2 - 限リナク鮮ヤカナ死ヘ
【もうじき消えて無くなる僕らに一体どういう物語が必要なのかが分かりませんね】
【そうは言いますが、最後の瞬間に、先生の作品を楽しみにしている人もいるんですよ】
【とにかく、僕は描きません。他に描きたい人はいるでしょう。そういう人に、リソースを回してあげてください】
【だから私個人としても先生の新作が――】
僕はチャットから退出した。緑の燐光が瞬いるだけの空間から作業用に構築した殺風景な
深く吐いた溜息には煮詰めて濾したような疲労感が滲んだ。
僕が管理AIから割り当てられた仕事は
小説、と言っても従来のような文字情報ばかりの媒体ではない(というのも、実質的な時間概念がない〈
僕が小説として構築した
もちろん小説も発表するにはリソースが必要で、
さっきのチャットはその担当
だが誰に何を言われようと、もう小説を描くつもりはない。
それは決めたことだった。
僕はこれまで、そこそこ名の知れた人気のある
しかし正直な話、電子化から間もなくしてこの仕事が割り当てられたときは、この管理AIは一体何を言ってるんだと、その有用性を本気で疑った。
僕は肉体があったころはしがないサラリーマンだったし、小説も映画もドラマもほとんど無縁の生活を送っていたのだ。
だが管理AIの職業診断は思わぬセンスを発掘してくれたらしく、僕は発表1作目で注目を集め、2作目にして訪問者1億5000万越えというメガヒットを打ち立てた。
だがそれももう無意味だった。
どれほど多くの人に享受される物語を仕立てようと、もうじき全ては消える。名声も称賛も虚しいだけで無意味で無価値だったのだと、僕は知ってしまった。
僕の視界の真ん中には
もちろんそんなことはしない。
だから
とは言え、電子化して以降、僕はずっと小説を描いてきた。それが仕事だったというのはもちろんあるが、それ以上に一つの小さな世界を生み出すことが快感だったのだ。
だからもう描かないと決めた今、困ったことにやることがなかった。
このまま呆然と滲み一つない壁を眺めていることもできるが、それでは自主凍結と大差がない。
僕は考えた末、自分の作った小説を一から体験してみることにした。
もちろん作者である僕はストーリーどころか作品の全てを知っている。だからこれは物語を体験するというよりも、自分が成してきた過去の業績を再確認していくという、それこそ生産性など皆無の虚ろな作業だった。
処女作はうだつの上がらないサラリーマンが唯一の趣味にしてささやかな幸せであるラーメン屋巡りを通して、店主や客など様々な人と出会っていくというもの。
当時、小説あるいは物語と言われても何を作ればいいのかさっぱりだった僕が実体験も交えつつ描いた作品だった。
最初の作品なので割り当てられるリソースもさほど多くはなく、ラーメンのスープを再現するのに苦労したのを覚えている。当時は渾身の出来だと思っていたが、今こうして振り返ってみるとラーメンの味には余計な
ストーリーも支離滅裂だ。特に客として訪れたピエロに感化された店主が空中ブランコ湯切りという謎の必殺奥義を開発するために肉体改造に苦心する、というストーリーはとびきりに意味不明だった。
そうして、物理時間で引き延ばせば小一時間程度の物語が終わる。体験し終えた僕には、どうしてこんな物語が注目を集められたのか――今更考えても意味のない疑問だけが残った。
作品に紐づけされたレビューには称賛のコメントが多く寄せられている。心ない誹謗中傷コメントもあったが、大半は温かい言葉だった。中でも空中ブランコ湯切りの発想と、忠実に再現されたスリルと達成感は至極だった、というコメントには声を出して笑いたくなった(出せる声がなかった)。
管理AIにやってみればと言われただけで、ろくに経験値もない僕が恐る恐る発表した作品。
こうして大半の優しいコメントに迎えられたからこそ、僕はここまで
称賛には気分をよくし、批判には肩を落としながら、膨大な量のコメントを流し読みしていた僕は、やがて一つのコメントに目を止めた。
投稿者は匿名。順番からいって比較的最近に登校されたコメントだ。だが作品に対するコメントはなし。代わりに長ったらしいリンクが貼られている。
リンクを見ただけでは何のリンクかは分からなかった。だがその意味を為さない文字列は、どういうわけか僕の興味を掻き立てた。
気が付けば僕は、コメントのリンクへと跳んでいた。
†
周囲の景色が瞬く間に解像度を失って暗転。やがて無数のポリゴンが浮かび、景色が再構成されていく。視界の中央では
どうやら匿名コメントのリンクは別の小説のものだったらしい。
人気作である僕の作品にあやかっての宣伝だろう。本来ならば削除申請すべき内容だったが、どうせこのコメントも、そもそも作品自体がもうじき消えるのだ。今更騒ぎ立てる意味はない。
間もなく再構成が終わる。
僕の視界に立ち現れた景色は無機質な白。雪のように繊細かつ凛々しい純白ではなく、どこか薄汚れた、だけど無機質で冷たい白だった。
遅れて僕はそれが天井だと気づく。少し視線をずらせば、取り付けられた蛍光灯が見えた。
匂いはしなかった。単なる無臭というのではなく、過剰なまでに清潔であることを強いられたような、そういう強引なクリーンさが空気から漂っていた。身体は重く、関節は何もしていないのに軋んでいた。呼吸が苦しかった。耳元では微かに、甲高い電子音が規則正しく鳴っていた。
僕にはこれがどこで、今自分が一体どういう状態なのか理解することができた。自分が小説を描く過程で、アーカイブされたたくさんの資料を漁っていたから知っていたのだ。
ここは病院だ。それも終末期医療専門の。
そして僕は患者だ。もう間もなく訪れる安らかな死を待っていた。
理解した途端、にわかに恐怖が訪れた。
同時に安堵もあった。
それはようやく人生が終えられるのだという安堵だった。
私はこれまで多くの死に関わってきた。
いや、死に関わることだけが私の人生だったのかもしれない。
幼い時に母が死んだ。朧げな記憶のなかには優しい母の笑顔があった。
母との思い出は少ない。唯一、鮮明なのは七歳の誕生日に母がキーホルダーをくれた思い出だ。周りの友達はVRゲーム機や人工動物を貰ったりしていたので、私は母に文句を言った。母は悲しそうな顔で笑っていた。
母が死ぬと父は分かりやすく落ちぶれていった。仕事をクビになり、酒とギャンブルに溺れた。そして中学に上がる頃に父が死んだ。部活から帰ると荒れ果てた部屋の真ん中で酒瓶を片手に父が息を引き取っていた。麻薬による中毒死だった。
引き取られた親戚のおかげで私は高校までは卒業することができた。だが成績が芳しくないと叔父に激しく殴られた。助けを求めた叔母は口元を歪めて見ているだけだった。
高校を卒業してからすぐに軍隊に入った。とにかく少しでも早く叔父たちの元から離れたかった。恩を仇で返すようで辛かったが、離れなければ殺されると思ったのだ。
軍隊では毎日のように上官にしごかれた。昼間の訓練で後れを取ると、罰として夜中に呼び出されて尻の穴を犯された。叔父の暴力などかわいいものだったのだと思い知った。同室で唯一仲の良かった同期は、上官に蹴飛ばされた拍子に頭を打って死んだ。
正式な配属が決まり、私は国内で頻発するテロ組織やゲリラの鎮圧に駆り出された。
私は痩せ細った身体で命乞いをする少年兵や、泣き叫びながら赤子の骸を抱える母親を撃ち殺した。悪いとは思ったが、これが自分の仕事なのだと言い聞かせた。
殺した人々の顔を忘れてはならないと思った。私はその日何人殺したのか、どんな人を殺したのか覚えていられる限りで書き綴ることにした。
殺した人数は二カ月足らずで一〇〇人を超えた。二〇〇人を超えたあたりで上層部から声が掛かり、東部国境沿いのゲリラ鎮圧の陣頭指揮を任された。
私が直接人を殺すことは無くなった。代わりに他人に殺すよう命令することや、他人に死ねと命じることが増えた。直接手を汚すよりも身体的な負担は軽かったが、心はその何倍も擦り減った。もうノートに書きこむのは止めた。
間もなくノートの存在が露見し、私には精神病質であるとの嫌疑が掛けられた。無論、ワイングラス片手に虐殺ショーを眺めるような上層部よりはまともな自覚があったが、聞き入れられることはなかった。私は精神病棟へと監禁された。
私の監禁は厳重だった。私物の持ち込みは許されず、肌身離さず持ち続けてきたキーホルダーも奪われた。逆上した私は職員と軍人を合わせて3人殺した。そこでようやく、私があまりに鮮やかな手並みで人を殺すので、党の上層部が私の存在を疎ましく思っていることを知った。
監禁されて間もなく世界規模の戦争が始まった。私は薬漬けになった頭で、窓の外を飛んでいく戦闘機を眺めていた。世界が火の海になっていくのを見ずに済むよう、空だけを見続けた。
ある日、精神病棟の近くに敵の爆弾が落ち、病棟が吹き飛んだ。多くの患者や職員が炎に焼かれて死んでいくなかで、私だけは無事だった。私は人の肉が焼ける汚臭に吐きながら、奪われたキーホルダーを探した。だがどこにも見当たらなかった。
私はそこで回想を終える。看護師が病室へと入ってきたのだ。
看護師はにこやかに私に話しかけながら、私の衣服を脱がしていく。にこやかに今日の天気の話などをしていたが、私には声を返すどころかどんな些細な応答もできなかった。辛うじて動く目の動きで何かを感じたのか、看護師は私に向けて〝今日は随分と元気ですね〟と微笑み、ぬるま湯に浸して絞ったタオルを使いながら私の身体を拭いていく。
湿ったタオルが身体の表面を優しく撫でた。看護師の手先の絶妙な指圧が長らく忘れていた私の皮膚感覚を惹起させる。ぬるま湯よりもいくらか冷たい空気がタオルの離れた皮膚に触れ、私は私の輪郭を思い出す。
看護師がゆっくりと私の腕を持ち上げ、それが視界に触れた。
酷く痩せ細った身体だった。身体が思うように動かなかったのも当然で、まるで削いだように痩せた腕には骨と皮しか残っていない。
看護師は私の身体を丹念に拭き終えると点滴薬を取り換え始める。今ならば身体に注ぎ込まれる薬液の一滴さえ、感覚できる気がした。
間もなく全ての仕事を終え、看護師が小さく一礼して去っていく。
鼓動が鮮明だった。
痛いくらいに胸を打つ心臓に、私はまだ生かされている。
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