ACT.4
赤坂にあるそのレストランは、規模はそれほど大きくはないが、大正年代末の創業で、まあ老舗といわれる店である。
俺が路地裏で待っていると、通用口を開け、仕込みを終えた白衣姿の男が、前掛けで手を拭きながら現れた。
何も言わずに俺は缶コーヒーを一本渡し、
『どこで俺のことを調べたのか知らないけど・・・・』
『代官山の”ラ・ブランシェ”ってフレンチレストランについて調べていたら、この店の名前が行き当たったんですよ。あそこのオーナーシェフ、
男は缶コーヒーのプルトップを開け、半分ほど啜ってから、手近に置いてあったビールケースに腰かけ、
『ああ、あんたの言うとおりだ。あれは今から30年ほど前の事だったかな』
彼はそう言って、ズボンの尻ポケットから財布を出し、そこに入っていた古びた写真を見せてくれた。
店の前で撮ったものだろう。10人ほどのコック服を着た従業員たちが並んで写っている。
二段目の一番端に並んでいたのが、彼、つまり
『俺と渚は出身地こそ違うが、どちらも中学を卒業してすぐに上京して、料理人になることを志してこの店に入った。』
俺は写真を見直した。
猪熊氏は20年経った今でもあまり変わってはいないが、渚の方は随分変わっていた。
眼鏡をかけて、痩せていて、身長もそれほど高くはなく、どこかおどおどしているような感じに見えた。
しかし、先日ベルに潜入して貰った時に見たあの顔は、異様な自信に満ち
修行中の彼は、無口で物静かで、お世辞にも器用とはいえない性格だった。
先輩やオーナーからはしょっちゅう怒鳴られ、それでも技術を覚えようと必死に見えたという。
『俺は自分の家が田舎で食堂をやっていたものだからね。
『渚は毎日人に負けまいと必死に努力してた。よく言ってたよ。
”俺は将来料理だけで人を惹きつけられるコックになりたい。そのためなら何だってする”ってね』
店に務めること10年、その頃になって、猪熊氏はようやく認められ、セカンドになった。
丁度同じころ、オーナーが亡くなった。
先代には娘が二人おり、次女は後を継ぐ気はなく、会社員と結婚した。
そして長女と結婚をし、店を継いだのが猪熊氏だったのである。
単に腕前だけの問題じゃない。彼女は人柄その他を含めて、猪熊氏を選んだという訳だ。
『その時だったよ。彼が急に店を辞めると言い出してね。』
またコーヒーを一口飲む。
同期で働いてきたよしみもあり、彼には店に残って、自分の右腕になってほしい。そう思って何度か説得をしたのだが、渚の決意は固かった。
『自分からお嬢さんを取った男の下では働けない。そう思ったということですか?』
彼は空き缶をビールケースの上に置き、立ち上がってゆっくりとした口調で言った。
『そう思われても仕方ないかもしれん。でも俺は別に横取りしたつもりはない。ただ彼女が選んだのが俺だった。そういうことだよ』
そのまま金山は店を離れ、自分で貯めた金でヨーロッパに渡り、料理の修業に明け暮れ、日本に戻ってきたのが、今から3年ほど前の事だったという。
『手紙を貰ってね。一度会ったんだが・・・・・昔とはすっかり変わっていた。なんていうのかな。悪魔的というか、ちょっと薄気味悪い雰囲気を漂わせていたよ』
そのうちに今の”ラ・ブランシェ”を開店し、今に至っているという訳だ。
『あの店には行かれたことはありますか?』
俺が聞くと、彼は『もうすぐ仕込みだから』といい、前掛けをはたいて立ち上がったが、通用口を入る時に、
『一度だけな。ただ、あれは料理なんていうもんじゃない。見かけはともかく、味は・・・・』
それ以上は何も話さず、そのまま店の中へ戻っていった。
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