此処デ生キタ君ヘ

やらずの

1 - 終ワリユク世界ヘ

 かつてある哲学者は言った。


 肉体は魂の牢獄である、と。


 果たして本当にそうだろうか。いや、のだろうか。

 答えはついぞ分からない。

 きっと肉体を捨て、空間からも時間からも解き放たれたはずの僕らが分からないと思うのだからきっと、その答えは永遠に誰も知り得ないのだろう。


 前述の通り、僕らは――人類の多くは肉体を捨てた。

 2308年に起きた世界規模の戦争で、とある大国が使用した量子爆弾で地球の環境は完全に崩壊。奇跡的に生き残った人々も、もはや地球に住み続けることは不可能だった。

 僕らに残された選択肢は3つ。

 1つはありとあらゆる生物が死滅し、あるいはこれから死滅していくだけの地球と心中するという選択肢。

 2つ目は未だにテラフォーミングの完了しない火星へと移住し、開拓民フロンティア・パーティーとなって劣悪な環境下での生存に一縷の望みを託すという選択肢。

 そして3つ目は、有限の象徴である肉体を捨て、脳の複写技術をもって人格を電子化してしまうという選択肢。

 逼迫した戦争下の情勢のなかで、3つのうちのどれが人気だったのかは、問うまでもないだろう。

 全てを諦めて死ぬよりも、不確かな希望を抱いて歯を食いしばるよりも、少々の代償で確実に得られる平穏のほうがまず間違いなく魅力的だ。

 全世界の総人口、およそ16億人のうち約7割に上る11億人が電脳化を希望し、それは順次果たされることとなった。

 こうして人類史上類を見ないほどに遠大なが開始され、僕ら人類はあまりに広大で、そしてあまりに狭小なクラウドのなかに閉じ籠った。

 停滞した幸福。豊かな虚無。穏やかな絶望。

 それが僕らの手に入れた新世界。

 僕らは生き残るために肉体を捨て、そして魂すらも失った。


   †


 夜空を象った天蓋に花火が投影される。色とりどりの鮮やかな火花が散るたび、そこに集まる様々な姿――鶏やイヌやネコ、看板や本などの無機物もいる――をした人々キャラクターから歓声が上がる。

 僕は自宅用に拵えた非公開プライベートホームの覗き穴から、その光景を眺めている。

 もちろん夜空も花火も人々も、あるいは並んでいる出店から立ち込めるソースの匂いもライトアップされた街並みも、この季節に特有の肌にまとわりつくような熱っぽい空気も、本当は何一つとして存在しない。全ては数列が織り成す情報であり、目の前に広がるのは無味乾燥なデータでしかない。


「悪くない出来だけど、少し演出が過剰かな」


 僕は覗き穴に向けて呟いて、座っていたソファに思い切り寄り掛かる。ワイングラスへとマスキングを施した電子酩酊剤Eトリップを掌に出し、ちびちびと啜る。

 本来ならば情報でしかない僕らには仮想造形アバターも、ホームも、花火大会も必要ない。知識としてそれを得るだけならば、この膨大なリソースを誇る〈庭園ガーデン〉のどこかに保管されている資料をインストールすればいい。たったコンマ数秒で何時間も花火大会を楽しんだ気分になれる。

 だが僕らの多くはその手段を選ばない。

 かつて肉体を持った人々がしていたように、こうして時間と手間をかけ、体験に血を通わせようとする。

 それはきっと、僕らは本能的に物語を求めているからなのだろう。

 物語の価値はそこにこそあり、体験の意味はそこにある。

 だがどこまで突き詰めても肉体を捨てて電子の海に埋没した僕らでは、本物の体験は手に入れることは叶わず、享受できるのは虚構ばかり。

 僕らはたぶん本心では、その虚しさを分かっている。そんな気がした。


「純粋に楽しんだらどうなの?」


 声が聞こえて、振り返ればさっきまで何もなかった虚空に突如として現れた馬春美マーチュンメイが立っていた。春美チュンメイは色気のないジーンズ姿から一瞬にしてネグリジェへ着替えると、僕の膝の上に腰かけた。彼女の臀部の柔らかい感触や、痩せて骨張った肩甲骨が僕の胸へ寄り掛かって当たる実感があるのは、ひとえに僕のホームに与えられている――つまりは僕が持っている解像度リソースの高さゆえである。

 僕の上に座った春美チュンメイは覗き穴へと手を伸ばし、自分にも見えやすいようにその穴を拡張する。ちょうどいいタイミングで打ちあがった花火が、覗き穴を満たすように赤と青の光を散りばめた。


「何だろうね。職業病かな、少し分野は違うけど。もし日本の風物詩を再現するなら、あとほんの少し彩度は落としたほうがいいし、それにBGMはオペラじゃない」

「ふーん、これオペラって言うの。いい音楽ね」


 春美チュンメイは言いながら、僕の手から取り上げたグラスを一気に呷る。何も僕から取り上げる必要は全くないのだが、いつもの癖なので僕は特に何も思わない。


「でもね、龍平ロンピン。彼らはきっと過去の風物詩ノスタルジーに思いを馳せてるんじゃないわ。未来の終末リセット新時代アップデートに対して心躍って、騒ぎ立ててるの」


 春美チュンメイがにこりと笑う。頬がほんのりと赤いのは、もう既に酔いが回り始めているからだろう。


新時代アップデートね。……君も心躍るかい?」

「そうね。正直なところ不安も少しだけ。でもだからお祭り騒ぎしたくなる気持ちも分かるわ。みんな信じたいのよ、新時代アップデートがきっといいものになるって」

「なるほどね」


 僕は言って立ち上がる。立ち上がると言っても動作ではなく、ソファに座っている自らの仮想造形アバターを一度消し、立ち上がった状態で再構成する。春美チュンメイがさっき突然に現れたのとおおよその方法は同じだった。

 下にいた僕が消えたので春美チュンメイの身体は自動的に落下し、ソファにぽすりと埋まった。


。花火、楽しんで」

「えー、もう行っちゃうの? 楽しい夜はこれからよ?」

【ごゆっくりどうぞ】


 僕は会話を通常の速度へと切り替えて言い、春美チュンメイの言葉も待たずに箱から退出フェードアウトする。


   †


 最近になって、人類が〈庭園ガーデン〉という精神の電子化を選択したことは正しかったのだろうかと、あまり意味のない思索に耽るようになった。

 確かにここは自由だ。そして肉体という枷に縛られなくなった僕らは、限りなく純粋で完璧なかたちに近い自由を手に入れた。そういう意味でこの〈庭園ガーデン〉は楽園パラダイスだと言い換えることもできるのだろう。

 たとえば労働からの解放。

 もっとも精神の電子化を行う際、その性格傾向や電脳適性によって僕らには一応の仕事が割り振られているから、働くという行為と無縁ではない。

 ここで一応、というのは、仕事はおしなべて娯楽であり、責務でも職務でもないからだ。

 友人と疑似的な食事を楽しんだり、エキサイティングな体験を味わったり、そういうことと等しく。僕らにとっての仕事とは溢れんばかりの選択肢の一つであり、例えば割り当てられた職業が気に食わなければ、何一つ仕事に従事しないという選択も僕らには可能でさえある。

庭園ガーデン〉を運営するために、一介の情報に過ぎない僕らが為すべきことは何もない。〈庭園ガーデン〉は完全自律の人工知能によって管理されている。

 だから僕らは気の向くままに芸術活動デザインをしたり、社交場コミュニティを運営したり参加したりして、人との交流を楽しんでいればいい。肉体を持たない僕らには食事も排泄もないし、貧困や病気とも無縁。さらに言えば生物としてごく当たり前の過程である出産や成長や老衰はおろか、その結末である死という観念さえも希薄だ。

 そうやって時間も空間も、古臭い倫理や常識を気にすることもなく、僕らは刺激的な時間とワクワクするような交流を営んだ。もちろん気疲れすれば自閉し、ただ漫然と時間を貪って過ごすこともできた。

 データとして保存されている昔の小説なんかで、僕ら同様に電子化された人間が身体の欠落――つまりは感覚の喪失に苦しむ描写がちらほらあるが、あれは真っ赤な嘘だ。限りなく自由である僕らは興味さえあれば疑似的な肉体をデータとして構築し、美味を礼賛することも、痛みや病に喘ぐことも体験できる。

 肉体を棄てた僕らは、何一つ不自由がないという点で限りなく自由だった。

 だが楽園はいつまでも続かない。

庭園ガーデン〉は今、一つの終わりを迎えようとしている。

 あるいは大衆的に言い換えるなら、新時代アップデートとでも言えばいいだろうか。

 だが、どれだけ耳当たりのいい言葉で取り繕おうとも、それは否応なく一つの世界の終末で、それでいて僕らに与えられる疑似的な死でもあると、僕は思う。

 物理時間にしておよそ8798901471秒――278年と9カ月に相当する圧倒的な時間のなか、僕らは生き続けてきた。戦争と環境破壊で壊れていった地球とともに、終わるはずだった人類の営みはそれだけの間、電子の海のなかで延々と続けられてきた。

 だが、当初は無尽蔵だと思われていたリソースは300年足らずで底を尽きた。かつて石油などの資源を野放図に採掘し、地球という広大な惑星ほしを出涸らしにしたように、僕らはクラウドが持っていた全てのリソースをもう間もなく使い切る。

 計算リソースが乏しくなったことと古いデータが蓄積され過ぎたことを原因とする速度遅延ディレイ接続不具合バグなどがあちこちで生じるなかで、管理AIが下した結論は実に簡潔で、抜本的な改革だった。

 リセット。

 物理時間8798901472秒もの間、僕らが積み上げてきた全てを消去デリートし、クラウドを空の状態に戻すこと。

 僕らはまた0から、悠久の時を刻み直していくことになった。

 つまり僕らはもう間もなく死ぬ。この〈庭園ガーデン〉で僕らが積み上げてきた全ては消え、個人情報として担保されていた記憶情報パーソナル・コアさえも消滅する。

 管理AIが予告する、その壮大な破壊と再創造にかかる物理時間はわずか7秒。

 少しボーっとしていれば過ぎ去るような一瞬で、僕らの全ては消滅し、世界は無垢へと還る。

 社会はそれを新時代アップデートの到来と呼んでいる。

 人々はそれを心待ちにしているかのように、至る所でお祭り騒ぎを時代の節目を祝っている。

 無論、僕が考えすぎなのかもしれない。

 この電子の海に作られた無数の箱は消え、あらゆる記憶情報も失われる。後に残るのは虚無に戻った電子の世界と同じく空っぽになった僕ら個々人のアカウントだけ。つまり桃山龍平タオシャンロンピンというデータの外枠は空っぽの器としてアップデート後も残るという。

 だからそれは〝死〟ではないと、春美チュンメイは言っていた。

 言うなれば、かつて僕らが肉体や脳に生命活動の大部分を依存していた時代の、〝記憶喪失〟に近いのだと。

 だが僕は思ってしまうのだ。

 肉体を捨て、魂を担保として生き延びた僕らが、その魂さえ捨ててアカウントという記号に成り下がったとき、新時代アップデートを迎える僕は、果たして本当に僕だと言えるのだろうか、と。

 だがいくら考えたところで答えなど分からなかった。

 確かなのは、もうすぐ世界が消えるということだけだった。

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