5 - 彷徨エル魂ヘ

 小屋の入り口に垂れ下がるボロ布を捲り、僕は慎重に中へと入る。声は掛けなかった。小屋の周囲に漂う、静謐とか荘厳というべき空気が声を出すことを阻んでいた。

 意識を研ぎ澄ますと、遠くで鳴いている鳥や獣の声が聞こえた。あるいは風か何かで揺れた葉擦れの音が聞こえた。

 奥へと進む僕の全身に、重たい空気がまとわりついた。まるで水のなかにいるみたいな息苦しさを感じた。

 やがて通路の奥、左手側に、入り口と同じく垂れ下がる赤い布が見えた。室内だからか入り口にあったものよりものは幾らかきれいだが、酷く褪せて擦り切れている。目の前まで来て、それが電子化以前のある国の国旗を裂いたものだと分かった。

 布を潜ると六畳程度の広さの居間があった。本来ならばほとんど真っ暗であろう部屋は製作コーディングの際の設定オプションによって、暗いと認識しながらもはっきりと見渡すことができた。

 部屋の中心には何かの獣らしき黒い毛皮が敷かれている。その上には木製の頑健なテーブルが置かれ、周囲には乾かした蔦で編んだような椅子がある。部屋の右手側にある窓は打ちつけた木の板で塞がれ、湿気で歪んだ隙間から外の僅かな明かりがこぼれている。僕の位置のおよそ対角線上にある、埃をかぶった暖炉の前では安楽椅子がゆっくりと前後に揺れていた。


「ようこそ」


 その安楽椅子から嗄れた声がした。よく見れば、背もたれの上から微かに禿げた頭が見えた。


「……あなたが、老慎ラオシェンですか?」


 僕の質問に安楽椅子からの応答はなかった。質問に答えないことが答えなのだろう。そして代わりに僕にも問いが向けられた。


「ならば君は、正しく、そして確かに、桃山龍平タオシャンロンピンか?」


 僕は返答に窮した。僕は間違いなく桃山龍平タオシャンロンピンだ。そのことに疑いはない。だがと問われると、何故か僕はそうである確信が持てなかった。


「一体僕は、何なんでしょう……」

「座りたまえ」


 僕は老慎ラオシェンに促されるまま、蔦を編んで作った椅子に腰かけた。老慎ラオシェンの座る安楽椅子が前後に揺れながら向きを変え始める。やがて、背もたれに埋まり膝にブランケットを掛けたその姿が露わになる。

 老慎ラオシェンは裸だった。そして一糸どころか、一毛さえ纏っていなかった。背もたれ越しに見えていた頭は決して髪が抜け落ちたのではない。元から髪が生えていないのだ。生えていないのは髪だけではなかった。眉も髭も本来身体中にあるはずの産毛も、一本たりとも生えていない。

 だが異容なのはそれだけではない。

 老慎ラオシェンはひどく痩せていた。痩せすぎて肋骨ははっきりと皮膚に浮かんでいたし、こけた頬は刃物で削ぎ落としたようだった。腕などは日に当たっていないせいもあってか生白く、うっかりすれば白骨にさえ見えた。瞳は白く濁って昏く、鼻孔は溶けて癒着した皮膚によって塞がれていた。


「驚くのも無理はない。皆、アバターは健康で、最も輝かしかった己自身を、あるいは憧れと夢想のなかにのみいる己自身を、形作る」


 老慎ラオシェンは嗄れた声で薄く笑う。僕はすぐに我に返り、驚きの余り失礼な態度を取ってしまっただろう自分を戒めた。


「気にするな。異容キャラクターには慣れているはずにも関わらず、最初は誰しもがそういう反応をする」

「す、すいません……」


 静寂――。鳥の鳴く声が、淀んだ重い空気を裂いて聞こえてくる。


「あの、貴方の小説を、読みました。とてつもないリアリティに、圧倒されました。僕らは生きることを軽んじていたんだと、今ある全てはその劣化した真似事なんだと、気付かされてしまったんです」

「そうして、己が何をもって己であるか、失ったと」

「そういうことに、なるんだと思います。だから作者である貴方に、会いたかった」


 白濁し、どんな光を映すこともないはずの老慎ラオシェンの双眸が、ほんの一瞬だけ僕を真っ直ぐに捉えた。まるで僕の記憶メモリの全てを見透かすように、真っ直ぐに、奥深くまで、僕を捉えた。


「かつて、肉体は魂の牢獄であると、ある哲学者が言った」

「肉体は魂の牢獄、ですか……」

「魂は本来、天界に属するものだった。だが不完全であるが故に堕落し、肉体に閉じ込められて地上へと堕ちた。……これに倣えば、我々は解放されたと言えるだろう。肉体という軛から解き放たれ、魂の自由を手にした。この〈庭園ガーデン〉は、その哲学者に言わせればある種の聖域とも、解釈できるかもしれない」


 僕は二世界論や形而上的な世界の話を信じない。いや魂を電子化することが技術的に達成された300年前の時点で、多くの人々にとってスピリチュアルな神話はお伽話か思考実験以上の意味を持たなかったと言っていい。だから――


「聖性の問題ではない。ここで注目すべきは肉体的軛――時間と空間という有限性から、我々が解放されたことだ」


 僕の思考を先読みするように並べられる、いやそれよりも奥深くへ踏み込んでいくような老慎ラオシェンの言葉に、僕は頷く。


「ですが――」

「だが君は気づいた。というより疑問を抱いてしまった。これは、この300年は、本当に自由だったのだろうか。我々は本当に牢獄から解き放たれていたのか。そもそも肉体とは、果たして魂の牢獄だったのか」


 老慎ラオシェンの思慮深さ、そして思考の速さに僕は息を呑む。このまま話し続ければ、自分の全てを暴かれそうだった。だが恥もプライドも全てを粉々に砕いてでも、続けなければ僕の欲する答えを得ることはできないのだろう。


「君は〝テセウスの船〟というパラドックスを知っているかな?」

「長らく保存されてきたテセウスの船が時代とともに修繕され、全てのパーツが新しいものに置き換わったとき、それをまだテセウスの船だと言えるのかどうか、という奴ですね」

「いかにも。そして我々はこれに対して〝数的には同一ではないが質的には同一である〟〝記号としてのテセウスの船は保存される〟などと解答ができる。これらに共通するのは本質や概念としての同一性に言及しているという点だ」


 僕は必死で老慎ラオシェンの思考を追う。思慮に潜る。淀みなく放たれる言葉の一言一句、あるいは微細な行間さえも読み解こうと意識を研ぎ澄ませる。


「ならば人はどうだろか。かつて我々を構成していた肉体は時間の経過とともに全ての細胞が入れ替わる。しかしながら10年前の君も、現在の君も、生きていれば10年後の君も、君はそれが自分であると信じ、そこには疑問の余地さえ存在しなかったはずだ」

「僕ら人間は、魂という本質によってその存在の同一性を保証されていた……」

「その通りだ。だが魂とは一体何だろうか。人格や性格? それとも記憶? 死ぬと消える21グラム? 我々は安易に魂や精神に縋る。しかしそれは、確かに在りそうだが何処にもないという意味で、実に曖昧だ」


 300年前、僕らは魂を電子化した。だが一体、魂とは何なのだろうか。

 脳の思考パターン、記憶、エトセトラエトセトラ。それらの複雑な絡み合いが魂だと言えるのだろうか。

 僕の思考は沼に足を取られたように鈍くなり、間もなく言葉に窮した。紡ごうと集めた言葉はまとまらず、すぐに散り散りになってしまう。


「少し話を変えよう。閉塞した現実、不都合な肉体を棄て、我々は電子化を果たした。だがこの〈庭園ガーデン〉で繰り広げられるものを見てみるといい。それは君の目に、どう映る?」


 老慎ラオシェンの助け船で、僕は沼から抜け出す。再び思考が滑らかな回転を取り戻す。


「自由になった、とは思います。ですが真似事だった。肉体を棄てたはずの僕らは、仮初の身体アバターを所持し、対面での会話を欲し、仮想街区シティを作り、そして体験リアリティ物語ストーリーを求めている。…………これは矛盾だ」

「そう。だが、だからこそそれが本質だと、我々には理解できる」


 稲妻に撃たれたような衝撃が、僕の身体の奥を震わせた。それを察した老慎ラオシェンの白い瞳が、僕を吸い込むように捉えた。


「魂とは何か――。人格、記憶、思考パターン。おそらくそのどれも間違ってはいない。だが魂の本質ではないように思う。ならば、それらは一体どこからくる?」

「僕らを、僕らの魂を、形作るもの。僕を僕たらしめるもの……。それはたぶん、関係だ」

「ふむ。もう少し言葉を尽くしてくれないか」


 老慎ラオシェンが頷く。彼が見せた初めての動作だった。


「関係……そう、人でもモノでもいい。親からの遺伝子、生まれた環境、出会った友人、師、恋人。人を愛すること、憎むこと、夢を抱くこと、憧れること、学ぶこと、裏切られること、哀しみに暮れること。痛みも快楽も、全てが何かとの関係から生まれる」


 僕はこれまでになく思考を巡らせた。靄のような思惟を思索によって研ぎ澄まし、言葉へと変えた。紡いだ言葉に秩序を与え、僕は答えの一端に触れる。


「それらが魂――いや、違う。まだそれは個別の事象で、体験。そうか――関係性のなかで培った全てに、一つの秩序が与えられたとき、それは魂としてのかたちを帯びる」

「そうだ。だからこそ、我々は――」

「僕らは秩序を――物語ストーリーを求める」


 口にした途端、胸の奥が熱くなった気がした。あくまで気がしただけだ。僕らのアバターに、思わず涙を流すような情緒は存在しない。

 そのことがとてつもなく虚しく、そして寂しく思えた。

 魂はここにはない。〈庭園ここ〉にあるのは、魂の真似事だけだ。

 本当の物語ストーリーは存在しない。何故なら僕らが織り成す関係は、きわめて身体的なものだから。

 魂は身体と対を為す概念ではない。関係という雑多で膨大な身体性に与えられる一篇の物語ストーリーこそが魂なのだ。

 故に僕らは、身体の喪失を埋めるように、体験を欲し続けた。物語を求め続けた。

 だがもうそれらは、本来的には意味を為さない。〈庭園ガーデン〉は――人類が辿り着いた最果ての楽園は、どこまでも空疎だ。


「僕らはきっと、身体を棄ててはいけなかったんだ」


 僕が吐いた後悔こそ無意味だった。過ぎた300年は取り戻せない。一度棄てた肉体は、もうどこにもない。


   †


 随分と長い時間、薄暗い部屋を息苦しい絶望が支配していた。僕は一歩も動けず、一言も発せず、考えることすら止めて沈黙に沈んでいた。

 視線の先、机の上ではどこかの隙間から入り込んだらしい名前も分からない小鳥が、小さく囀りながら部屋のなかを見回していた。

 老慎ラオシェンも沈黙していた。僕へと向けたままの白く濁った眼差しは、僕を憐れんでいるようでもあり、まだ何かを僕に期待しているようでもあった。

 部屋を見渡していた小鳥がもう飽きたと言いたげに羽ばたく。その翼の躍動に、僕はふと思う。思っただけだったはずの願望は、ふと僕の口を突いて出ていた。


「身体を、取り戻したい」


 老慎ラオシェンが笑ったように見えた。だが見えただけで、老慎ラオシェンは変わらず微動だにすることなく僕を見据えている。


「身体が欲しい。〈庭園ガーデン〉にある贋作じゃなく、生身の身体が。痛みを感じ、病に罹り、やがて朽ちて無くなる身体が欲しい」

「分かった」


 僕の益体もない願望の吐露は、あまりに簡潔な老慎ラオシェンの言葉によって受け止められた。あまりに簡潔過ぎて、僕は自分の耳を疑った。


「……今、何て?」

「分かったと。いや、その言葉を待っていた、というのが正しいだろうか」


 理解が追いつかない。不安、恐怖。あるいは期待と高揚。無数の感情が僕のなかを錯綜する。


「待っていた? どういうことですか?」


 僕の問いに、老慎ラオシェンはゆっくりと答えた。白濁した双眸が眼差すものが一体何なのか、僕の理解は到底及ばない。


「我々はずっと準備してきた。いずれ〈庭園ガーデン〉のリソースが尽きることは分かっていたからね。そしてリソースが尽きれば、全てをリセットする以外に打開策は存在しないということも推測できた。だから準備してきたんだ。ここで生きた11億もの人々の生きた証を残すために」


 残す――。もう間もなく積み上げた300年の全ては消え、新たな時代がゼロから始まるというのに、どうやって? そして僕はこれまでの会話から、一つの解答に行き当たる。


「まさか――」

「いかにも。君を、君が積み上げてきたこの300年とともに肉体へ戻し、地上へと送る」


 老慎ラオシェンは僕の思考を見透かすように、静かにそう言った。

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