「書く読む」――その名のとおり、カクヨム読者のかなりの部分は、自ら何かしらの文を書く者だろう。
本作はまさに「書く」者にこそ読んで欲しい一作である。
作者の力量、熱量の高いことは同作者の他作品からも充分にうかがえるが、私個人としてはこの一作が最も「刺さった」。
それは本作のクオリティと込められた熱量に拠るところが大であるが。あるいは「私自身が書く者であるから」という点もまた大きい。
「書くこと」「生きること」を命丸ごとぶつけるかのように問う本作。自ら書き、そして生きる者には「刺さる」文句なくそう推せる一作である。
私達はここで幾千もの物語を読む。しかし、私達が見つめる端末の画面そのものに物語はない。画面に表示されているのは文字の羅列である。物語は、その文字に思いを託した書き手と、それを自らの経験に基づいて追体験する読み手の関係性の中にだけ存在する。
主人公は、人格を電子化した未来世界の小説家、桃山龍平。電子化された世界は300年続いたが、リソースの枯渇を打開するためもうすぐリセットされる。隆平はすべてが0に帰されることを前に書くことを止め、手持ち無沙汰にかつて自分が書いた小説を体験してみることにする。そこで彼は自らのリソースの貧弱さを痛感する (空中ブランコ湯切りは個人的に好きですが)。そして、小説に付けられたコメントの一つから別の小説を体験することになり、その小説のリソースの深さに感動する―。
リソースはシステムから与えられたデータ資源として説明されるが、読み進めていく内にそれは個人の体験の豊かさであることがわかるだろう。龍平は、実体験に基づかない虚構の世界でのエンターテイメント止まりである自分の小説の実力の無さを感じ、その別の小説を書いた老慎という人物を探し始める。
老慎を見つけ出した龍平は、彼への面会を許されるが、そこで龍平は自分が試されていると感じる。老慎は、「……あなたが、老慎ですか?」という龍平の問へは答えず、「ならば君は、正しく、そして確かに、桃山龍平か?」と応える。これは公案である。老師は修行僧の理解を試す。老慎は、肉体から精神を解き放つことは真の自由なのか、私達が自己 (魂) と認識するものはどこから来るのか、そして私達はなぜ物語を求めるのかを龍平から引き出そうとする。
そして龍平の出した答えは―。
西洋の実存主義とは異なる、東方からの堂々としたプラトン主義への挑戦が爽快である。