7 - 此処デ生キタ君ヘ

   †


   †


   †


 銀色の、海が見える――


   †


 まず訪れたのは音だった。空気が勢いよく流れ込んでくる音。僕を包んでいた何かが外に溢れ出ていく音。

 そして僕は呼吸を取り戻す。少し黴臭いような、言葉にし難い匂いが鼻孔を通って肺に流れ込む。急に動かされた肺が激痛を訴える。僕は空気には微かな匂いがあることに、初めて気づいた。

 それから僕は重力に引かれるまま、倒れ込んだ。倒れた拍子に何かに肘をぶつけた。骨に響く痛みを感じた。鮮烈なそれは他でもない生の痛みだ。

 重力のせいか、あるいはまだ呼吸器が万全でないのか、それともこの300年で呼吸の仕方を忘れてしまったのか――僕は呼吸ができずに喘ぐ。まだ開くことのできない瞼を淡くも鮮烈な光が焼いてきて、僕は掠れた声を強引に震わせて泣いた。


「ううぁ、ううううっ、ううううああああああああっ、うああああああああああああああっ!」


 身体を取り戻したことが嬉しかったのかもしれない。

 追い求めてきた答えにようやく辿り着いて感極まったのかもしれない。

 あるいは置き去りにした世界に対して、この期に及んでまだ罪悪感があったのかもしれない。

 とにかく僕は泣いた。泣き続けた。

 幸い、僕の号泣を聞き届けるような人間はいなかった。泣きじゃくる僕を、抱擁で慰めてくれる春美チュンメイもいなかった。

 僕は孤独だった。

 僕が選んだ孤独だった。

 やがて声が出なくなって、涙も枯れて、僕は泣くのを止める。喉の奥がひりひりと痛んだ。手足は痺れていた。身体は重く、重力に圧し潰されてしまいそうだった。

 僕は生きていた。

 再現する虚構リアリティではなく、正真正銘の本物リアルのなかを。

 ようやく目を開くことができた。薄ぼんやりと、だが既に圧倒的な解像度でもって生身の現実が立ち上がってくる。

 灰色の空間。僕の身体を格納していた縦置きのポッドから溢れた緑色の液体が床にばら撒かれ、周囲にはおそらく人体を生成するのに使われただろう無数の機材。老慎ラオシェンが遠隔で操作していたのであろう無人機ドローンも、全ての役目を終え、機能を完全に停止して転がっていた。

 僕は立ち上がる。すぐに筋肉は悲鳴を上げ、関節が潰れる。骨は軋み、重力に抗った内臓は引き千切れそうな痛みを訴えた。

 僕はポッドから出て立ち止まった。額に浮かんだ脂汗が糸を引くように滴って床を濡らす。


「……生きるって、こんな、しんどい、のか」


 吐き出す。声は想像していたよりも高く、幼かった。まだ声変わりを迎える前なのだろうな、と全く働いていない頭でふと思った。

 自力で立っていることすらままならない僕は、幸いなことにキャスター付きの椅子を見つける。背もたれを掴み、椅子を杖替わりにして必死に歩いた。

 ほんの少し進んでは心臓が胸を突き破るような勢いで脈打ち、僕は何度も休憩した。すぐに息が上がり、その度に僕は激しく咽た。痺れたように動かなくなる手足を強引に動かして、進まなければならない呪いにでもかけられたように、ひたすらに前へ向かって歩いた。

 研究室らしき場所を抜け、通路を進む。途中、埃をかぶった白衣を見つけてそれを羽織る。誰に見られているわけでもないのに、裸体を恥ずかしいと思った自分に笑みがこぼれた。

 実を食べたアダムとイブは無垢を失い羞恥心を抱いたという。楽園から追放され、有限性を与えられた二人にほんの少しだけ自分を重ね、だが僕はかぶりを振る。

 そう、違う。

 僕は地上ここを自分の意志で選び、自分の足で立っているのだ。

 その事実は何度も折れかけた僕の身体を前へと進ませる原動力にもなった。

 やがて僕は一階へと辿り着く。そこが一階だと分かったのは、一面のガラス――砕け散ったガラスの残骸から、溢れんばかりの淡い光と冷たい風が入り込んできていたから。

 僕は光を目指した。吹き付ける風に懸命に抗って、弱々しい足取りで一歩、また一歩と前に進んだ。

 それはあまりにもぎこちなく、頼りない歩みだった。

 だがこれは紛れもなく僕が求め、そして手に入れた〝生きること〟だ。

 確信が道を切り拓き、間もなく景色が開ける。

 風が白衣を押しのけて、まだ乾き切らない肌に突き刺さった。淡い光は急速に奪われていく僕の温度を補うにはあまりに弱かった。

 もう滅びて久しい世界。だが僕は今ここで生きている。

 建物の周囲には罅割れたコンクリートの隙間から、名前の分からない樹木が生えて根を伸ばしている。人の――というよりも命の気配は微塵もなく、まるで忘れ去られたように崩れかけた廃墟が広がっている。背の高い建物は軒並み破壊されたのだろう。道路の至る所には僕よりも大きな瓦礫が転がり、見上げる空は灰色で広かった。

 あの空には、分厚く覆う灰色の雲の向こうには、春美チュンメイがいる。老慎ラオシェン配当屋ディーラーやフイが、11億もの人々の魂があって、そして終わりの時までを確かに生きている。

 それはどれだけのリソースを費やそうと、決して本物リアルにはなれないのだろう。

 僕らは一度、肉体を棄てた。同時に魂は薄まり、多くのものを失った。

 だが僕らは失って尚、演じ続けた。魂の真似事を、物語を求め続けた。

 僕は地面の下に張った根で隆起したアスファルトを越え、大きな建物に入った。もちろん扉ではなく、崩れた壁の瓦礫を乗り越えて。建物はずっと昔に爆撃でも受けたらしく、半分以上が崩壊していた。略奪のあともあった。白い壁の黒い滲みはたぶん、血の痕だろうと思った。元は病院か何かだったのだろう。壁にペイントされた赤い十字が、掠れて消えかかっていた。

 僕は手当たり次第に探し回った。大きな建物ならば目当てのものがあるだろうと踏んだのだが、瓦礫で進めないところも多かったし、やはり300年という時間の経過は甘くなかった。

 僕は運よく見つけた非常食の乾パンで飢えをしのぎながら何日もかけて院内を隈なく探した。

 良かったのは無理を押して動き続けたおかげで、何かに掴まらなくても歩けるようになったことだろう。筋肉痛というやつも、300年ぶりに体験することができた。

 それともう一つ。僕は院内でキーホルダーを見つけた。机と壁の隙間に落ちた、見覚えのあるそれを手に取ったとき、僕はひどく懐かしく感じて思わず泣いた。泣いてから老慎ラオシェンのことを思った。

 彼のサルベージの技術はたぶん、肉体を作るためなんかじゃなく、もっと個人的で切実な願いを原動力にしていたんじゃないだろうか。そんな気がしてならなかった。

 それから間もなく、僕はやっと目当ての紙とペンを見つけた。

 肝心の紙はほとんど炭化し、そうでないものも乾き切っていたが、筆圧に気を使えばギリギリ使えそうだ。むしろ深刻な問題はペンのほうで、長らく使われていないインクは完全に干からびていた。

 だから僕は自らの指を食い千切った。鋭い痛みが走り、血が迸る。

 生きている。ポリゴンでも計算でもなく、赤い血の流れる身体で、僕は生きていた。その何でもない事実に僕はまた泣きそうになった。

 ペンの先を滴る血に浸し、インクの代わりにする。彼らが生きた証を刻み込むインクとしてはこれ以上ないな、と思った。

 僕らはきっと生きたかったのだ。

 結論から言えば、真の意味で生きるならば、肉体を棄てるという選択肢は誤りだったのかもしれない。だが全ては虚構で、果てにはその意志さえ希釈されてしまっていたとしても、僕らが生きたいと望み、生きていた事実はそこにあった。

 だから僕は物語を綴ろう。一人の人として。あるいは小説家の端くれとして。

 僕や彼らが生きることを望み、確かに生きていたという証を、残すために。

 だが300年は想像以上に膨大だ。

 おまけに〈庭園ガーデン〉での時間はその何倍も加速され、密度の濃い時間だった。

 だから僕は、最初に綴るべき物語をもう決めていた。

 時間は限られている。だからまず最初に、〈庭園ガーデン〉で感じた全てがまだ鮮やかであるうちに、僕はこう書き出す。

 敬愛する恩人が、僕に授けてくれた言葉を借りて。


 ――かつてある哲学者は言った。肉体は魂の牢獄である、と。


 この物語に書かれるのは自分本位で情けない男の話だ。それはきっと読むに堪えない独白になるだろう。だが元々、僕に小説を仕立てるような才能はなかったのだ。だから今更になって気に病むことは何もない。

 だって僕らには、何であれ物語ストーリーが必要なのだから。

 僕自身の言葉で、僕自身の手で、僕自身の血で、君たちが生きていたことを伝えよう。他でもない、此処で生きた名も知らぬ誰かへ。

 そうして辿り着くのは、僕が見つけた答えだ。

 それに一体どんな価値があるのか、僕には分からない。

 でもきっとかつて滅びた世界だからこそ、伝える意味はあると信じている。

 苦境も、痛みも、喜びも、哀しみも、愛も、戦争も、飢えも、温もりも、暴力も、怒号も、抱擁も、暑さも、寒さも、塵も、花も、全部。

 僕らの魂なのだと。

 そうやって僕らは無数の関係性のなかで、魂を形作り、研ぎ澄ませ、飾り立てて生きるのだと。

 此処で生きた君へ、この物語を贈ろう――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

此処デ生キタ君ヘ やらずの @amaneasohgi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ