29歳
水に広がる淡い水色のインクの上から、ぽたぽたと若草色を垂らして和紙に写し取ったような、柔らかな色あいの
祖母の桐の
網戸のむこう、遠くのほうでセミがジワジワと鳴いている。ちいさな田舎町の盆踊りだ、華やかにする必要はない。結局リボンのようにぱっと華やかな文庫結びはやめて、帯の癖に従う。
帯をぐいと背中側にまわしたとき、ふとドレッサーのなかの自分と目が合った。下地、コンシーラー、クリームファンデ、フェイスパウダー。入念に肌をつくりあげた気でいたけれど、鏡に映るわたしはどこかぼやけている。
カラーメイクなしには、この平凡な顔は浴衣の色に負けてしまうのだ。
長方形の鏡のついた古いドレッサーに向き合い、わたしはまず眉を明るいブラウンで太めに描いた。それからコーラルピンクのリップライナーでくちびるの輪郭をなぞる。その内側をリキッドルージュで塗りつぶしてようやく、多少は見れる顔になった。
あとはブラウンのチークを少し
「おばちゃーん!」
ラベンダーのミストを顔に吹きかけ、飾りのないコームで髪をまとめていると、子ども特有の大きな声が響いた。間を空けずにとととと、と軽い足音が近づいてくる。
返事をするまえに、足音の主は階段を駆け上がる勢いのままに
「わあっ、おばちゃんきれいやね」
少女というにはまだ幼いその子は、目をまるく見開いてわあっと笑った。濃い青を塗りたくった夏の空を見上げるひまわりのように、一点の曇りもない。
「ありがとう。ひまりちゃんもきれいやん。お母さんに着せてもらったと?」
「うん!」
ひまりちゃんは腕を伸ばしてくるりと回った。
肩上げした紅色の浴衣の袖と、その背でリボン結びにされた白とピンクの
「すっかりお姉ちゃんやねえ」
「うん、もうぞう組さんやけね」
「じゃあ来年、ひまりちゃんも小学生? もうそんなになるんやったかね」
ついこのあいだまで、ベビーカーのなかからもみじのようなちいさな手をうんと伸ばして、だっこをせがんでいたのに。
ひまりちゃんは目をきらきらさせて、わたしの顔をじっと見ている。
「おばちゃんいいなあ、きらきらしとう。ひまりも化粧したい」
「お化粧はねぇ……」
五歳の女の子のやわらかな肌には刺激が強い。よく日に焼けているから痛みもでるかもしれない。しばらく考えて、わたしはドレッサーの上の化粧ポーチをさぐった。
「お化粧はお母さんがいいって言ってからね。かわりにこれ塗っちゃろうか?」
淡いピンクのネイルカラーのなかにグリッターをみつけたひまりちゃんは、にっこり笑って何度も
町の盆踊りは大雑把なもので、夕日が落ちてきて、入道雲が金色に色づきはじめたころからぽつぽつとひとがやぐらのある広場に集まりはじめる。スピーカーから「炭坑節」が流れてはじめて団地を出るひとも多い。
ひまりちゃんはわたしがすぐに来ないものだと思って、わざわざ呼びにきたのだという。玄関を出て、
「お父さんが、おばちゃんなかなか出てこんかもしれんっち言いよったもん」
「ばあちゃんの
家紋入りの大きな提灯がわずかな風に揺れた。
もちろん言葉の半分は本心だった。
もう半分は、たしかに祖母のドレッサーに向き合い、網戸越しに夕日が沈んでゆくのをぼんやり眺めていたい、そんな気持ちがあった。
盆踊りが終われば、団地に詰まった祖母の持ちもののほとんどを処分し、退去の手続きをしなければならない。そうしたらわたしはもうこの町を訪れることはないだろう。
ひまりちゃんともお別れになる。繋いだ手をぎゅっとにぎると、彼女はわたしを見上げて微笑んだ。目じりの上がった二重の目は、高田の兄ちゃんによく似ていて、澄んでいる。
「お父さーん!」
やぐらは毎年同じ表情で広場の真ん中に立っている。はしごの横に給水器を置く父親を見つけると、ひまりちゃんはすぐに駆けていって、ぎゅうと抱きついた。よほど嬉しかったのか、しきりに淡いピンク色の爪をみせている。グリッターが夕陽をきらきらはじくから、わたしは目をそらした。
広場の
焼香をすませてから、改めて祖母をながめる。毎日椿油をひたしたつげの櫛で髪を整え、お化粧をやめてもスキンケアは欠かさなかった。遺影のなかで微笑む祖母は、ひまりちゃんと同じくらいまぶしい。
好きなものをほとんどあきらめてしまってから、どれくらいになるだろう。芸術科のある高校を出たときにはもう、世界を巡って絵を描くなんて子どもじみた夢はびりびりに裂かれて足元に散らばっていた。母ひとり子ひとりの我が家では、画材代を
それでもせめてなにか綺麗なものに触れていたくて、卒業と共にデパートのコスメカウンターで働きはじめた。仕事はたのしい、やり甲斐もある。けれどもう自分には歳相応のメイクしかしないし、あれほど好きだった絵はずいぶん描いていない。――もう描くこともないだろう。
セミの鳴き声はずいぶん遠くにいってしまった。
まもなく日が暮れる。
「大往生やったね」
背中越しに懐かしい声がきこえた。「高田の兄ちゃん」、そう言いそうになって、とっさに口をつぐんだ。彼が結婚してからそう馴れ馴れしく呼ぶのは止めていたのに、幼いころからの習慣というものはなかなか抜けてくれない。
「――高田さん」
高田さんはひまりちゃんを危なげなく片手で抱え、「よお」と言って笑った。
「ぼちぼち集まってきたけん、曲鳴らそうと思うばって」
「ああ、うん。今年もひまりちゃんと踊ろうかね」
高田さんはやぐらに張られた紅白の幕のなかで、選曲をしながらいまだ現役のレコードに針を落とす。ここ数年はずっとそうだ。
「ひまりは踊らんよ。太鼓たたくけ」
舌っ足らずに言ってのけたひまりちゃんの言葉に、思わず息を飲んだ。驚いて高田さんを見上げると、少し困ったように目をすがめている。
「ひまりちゃん、やぐらにのぼると?」
「のぼるよ」
腕からひょいと跳び降り、ひまりちゃんはいたずらっぽくこちらを見て笑った。
「子ども会でね、太鼓の練習したと。ひまりが一番上手かったけのぼっていいちおいちゃんが言いよったもん」
おいちゃんとは、町内会長だろうか。
それでね、と続けるひまりちゃんの前に膝を折って目線を合わせる。もの怖じせずに、彼女はまっすぐにわたしを見た。
「おばちゃんと、おばちゃんのばあちゃんのためにたたくけね」
なんとか「ありがとう」そう言うと、ひまりちゃんはわたしたちを残してやぐらに向かって駆けていった。夕陽は町営団地の裏っかわに落ちて見えなくなった。空にはまだわずかに赤い色が残っているけれど、それも間もなく消えてしまうだろう。
「兄ちゃん、
「町内会長の許可はあるけん。それに
やぐらの上にはひまりちゃんがひとり。
子ども用に少し細く削ったばちを持って、曲のはじまりを今か今かと待ち構えている。
わたしが小走りにやぐらに近づいたとき、広場のスピーカーからジュッというレコード特有の音が響き、ややあって「炭坑節」のイントロが流れはじめた。
パイプ椅子に座っていたお年寄りや、広場の奥にある公民館の壁にボールをぶつけて遊んでいた子どもたちが、やぐらのまわりの輪に入って踊りはじめる。
――おれらも変わったんやけ。
ずっと、ここは世間からおいてけぼりにされた古ぼけたちいさな町だと思っていた。ほんとうにおいてけぼりになっていたのは、やぐらにのぼれずに泣いていたあの日のわたし。
踊るひとたちの輪から少し離れたところで、やぐらの上のひまりちゃんを見上げた。頬に触れる。泣いていたあのころのなめらかな肌はもうない。ちいさな願いも初恋も夢も、なにもかも叶わなかったけれど、胸のなかにあたたかな雫がぽたり、ぽたり、落ちては滲んでゆく。
赤みが消えた紺色の空には、こぼれた涙のように星がきらきらと輝いていた。
おいてけぼりの町 戸谷真子 @totanimako
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