3 - 題ノナキ物語ヘ
僕はそこで小説から退出した。
薄汚れた白の病室は霧のように掻き消え、僕の前には元の
これ以上は耐えられない。
突き付けられた生の感覚と生きていると否応なく実感させられるからこそ際立つ死の予感に、僕は耐えられなくなって逃げ出したのだ。
だが傍から見れば僕はただぼんやりとゲーミングチェアに座っているだけ。
この打ち震えるような恐怖と痛みと感動を表現するだけのリソースを、僕は持ってはいなかった。
一体どれだけのリソースを用いればあんなものが作れる?
母との朧げな思い出に付き纏う寂寞の繊細さも、落ちぶれた果てに尊厳なく死んだ父への哀愁も。
叔父の罵倒と暴力がもたらした胸の苦しさも、上官に犯されながら感じた快楽と惨めも。
縋る少年兵の額に風穴を開けた瞬間の人として何か大事なものが失われる感覚も。
そして脈打つ心臓の鼓動も、もう動かなくなった身体にまとわりつく恐ろしいくらいの死の重さも。
この小説には全ての
電子で構築された虚構ではない。娯楽として消費される情報でもない。
それは圧倒的な現実感をもって、僕の魂を侵犯したのだ。
いや、そうではない。
あれこそが現実なのだ。僕らは300年――肉体を棄てて電子の世界に逃げ込むと決めたあの日からずっと、虚構のなかを生きてきた。僕は空ろな虚構のなかで、虚構を作っていたに過ぎなかったのだ。
悔しさは湧かなかった。
圧倒的な実力差を前にすると悔しさは湧かないという言うがその通りだった。
僕はあの小説の虜だった。
一体誰があんなものを作ったのか、知りたいと思った。
僕は再び自分の処女作を読み込み、レビュー欄からあのリンクを引っ張り出す。コメントは匿名だが、発表されている作品には〈
それがその作家の名前だった。
「…………
僕は僕のリソースではどうやっても再現できそうにない感情を少しでも現実のものにしたくて、わざわざ音に出して、その名前をもう一度呟いた。
†
その日から僕の〝
まず僕が知らないことは確かだった。聞いたことのない名前だったし、もし過去にあれほど凄まじい精巧さの作品に出会っていれば、少なからず覚えているはずだった。
小説を批評する掲示板をいくつか覗いてみたが、
次に同業者をあたった。だがこれは、僕がそれほど他の
となれば頼りになるのは
僕は新作を催促されるだろう鬱陶しさを覚悟して、担当の配当屋に連絡を入れた。
世界の終わりが近いので、
僕がチャットルームに入ってメッセージを飛ばすと、ほとんどタイムラグなしで応答があった。
【ようやく新作描く気になってくれました?】
【そうじゃなくて、聞きたいことがあって連絡しました】
【聞きたいこと? 何です?】
【
【
【いや、有名ではないと思います】
【
【彼――いや彼女かもしれないけど――コンタクトを取りたいんです。もし可能なら、会って話がしたい】
【先生がそうまで言うのは珍しいですね。分かりました。少し調べてみます】
【ありがとう。恩に着ます】
【その代わり、新作お願いしますね】
僕は
そうなる前に、僕はなんとかして
単なる興味は僅かな時間でかたちを変え、ある確信に変わっていた。
それは僕が求め続けた答えだ。
僕らは何故生きるのか。何を思って死んでいくのか。
望むことなく、何気なく生まれてしまった僕らの人生に、果たしてどんな意味があるというのか。
僕は知りたかった。
全てが消えてしまうその瞬間までに。
そうすれば世界が終わる7秒を、少しだけ前向きに受け入れられるかもしれないと思った。
いや、その確定した終わりが本当に受け入れるべきものなのかすら、答えが見つかると感じていた。
僕は再び錯綜する情報の海に埋没する。
あの様子だと
そうやって探索を始めて、どれほどの時間が経ったのだろう。
〈
訪問者は
【久しぶり。どうした?】
【うん。久しぶり。ずっと返事がないから心配してたの】
言われて僕はメッセージを確認する。言う通り
【
【大丈夫。忙しかったみたいだし。
そう告げた
【そう言ってもらえると助かるよ】
【でも、あれほどもう描かないって言っていたのに、描く気になったのね】
言葉を交わすたび、
【ああ、いや、そういうわけじゃないんだけどさ】
【そうなの? もしかしたらと思って、楽しみにしていたのに】
僕はそこでようやく違和感の正体を理解した。
僕らが繰り広げる
そう、僕らの会話には表情がない。
肉体を棄てて一個の複雑な情報体となった僕らには
もちろんリソースを割けば感情を、笑顔や泣き顔を構築することはできる。だがアバターの顔に意図して生み出された表情と、会話のごく自然な流れのなかで生じる微細な生身の表情は、根本的に異なっている。
会話とは本来的に、極めて肉体的なツールだったのだ。
今まではその欠落について、違和感を抱くどころか疑問に思ったことさえなかった。いやそれどころか、この〈
だが一度気づいてしまった違和感は、決してなかったことにはできない。それどころか、明確な歪みとして瞬く間に膨れ上がっていく。
僕は逃げるように
【大丈夫? 気分でも悪い?】
彼女は何一つとして悪くない。おかしいのは僕のほうだ。分かっているのに、どうにもならなかった。
そこでタイミングよく、返す言葉を失っている僕に助け船がやって来る。
だが珍しいことに、
だがいずれにせよ、今の僕にはこの助け船に飛び込む以外、この場をやり過ごす方法を思いつかなかった。
【悪い、
【ああ、うん。無理はだめよ?】
僕はチャットルームを展開する。僕が移動しきる刹那、
†
チャットルームに移動した僕を、古い時代の銅貨が待っていた。床も壁も天井もない、一面が灰色の空間で僕と
【お手を煩わせてすいませんね。例の
【珍しいですね。貴方がわざわざ対面で話したいって言ってくるなんて】
銅貨から送られてくる言語情報に、僕は応答する。
コミュニケーションの真似事ではなく、単なる情報伝達に徹する
【念には念を、というわけです】
僕は
【それで、どうすれば会えますか?】
【それは私にも分かりません。ただ
【確実性は高いんですか?】
僕は言ってから後悔をする。想像力の欠如した無意味な発言だった。
僕と
【物理時間4530秒後、
【アバターで? 何でまたそんな】
【分かりません。ですが、念を押されたので必ずお願いします】
【了解しました】
僕はしぶしぶだが、
〈
事実、僕のアバターを知るのは
だから先方が出してきた不可思議な条件に、僕はどんな意味があるのか想像すらできなかった。
【先生。気を付けてくださいね】
【気をつける? 何を?】
【あまり深追いはしないほうがいいって話です】
僕がその言葉の真意を問う前に、
だが当然のように、
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