽長秀の元、越前大野に蟄居した。


 勝家は水虎に姿を変え、2020年の賤ヶ岳に現れた。

 日本には本来、中国の水虎に相当する妖怪はいないが、中国の水虎が日本に伝えられた際、日本の著名な水の妖怪である河童と混同され、日本独自の水虎像が作り上げられている。

 日本では水虎は河童によく似た妖怪、もしくは河童の一種とされ、河童同様に川、湖、海などの水辺に住んでいるとされる。体は河童よりも大柄かつ獰猛で、人の命を奪う点から、河童よりずっと恐ろしい存在とされる。

 滋賀県では別名「河郎(かわろう)」と呼ばれる。柳原紀光の随筆『閑窓自語』の「近江水虎語・肥前水虎語」では、琵琶湖付近には水虎が多く棲み、人を襲い、誘拐し、深夜に人家に来て人を呼ぶなどの害をなすとある。

 水虎が人間を襲う理由は、水虎が龍宮の眷属であり、自分の名誉を上げるためとされる。また水虎は48匹の河童の親分であり、河童が人間に悪事を働くのも自分の地位を水虎に上げてもらうためとされる。

 撃退する方法として、水虎に血を吸われた人間の遺体を葬らずに、畑の中に草庵(草で作った簡易な小屋)を作り、その中に遺体を板に乗せて置いておくという方法がある。このようにすると、この人間の血を吸った水虎は草庵の周囲をぐるぐる回り始め、遺体が腐敗するに従い、水虎の肉体も腐敗するとされる。水虎は身を隠す術を使うため、姿を見せずに声が聞こえるのみだが、水虎の体が腐りきって死に至ると、ようやく姿を現すのだという。

 また、水虎を避ける方法として、家に鎌を立てかけておく、麻殻や大角豆を家の外に撒くなどの方法もある。


 靖子を殺した真犯人は横溝だった。彼は靖子の元カレだったのだ。謎の自粛警察から不審な電話があったのにも関わらず、靖子が鍵を開けたのは犯人がかつて愛した人間だったからだ。

 靖子は横溝に殺されると悟った瞬間、彼の実家が滋賀の賤ヶ岳だと思い出したのだ。

 

 薬師寺は怨龍丸って伝家の宝刀で水虎を真っ二つにした。その瞬間、人間に戻った。賤ヶ岳の山頂からは北東に尾根が延び、その先には中川清秀の墓がある大岩山がある。北西には尾根が延びその先には、行市山(660 m)がある。南には琵琶湖東畔に沿って尾根が山本山(324 m)まで延びる。山頂からは、余呉湖、琵琶湖、竹生島、伊吹山などの360度の展望が得られる。


 ズンッ!薬師寺は体に衝撃を受けた。背後に横溝が立っていた。「バカな男だ、ヒャッヒャッ」横溝も警官隊に射殺された。

 薬師寺は薄れゆく意識のなか、思った。今度生まれ変わったら真っ当に生きよう。


 5月25日 - コロナウイルスに伴う緊急事態宣言が約1ヶ月半ぶりに解除された。

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自粛警察 鷹山トシキ @1982

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