週末『武蔵野』山歩。

石束

『武蔵野』のまくわ瓜

 何でそんなバカなことをするのだ?と聞かれて、その男は答えた。

「そこにそれがあるから」

 山へ行きたい人間が山に行く理由なんて、そんなものである。


 とはいえ。と、北海道知子は窓の外を見た。

 梅雨明けすぐの休日だ。蝉の声に陽炎が揺らめくアスファルト。

 バスをまっているだけで即身仏になれそうだ。

 彼女は夏がキライだ。本当に嫌いだった。

 北海道出身の彼女は暑さに弱い。もちろん彼女は寒いのも嫌いだった。北海道出身者がみんな寒さに強くて雪が好きだなんて思われては困る。

 そんな彼女が冬にもまして夏が嫌いなのには相応の理由があるが――それはいい。


 ちなみに彼女の名前は「北海」と「道知子」で切る。

 北海と書いて「きたみ」と読み、道知子と書いて「みちこ」。

「『道』だけでは融通がきかない。「知る」ことがあれば迷わないだろう」と、祖父と父が辞書と首っ引きで考えてくれた名前ではあるが、関東の大学に進んだ後は「ホッケちゃん」と呼ばれて定着してしまったためか、日ごろ道を間違うことも要らぬ遠回りをすることもあり、あまりおかげがない。

 今もこうしてコンパスと旅行雑誌から切り取った地図片手に「うむむ」と迷っていた彼女であったが――ふと頭を上げ部屋の隅に目をやった。

 実家から届いたクールな宅急便である。中身の正体に察しがつく上に冷蔵庫(単身用)の容量の問題で放置していたのを開けてみると子供の頃から親の顔よりも見慣れた球体の果物が出てきた。

「うちのメロンだ」

 そして白い封筒。

 盆には帰れと書いてあるのは読まなくともわかっている。

「……」

 だがその時。道知子の脳裏に一冊の本が浮かんだ。

 国木田独歩の『武蔵野』である。


 ◆◇◆


 道知子は俄に山行の準備を始めた。

 最近、出歩くのも人に会うのも「おっくう」でザックもシューズも仕舞きりだったが、全部ひっぱりだしてちゃぶ台の周りに並べた。そうして丸いちゃぶ台を時計回りに回りながら必要なものと不必要なものを選り分けていくのが、彼女が山の準備をする時の常だった。

 選り分けながら一通り旅程をさらう。

 ――夏の雑木林と低山。湧き水の水源に向かって登って降りてを繰り返し。三駅向こうのロウカル線の無人駅へたどり着く行程。――四時間くらいか?

 ならばトレッキングシューズはミドル(カット)の固め(のソール)でもいいだろう。

「軽いほうが楽だ」と布のローカットにして、歩き始めて間もなく泥濘にはまったことがある。ましてや今回は何度も歩いた道で少し重い靴でも最後まで歩ける自信があった。

 靴を決めれば、それに合わせて装いが決まる。

 汗はかくだろうが着替えはいるだろうか? そっちは最低限にして薄くて風通しのよいアウターを持っていこう。夏用のパイルのソックス。下(ボトムス)は化繊の七分丈。夏用のダンガリーの長袖を着て首元に保冷剤入りのスカーフを巻いて、つばの小さい麦わら帽子を被っていこう。

 ならばザックは替えの下着と雨具、水と行動食、ヘッドライトに救急箱、その他小物といったところか?

 山仲間に「心配性ザック」とか「優柔不断バック」とか、変なあだ名で呼ばれているおっきめのデイバックでいいだろう。

 ……

 何が「ザックが本体」だ。何が「プチ強力伝」だ。

 人がちょっと小柄だからって、好き放題いいがやって。

 担げんだから、いいじゃねえか。


 ◆◇◆

 

 昔風のボンネットバスを降りて、時刻表を見る。

 帰り時間の確認ではなく非常時には車道へ降りなくてはいけないので、路線と運行状況を知っておく必要があったからだ。

 とはいえこれは現実的ではない。山から道へは急な斜面で何かの事情で人里へ帰る場合になっても、そちらの方が元の道を辿るより明らかに困難だった。できれば考えたくない。

 

 夏焼の空の下を道知子は青青と広がる稲穂の間のを歩いていく。

 既に足元はアスファルトではない。猪除けの獣害防止柵にそって山すそを回り込むと何かの境界の存在を示すかのように苔むした石組みの祠があった。

 この「ほこら」は山頂の龍神の社から分祀したもので、古くはあっても由来は確かである。

 帽子を脱いで右膝をついて、一礼。

 手帚で軽く払い水瓶にミネラルウォーターを注ぐ。

 最初に訪れた時になんとなく手で落ち葉を払って以来の習慣だった。

「――――」

合掌をといて道知子は目を開けた。靴ひもを締めなおし頭を上げる。

 意識してゆっくり立ち上がる。屈伸をしてアキレス腱を伸ばし。前屈をして体を起こし。胸を張って深呼吸する。

 10時前で街の温度は30度に近いはずなのに山の空気は澄んで冷たい。

「おーし。」

 ひゅつと短く息を吐いて。サングラスの位置を定めバンドを締める。

 今日はザックのほかに大きめのウエストポーチもつけている。これも締めなおす。

 ザックをゆすり上げてポジションを決める。

 タスキにかけるようなベルトはない。高校の遠足で肩掛けのバックをナナメにかけてたら「パイスラだ」とかいって喜んだバカがいたからだ。

「……」

 だから彼女は夏が嫌いだ。薄着でないと生きていけない夏が大嫌いだ。

 道知子は以来すべてのバックを背負うタイプにして、ショルダーを捨てた。 


 右足から踏み出し彼女は山道を登り始めた。

 息はすぐに上がった。

 道なりに進むと緩やかな坂道になった。真っすぐな、針をつけて垂らした糸のような木立。ちらちらとこぼれる光をつばの向こうに感じる。

 落ちる影が肩をなめていくのを感じる。——だが、どうにも。

 息が乱れて、肩が痛くて、首が痛くて、靴が重い。

「……しんど」

 思いのほか体が云う事を利かない。

 ブランクというほどに間をあけたつもりはなかったが、何もかもがぎこちなく思えた。油をさし忘れたブリキの人形のようだ。

 すぐに後悔が始まる。

「……なんで山登ろうなんて思ったかな。わたし」


 山を登るのに理由はいらない。だが彼女が『武蔵野』を歩くには理由がない。

 あえてそれでも。この美しいけれど痛みを伴う一冊とともに山行に出ようというのであれば、なおもう一つくらい『動機』が必要だった。


 ◇◆◇


 国木田独歩に『武蔵野』という随筆がある。


 目に映る風景を絵でなく言葉で描き出すかのような、随筆である。

 言文一致体の最初期の表現とされている。

「言文一致」というからにはそれまでの文章は「言文不一致」なわけで、文章といえば「文語体」だった。これは漢文を翻訳するには非常に便利だけれど、欧州の文学を翻訳する際には一度口語の日本語に直しさらに格調高い漢文調の文語に直しと二度手間になり、正確を期する上でも表現を工夫する上でも文語は西洋文学を学ぶ人にとって「枷」となりつつあったから、言文一致運動は起こるべくして起こったブレイクスルーと言えたかもしれない。

 しかし文学とは正確であればよいというわけでなく、心打つ感動でなければならない。言文一致とは文語に比して分かりやすく伝わりやすい等の情報伝達上の有利不利ではなく、日常使う言葉の中にいかに美しい表現を見出しうるかという文学上の可能性への挑戦だった。


 ……てなことを道知子はゼミのレポートに書いた。


 しかし正直なところ。困ったことに。

 独歩が音なき森に声を聞き、道を歩いては人生を想うと授業で聞いても、道知子は別段文学だなあとは思わない。

 彼女に言わせれば、独歩がやたらと風景を擬人化したり小さな変化や音に気づいたり散歩中分かれ道で棒を倒したくなるのは、けだし失恋をしたからである。

 傍にいた人がいなくなって一人きりの部屋にいれば静寂が気になって仕方ないし、風の音にも意味を感じる。

「あの時、彼女にどんな言葉をかければよかったのだらう」

とか思って散歩をしていたら、そりゃあ分かれ道で棒を倒してみたくもなろうというものだ。

 あまりに身に近すぎて「そうか。まあ一杯のみねい」とか言いながら、サッポロビールでも奢ってやろうかという気分になるだけだ。

 まったく、なんでゼミで『武蔵野』やってる時に私は失恋などしたのだろうか。

 こんな調子で田舎に帰る気になんてなれないが、言い訳の仕方もわからない。

 ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう。

 ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう。


 気づけば。

 息は整っていた。肩が風切る音がして、足元の木の根も見える。

 顎を引き顔をあげる。リズムが戻ってきた。

 木影を踏んで歩き続けた。


 ◇◆◇


「おおやあ。きたのけ」

 ようやく下までおりてきて。

 顔見知りの駄菓子屋のおばちゃんに挨拶して、緋毛氈敷いた縁台に腰かけ、体の一部になりかかっていたザックを引きはがす。

 店の裏口脇にある年代物の汲み上げポンプを力任せにがしゃがしゃやると、そんなに慌てるなとでもいうようにさらさらと水が上がってきた。

 しびれるほどに冷たくて幽かに粘性も感じるほどにこわい水だ。

 木桶にスイカが冷えていたがその隣に後生大事に抱えてきたマスクメロンを沈めてある。


『武蔵野』は秋冬の描写が多く豊かであるが夏の風景もなくはない。水路と茶屋と清水にワァズワス。そしてまくわ瓜。

 まくわ瓜は昔から食べられている瓜でお盆のお供えものになったりする。(実家ではお盆のお供えもマスクメロンであるが)

 現在のメロンほどに甘くもなく果汁も少なかったろうが、これが作中実にうまそうに描かれる。それを思い出した途端、絶対にメロンをもってこの駄菓子屋を訪ねようと思ってしまった。思ってしまったからには煮立つような炎天下であろうが道知子はここへメロンを抱えてやってこねばならなかった。帽子もアウターも放り出し靴も靴下も脱いで、年代もののポンプで汲んだ井戸水でしゃばしゃと顔を洗って。おばちゃんと二人でメロンを食べねばと思ったのである。

 一応出すところに出せばひと玉五千はするだろう超高級品だが、それでも正直作中のまくわ瓜ほどにはこのメロンが上等であるとはおもえなかった。くやしいがやはり独歩は旨い。けれど、まあ。駄菓子屋のおばちゃんはそれはもう喜んでくれたので。


 道知子はひとまず満足したのだった。         

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週末『武蔵野』山歩。 石束 @ishizuka-yugo

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